36.細々とした準備
「思ったより時間がないですね」
「そうだね。結構ギリギリだったかも」
クノンは侍女と一緒に、旅立ちの準備をしていた。
もう引き払うつもりで離れの荷物を整理し、最低限必要な旅の荷物をまとめ終えたところである。
持って行かないものは、本館にある本来のクノンの部屋に運ばれることになる。
魔術関係の書類や本ばかりだが。
クノンの目標は果たされた。
一応。
ちょっと異常なものまで見えているが、それでも「目玉を造る」という目標は果たされた。
そろそろ春が終わる。
もうじきクノンの誕生日が来て、十二歳になる。
そして、誕生日を一区切りと考えて、家族とともにその日を過ごしたら、すぐにヒューグリア王国を発つ予定となった。
――魔術学校へ行くのだ。
「細々したものは現地でどうにでもなりますし、準備らしい準備はこれくらいでしょうか」
「うん」
荷物は少ない。
絶対に持って行かなければならないものは、寝間着と下着くらいだ。
「魔術学校では寮に入るんですよね?」
「いや、それがね」
基本はそうらしいが、クノンは割とギリギリまで魔術学校に行くかどうか、はっきりしていなかった。
そのせいで、寮の申し込み期間が過ぎてしまっていたのだ。
こうなると、あとは現地交渉となる。
空き部屋があれば寮に入るし、寮が無理なら他に住処を探すことになる。
まあ、お金はあるのでなんとでもなるだろう。
「というわけで、向こうで探すことになるみたい」
「なんだか大変そうですね」
「そうなんだよ。こうなると頼りになる侍女が一緒に来てくれるとありがたいんだけどね。どう思うイコ? イコどう思う?」
「――すみません、クノン様」
そう。
クノンが最も信頼を寄せる侍女は、魔術学校へは同行しない。
魔術師には王侯貴族も珍しくないので、一人か二人くらいなら、寮に使用人を連れていくことが許されている。
父親はクノンに同行する使用人を付けるつもりだが――ただ、最もついてきてほしいと思っていた侍女イコは、この話を断ったのだ。
「すみません」
侍女は謝罪の言葉を重ねる。
「――私、結婚したいんです。すでに少し適齢期を過ぎていますし、もう今しかないんです。今諦めたら一生諦めることになると思うんです」
そう言われると、さすがにクノンも強く同行を求めることはできなかった。軽くしか求められなくなった。
侍女の結婚が遅れているのは、ずっとクノンに付きっきりだったからだ。
本人は決して言わないが、さすがにクノンにもわかる。
気が付けば、常に一緒にいたのだ。
クノンが侍女の存在を認識していない時も、きっと、ずっと傍にいてくれていたはずだ。
彼女の献身には感謝している。
だからこそ、これ以上侍女の人生を、己のために使わせるわけにはいかない。
――と、頭ではわかっているのだが。しかし気持ちの上ではなかなか割り切れない。
「僕がイコなしで生きていけると思う?」
「じゃあクノン様が私と結婚してくれますか? してくれるんですか? 言っておきますけど私は浮気も愛人も絶対に許しませんよ。ミリカ王女殿下と別れて私を貰うんですか?」
「来世の予約ということでどう?」
「残念。私は今が良ければそれでいいタイプなので。明日のことも来世のことも知りません」
なかなか刹那主義の侍女である。
この頃、グリオン家全体が少し慌ただしかった。
クノンが魔術学校に行くことが決定したので、その準備に追われていた。
細々とした手続きがたくさんあったり、旅程の計画を立てたり。
旅先の最低限の知識も必要だし、その土地のおいしい食べ物も知らねばならず、調べることも多かった。
完全に予想外だったのは、兄イクシオの剣術の師であるオウロ・タウロより連絡があったことだ。
曰く、「遠くで月日を過ごすなら、短い間でも本気で剣術の基礎を学ばないか?」とのお誘いだった。
ここ数か月、クノンは目玉造りに夢中だった。
それまでは日課にしていた型と素振りも、気分転換に気が向いた時だけやるくらいだった。
すっかり身体がなまっている。
それを自覚したクノンは、旅に耐えうる体力作りも兼ねて、泊まり込みでオウロ師の世話になることを決め――
結局、一週間帰れなかった。
逃げ道を塞がれ、とんでもなく厳しい訓練を、半ば強制的に受けさせられた。
おかげで少し老人に対する不信感が芽生えたくらいだ。
あとこの話をクノンに内緒で承諾していた父親にも少々不信感を抱いた。
何があるかわからないので、少しでも強くして送り出したい……そんな父の愛情からである。
自分のためだというのはクノンにもわかっている。でも不信感はぬぐえない。
まあ、その甲斐もあって、なまりきった身体もそれなりに生き返った気はするが。
そして、泊まり込みの剣術訓練が終わりグリオン家に帰ると、それを見計らったかのように先触れが届いた。
ミリカからだ。
明日、ゼオンリーを連れてそちらへ行く、とのことだった。
「クノン君!」
ミリカの声を聞くのは、約四ヵ月ぶりである。
決して走らないが、できるだけ早く歩く愛しい足音もだ。
「殿下!」
こんなに会わなかったのは初めてだ。
懐かしさが込み上げる。
本当に、クノンは懐かしくて涙が出そうだった。
だが、涙は引っ込んだ。
「……だよなぁ」
予想はしていた。
してはいたが、違和感が強すぎた。懐かしさも込み上げる感情も霧散してしまった。
――ミリカは、己の背丈ほどもある大きな一枚羽が、頭から生えていた。
一目見てクノンは思った。
あ、でっかい羽ペンが頭に刺さってる、と。
……その衝撃が強すぎて、美しい金髪にアイスブルーの瞳の、生涯初めて見る絶世の美少女であることが霞んでしまった。
ミリカはこんな顔立ちで、こんな人だったのか。
そんな感動さえも、全部霞んだ。
もはやクノンにとっては、ミリカは頭に羽ペンが刺さった女性でしかない。
「クノン君?」
「会いたかったです、殿下。頭の方は大丈夫ですよね?」
「はい、私もクノン君に会い……頭?」
実際刺さっているわけではないので、大丈夫に決まっているのだが。でも言わずにはいられなかった。
「――お久しぶりです、クノン様」
ミリカの後から離れず付いてきたのは、第三騎士団所属騎士ダリオ・サンズだ。
護衛と監視として同行する彼は常に控えめだが、この前まで、二年もグリオン家に通い詰めていた者である。
「こんにちは、ダリオ様」
週一回とはいえ、二年も会う機会があったのだ。それなりに親しくもなる。
そんな彼は――巨大な白い大剣を背負っていた。
もちろんクノンにしか見えない例のアレである。
実にかっこいい。
そして――
「ようクノン。俺を呼び出すとは偉くなったなぁ、おい」
そして、悠々と遅れてやってきたゼオンリー・フィンロール。
クノンの師匠で、魔術に関しては全幅の信頼を寄せる偉大なる王宮魔術師。
彼は、そう、彼の姿は……
「――眩しい……っ!」
全身輝くゼオンリーの姿は、金色の光に包まれていて、一切何も見えなかった。
豪華である。
派手である。
これが自信から来る輝きだというなら、ゼオンリーの性格に似合わないとは言わない。
だが、見方によっては、全身ぼんやりの父親よりひどいことになっていた。
だって、光に包まれて何も見えないのだから。
人型の光でしかないのだから。