52.入学の日
「いってらっしゃいませ」
「いってきます」
リンコに見送られ、クノンは家を出た。
天気は上々。
遠くから流れてきた風が、残暑の熱をゆるく遠くへ運んでいく。
雨が降らなくてよかった。
人生の大きな節目となるであろう魔術学校入学の日は、きっとこんな、なんでもないいつもの天気でいいのだ。
これから毎日のように通うことになる場所だ。
見えなくても一人で行けるよう、ちゃんと学校までの道は覚えた。
そこまで距離もないので、クノンは徒歩で通うと決めている。
周囲の音はクリアだ。
雨の日は足元も悪く、また周囲の音も聞こえづらくなる。こうなるとクノンはなかなか普通に歩むのが難しくなる。
本当に晴れてよかった。
「――おはよう、クノン君」
「――おはようございます、クノンさん」
「――ハッハッハッハッハッハッ」
「――ワン! ワン!」
「――ハッハッハッハッ」
ご近所との関係もそれなりに築けた。
家の近くにあるパン屋や雑貨屋はすでに常連だし、ディオさん家の丸太細工のような大型犬はとても可愛い。あとどこの家の犬か知らない犬も可愛い。首輪をしているのでどこかの飼い犬だとは思うが。
近所はすでにクノンの目のことを知っているので、見かけたら声を掛けてくれる。
優しい人たちと犬たちである。
「――おはようございます。今日も美しい美声ですね。あなたの美しい心の美声まで聞こえてくるかのようだ」
「――やあ、美しいよだれだね。まるで美しい犬のようだ」
そんなご近所の人たちと犬に挨拶をして、足を進める。
と――ふとクノンは足を止め、「鏡眼」でそれを見た。
「……こんにちは」
今日も挟まっている。
そして反応はない。
道中、建物と建物の間にある、人が一人通れる程度の狭い路地裏。
そこには、見上げるほどの巨漢がぴったり挟まっている。
肌は赤く、伸ばし放題の髪は白く、筋骨隆々の身体は服をまとわぬ裸。浮かんだ血管が実に雄々しい。
調べたところ、オーガという魔物らしい。
――彼は、見かけた時は人かと思ったが、クノンの後ろにいる蟹のような存在である。
いや、正確には違うのかもしれない。
何しろ、彼を背負う魔術師はおらず、彼は狭い路地に挟まったまま身じろぎもせず、ずっとそこに居続けているのだから。
クノンが見つけた二週間くらい前から、ずっとだ。
ぴったりした場所にフィットするのが好きな変質者でも無理がある期間の長さだ。
まあ何より、実体がないので触れないから。
彼をすり抜けて犬が出てきた時は驚いたくらいだ。
これも法則崩れのパターンなのか、それともただの例外なのか……
「……これも調べればわかるかなぁ」
相変わらず、おかしなものはたくさん見えている。
クノンの「鏡眼」は、まだ動く物を見るのが難しい。
見た情報が、瞬きの間に大きく変化する。
その情報量の多さを、脳が受け付けてくれないのだ。
一瞬見て解除する。
そして見た景色を後から解読する。
まだそんな繰り返しでしか、物を見ることができない。
これでもだいぶ慣れた方だが……常人のように四六時中視界を得ることができるようになるのは、まだまだ遠そうだ。
それが叶うと、きっとこのオーガのような謎の存在も、たくさん発見できるのだろう。
別にしたいわけでもないが。
さすがにこの手の謎の存在にも慣れた。
それでもずっと気にはなっているので、いずれ答えが見つかるといいのだが。
クノンは無事魔術学校に到着した。
「クノンさん。おはようございます」
「その声はルーベラさん?」
校門付近に誰かいるとは思ったが、入学の手続きをした時に会った受付嬢だった。
「これから校内に案内をしますので、私に付いてきてください」
「はい。……あれ? 僕一人ですか?」
「三人は先に行っていますよ。入学試験の時に筆記試験を受けた場所がありますよね? あの場所まで案内しますので」
「もしかして僕だけ特別に案内を? ありがとうございます。ルーベラさんは優しい人だ」
「頼まれただけですけどね」
「好きになってもいいですか? まあすでに好きですけどね」
「はいはい。どうせ女性には全員言ってるんでしょ」
「僕はそんなに浮ついた男じゃありませんよ。言ったのは九割八分くらいです」
「そこまで行くならいっそ十割の方が男らしいと思いますけどね」
言わなかった二分の女性が逆に気になりつつも、受付嬢はクノンを案内する。
「では私はこれで」
「案内ありがとう、お礼に昼食を奢らせてください」というクノンを華麗にかわして、受付嬢は去っていった。
自称ガードの堅い女性らしい振る舞いである。
そんな受付嬢を見送り、クノンがドアを開けると――
「――納得いきません」
案内された先では、何やら揉め事が起こっていた。
「いや、私に言われてもね……」
教室内には三人いる。
「納得いかない」と言っている一人は、入学試験の時に約束を取り付けられなかった聖女レイエス・セントランス。
聖女に詰められて困っているのはハンク・ビート。
そして、二人が揉めているのでどうにも所在なく困惑しているリーヤ・ホース。
一緒に入学試験を受けたクノンにとっては、同期と呼ぶべき者たちである。
「おはよう。また君たちに会えて嬉しいよ。え? どれくらい嬉しいかって? 毎朝の厚切りベーコンがいつもより厚切りだった時くらいだよ」
「……」
「……ああ、おはよう」
「おはよう、ございます」
相変わらず聖女には無視されたが、ハンクとリーヤは返してくれた。
「何か揉めてた? 僕で良ければ相談に乗るけど」
「揉めてた、っていうか……」
言い淀むハンクは、聖女に視線を向け――それに反応して聖女が言った。
「特級クラスの方針について相談していました。仕送りが打ち切りだとか、自分で生活費を稼がないといけないだとか、入学前に聞いてませんでしたから」
「ああ、なるほど」
だから納得できない、と。
確かハンクは、下積みとしてこの魔術学校の教師の助手を務めていたとか。
だったら学校の内情もそれなりに知っているだろう、と考えて、聖女は相談していたのだろう。
「君は大丈夫でしょ?」
「はい? 何を根拠にそんなことを? 言っておきますが、私は単純計算で月に百五十万ネッカは稼がないといけないのです」
月に百五十万。
クノンの約二倍の収入が必要とは。いったいどういう生活をしているのか。
「やっぱりいい女は自分磨きのためにお金がいるの?」
というクノンの発言は無視し、聖女はこう続ける。
「仕事を探してみたら、一ヵ月にそんなに稼げる仕事などない、あるとしたら貴族の愛人になるしかないと言われました。不敬な」
感情に乏しい、と言っていたはずだが、聖女からはわずかに怒りの感情が伺える。
恐らく相当なのだろう。
傍目には「ちょっとイラッ」くらいのものだが、実際はかなり怒り心頭だったりするのかもしれない。
「百五十万か。大金だね。でも君は大丈夫でしょ? ――僕らは大変だよね」
クノンがハンクに言う。
彼も特級クラスを希望していたから。
なお、聖女のナンパは今はいい――押してダメなら引いてみろ、というイコの教えを思い出したからだ。
もちろん興味は今でも特盛だ。
「ん? うん……いや、私は楽だよ。私は庶民だし、自分の食い扶持だけ稼げばいいから。でも君は貴族の子だから、色々と入用なんだろう?」
「そうなんだよね。僕も自分の生活費くらいならどうにでもなりそうだけど、使用人の給料がね。圧迫するんだよね」
いっそ使用人を家に帰す、という手もあるのかもしれないが、クノンにはその決断は非常に難しい。
ある程度のことはもう一人で大丈夫だとは思うが、きっと一人で暮らすのは難しい。
家事なりなんなり手伝いは必要だと思うし、更には気心の知れる者が一人は近くにいてほしい。
色々な意味で明るくなったクノンだが、やはり一人は寂しい。
「――やあ、揃ってるな」
そんな話をしていると、教師がやってきた。
入学試験の時に会ったサーフ・クリケットと、助手のセイフィである。