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58.ハンク・ビートという男





「レイエス、私はもう疲れたよ……」


「労働とは疲れるものです」


「あいつの要求は異常だよ……」


「それは最初からわかっていたことでしょう? 彼は最初から普通ではなかったではないですか」


「……甘かった」


「それ、リーヤも言っていましたよ」


 参考文献を読みながら返答する聖女は、もう特に見向きもしない。

 慣れたものだからだ。


 ここ数日、報酬と甘言につられた哀れな同期たちは、疲弊した身体を引きずって聖女の教室にやって来る。


 正直なぜここに来るのかと思わずにはいられない。

 まあ、今はここが一番来やすい場所なのだろう。


「――あ、いたいた」


 その子供の声に、テーブルに突っ伏していたハンクの身体が震える。


 クノンがやってきたのだ。


「そろそろ休憩終わりだよハンク。さあ行こうか。そろそろ僕の満足いくベーコンを作ってね」


 今ハンクにとっては、クノンは重労働を強いる雇い主である。


 そのクノンは、まっすぐ霊草の様子を見に行く。

 まるで女性に声を掛けられたかのように、迷いなく。


 霊草シ・シルラはもうすぐ収穫できるはずだ。

 実に順調に成長している――というのを確認する。本日六回目だ。もちろん前回から変化はない。


 なお、聖女は同期に対して、「勝手に教室に入っていい」と伝えてある。


 聖女はもう、一々誰か来るなり対応するのが面倒臭くなったのだ。

 入ってはいけない時や、不在の時は鍵を掛けるので、これで問題ない。


「もう少し休ませてくれよ……ここ連日、ずっと火を使い続けてるんだ。前日の疲れが残ってるんだよ……」


「大丈夫だよ。身体は疲れてても魔力があれば魔術は使えるよ」


「……レイエス助けて」


「お話が済んだのなら速やかに退室をお願いします」


 雇い主クノンの要求も然ることながら、聖女の無関心ぶりも大概である。


「そのクールな態度も可愛いね、レイエス嬢。お昼また来ていい? 一緒に食べようよ」


「私の分のサンドイッチを持ってきてくれるなら」


 もはやクノンの軽口にも無関心である。


 確かに聖女レイエスは、常人と比べて感情面の起伏があまりないのだと思い知る。

 さらっと触れる程度ならわからないが、情ではなく理屈や合理性で動いていると感じる。


 知れば知るほど、それは顕著である。


「よかったね。失敗してもレイエス嬢が食べて処理してくれるって。さあベーコン作りに戻ろうか。それとも成功報酬いらない? いらないなら別にいいけど」


「くっ……人の弱味に付け込みやがって……!」


 クノンが納得するベーコンが完成した暁には、日当のほかに成功報酬も出る約束である。


「僕から言わせれば、中途半端な仕事で報酬を貰おうと考えてるハンクの方が問題あると思うよ」


「おい、ぐうの音も出ない正論はやめろよ。可愛げがないぞ」


「男性にまで可愛いと思われたら身が持たないよ」


 まるで女性には可愛がってもらえていると断言しているかのようだ。

 大した自信である。


 ぐずるハンクを連れて、クノンは教室から出て行った。


 静寂を取り戻した教室に、ぱらりと書類を捲る音だけ聞こえる。

 聖女は小さく呟いた。


「――今日もお昼代が浮きましたね」


 ここのところ、ハンクがベーコン作りを失敗するおかげで、失敗ベーコンを使った昼食が回ってくる。


 食べた限りでは、普通のベーコンとそう変わらないと思うが。

 しかし、あれではまだまだ、クノンの注文には応えられないのだとか。


 果たしてクノンがどこまで求めているかはわからないが、聖女としては大変助かっている。


 お金を稼ぐ目途は立ったが、報酬自体はまだ得ていない。

 聖女のお財布事情は、今なお苦しいのである。





 クノンとハンクは、再び校舎から出てきた。


 日差しは強い。

 もう秋のはずだが、夏の名残りはなお健在である。


「じゃあよろしくね」


「はいはい……」


 煙りが出るので、少し校舎から離れた場所に設置された、小さな燻製器。

 中には、さっきとは違う肉がすでにセットされてあった。


 一口でベーコンとは言っているが、肉の種類は豚のみではない。


 豚、猪、牛、馬、鶏。

 変わったところでは、熊やトカゲ、蛇、魔物や魔獣の肉も試している。


「はあ……」


 溜息を吐きながら、ハンクは一番下の段に火を入れる。


 火を出すこと自体は、火の紋章持ちの魔術師には初歩の初歩だ。

 ただし、これを長時間維持するとなると、話は別だ。


 火を使う魔術は、他と違って飛び火や事故が非常に怖い。

 火を使う時は絶対にその魔術から離れるな、とハンクは教わっている。


 このベーコン作りにおいては、常に一定の火を維持する必要がある。

 強火になったり弱火になったりするわけにはいかないので、非常に気を遣うのだ。


 ――思った以上に困難で退屈な仕事だった、というのがハンクの飾らない感想である。


 時間は取られる。

 気は抜けない。

 疲れる。

 拘束時間が長い。


 多少報酬がいいことが妥当だとさえ思えるようになってきた。


「ハンクってさ、要領悪い方?」


「は?」


 いつもは「よろしくねー」とさっさとどこかへ行ってしまうクノンが、今日はハンクのすぐ隣に残っていた。


 瞳が見えない眼帯越しでも、クノンの視線と意識が向いていることがハンクにはわかった。


「要領は……いい方ではないだろうな」


 ハンクはもう十八歳だ。

 十三歳でここディラシックにやってきて、絶対に魔術学校の入学試験に合格するために、五年もの下積みを積んできた。


 五年だ。

 下積み修行が無駄だったとは思わないが……まさか入学試験が絶対に合格するものだとは。


 知った時は、膝から崩れそうになるほど愕然とした。

 己の間抜けさに涙が出そうだった。


 それを思えば、絶対に、要領がいい方ではない。


「僕は、魔術って便利なものだと思ってるんだ」


「私もそう思うよ」


 魔術は力だ。

 力とは便利なものだ。


 力とは、人を傷つけるものでもあるし、人を守るものでもある。

 人の生活を壊すものでもあるし、人の生活を豊かにするものでもある。


 力そのものに善悪はない。

 すべては術者の使い方次第である。


「じゃあそろそろもう一歩先に進もうよ。僕はずっと待っていたのに、どうしてなんの工夫もしないの? ハンクなら絶対できるはずなのに」


「……え?」


「便利な力をもっと便利に使おうって話だよ。ハンクは魔力の操作も制御も上手い。でも型にはまり過ぎだと思うよ。

 魔術ってもっと自由でいいと思うんだ」


 魔術は自由。

 いまいちピンと来ないようで、しかしわからないとも言い切れない、不思議な言葉だった。


「火に匂いがあってもいいと思うんだ」


「は? 匂い……?」


「色が違う火があってもいいと思う。その場でずっと一定火力で燃える火があってもいいし、特定の何かだけ燃やす火があってもいいじゃない。

 僕としては物質として触れる火があってもいいと思う。

 でも火の魔術はよく知らないから、それができるかどうかはわからないけどね」


 やはりクノンの言うことはいまいちよくわからない気がする。

 でもなぜだかわかる気もする。


 ベーコン作り。

 この単純な作業で、クノンは本当は何を求めているのか。


「もしかして、変わった火でベーコンを――」


 と、ハンクが言いかけたその時。


 校舎二階の窓から顔を出した、青いローブの女子が「おーいクノンくーん」とクノンを呼んだ。


「――じゃああとよろしく!」


 もう呼ばれるなり、だ。


「お、おい……!」


 止める間もなかった。

 今少しばかり大事な話をしていたと思うが、それでもクノンの行動に迷いはなかった。


 クノンは直前までハンクと話していたことなど全部投げ捨てて、踵を返して宙を駆けあがっていく。


水球(ア・オリ)」の階段である。


 薄氷のような「水球(ア・オリ)」を生み出して、足場にしているのだ。

 初めて見た時は驚いたが、何度も見ているのでもう見慣れた。


「――ご指名ありがとう、眠り姫。君たちのクノンはここだよ」


「――あははー。相変わらずクノン君は面白いねー」


 初対面ではないのだろう。

 そんな挨拶代わりの軽口を言い合いながら、クノンはさっさと窓から校舎に入り、ハンクの視界から消えた。


 あの辺は、クノンの借りている教室辺りだ。

 きっと呼んだ女子は客なのだろう。眠り姫って呼ぶ辺りからして。きっと。





「……魔術は自由かぁ」


 いろんな勝手を言い放って、放ったそのままに、勝手に引き上げていった年下の魔術師。


 なんの収集も付けていない言葉たちが、ハンクの胸中を渦巻いている。


 匂いのある火。

 色の違う火。

 一定火力で燃える火。

 特定の何かだけ燃やす火。


 言われたそれらは、ハンクが微塵も思いつかなかった発想である。


 ハンクは頭を掻く。


「……助手歴が長すぎたかね」


 ずっと教師の助手をしてきた。

 ずっと誰かの指示を受けて働いてきた。


 それも、助手だから、調べ物の手伝いやメモ書きの清書などの雑用が多かった。


 魔術の知識や、基礎に則った魔術は成長した。

 だが、思考の面では型にハマったことばかりしてきた自覚はある。


 だから、すぐに思いつきそうなことも、考えつかない。


 このベーコン作りだって、ずっと火を焚いている必要はないのだ。


 要は、木片や香草の熱と煙で肉を燻せばいいのだ。

 なんなら従来のベーコン作りに則する必要さえもないはず。


 結果として、クノンの望むベーコンができれば、それでいいのだから。


「ああ……なるほど。これが実験か」


 もう助手ではない。

 受け身でいても、誰も指示などしてくれない。


 ここからは、ハンクは自分で考えて学び、試していかねばならない。

 そのスタート地点に、ようやく立てた気がした。


 特級クラスの諸々に戸惑い、やることが見出せず迷っていた思考が、ようやくまとまってきた。


 で、あるなら、考えることは一つだ。


「――さっさと成功報酬を貰わないとな」


 おぼろげながら、やりたいことも見えてきた気がする。

 あの年下の魔術師が、指針の方向を示してくれた。


 ならば、もうこのベーコン作りに時間を費やす必要はない。





 それに、もうすぐ今年度が始まって一ヵ月が経つ。

 そろそろ派閥が動き出すはずだ。


 その前に思考がまとまったのは、幸運だったのだろう。





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