294.吸い込まれる!!
――この穴はなんだろう。
森の中。
何もないそこにある、それ。
空間に走るヒビ割れは、大きくはない。
ちょうど大人の腕くらいだろうか。
その隙間から見える、闇。
じっと見詰めても、それ以上の何かが見えることはない。
闇の奥には何もない。
夜の闇より深いそれは、何なのか。
「……クノン? 何かわかった?」
本人が思うより、長く凝視していたらしい。
微動だにしないクノンに気付いたレーシャが問う、が。
「あ、いえ……何なんでしょうね」
――「鏡眼」のことは国家機密扱いである。
だから話すことはできない。
「鏡眼」でおかしなものが見えることも。
ヒビ割れが見えることも。
話せるのはヒューグリアの上層部か師ゼオンリーだけだ。
ミリカも知っているが。
国の方針で秘密になる、と告げてからは、それに関しては一切聞くことはなくなった。
彼女は、クノンの視覚に「鏡眼」と名付けられたことも知らないのだ。
だからミリカにも話せない。
むしろ話さない方がいいだろう。
「そっか」
レーシャは頷いた。
本当に納得したかどうかはわからないが、追及はしなかった。
「思ったより何もないわね。これが魔力溜まりか」
レーシャからすれば、そんな感じらしい。
「そうですね。私なんてお二人よりも何もない場所に思えますが」
魔術師ではないミリカからすれば、本当に何もない場所のようだ。
「うーん……」
クノンとしても、まあ、気にはなるが。
これが何なのかわからない以上。
適当に何か試す、というわけにもいかない。
ディラシックでの一件があるからだ。
オーガに追いかけられたあの一件は、なかなかの脅威だった。
正確には、オーガが乗り移った女性、だったが。
何にせよ。
あの時はゼオンリーがいたから、できる限り穏便に済んだのだ。
軽はずみには試せない。
彼がいないこの場で、あれに近い事件が起こったら。
考えるだけで恐ろしい。
レーシャがゼオンリーに劣るとは思わない。
だが、風は土ほど、生き物を捕獲するのに向いていないのだ。
「――この辺が魔力溜まりなんですか?」
「――ええ。かなり範囲が狭いわね……そうそう、その辺ね」
「――本当に何も感じな、あ、なんかくらっときた」
「――魔力酔いね」
クノンが考え込んでいる間、ミリカとレーシャも何事か調べようとしている。
魔力酔い。
クノンも経験してみたいところだ。
この場には三人いる。
魔力酔いで即死する、という話は聞かないので、これは試しても問題ない――
「――ええっ!?」
クノンは大声を上げた。
思わず上げてしまった。
それくらい、衝撃的な物を、見てしまったから。
常時「鏡眼」を発動することはできない。
だが、何度も発動させてチラチラ見ている。
そんな中、見てしまった。
「えっ!?」
「え、何!?」
クノンの大声に驚いて、女性二人も驚く。
「あ、ミリカ様! さっきの場所へ! さっきの場所にいてください!」
驚き素早く飛び退ったミリカに、クノンは言った。
さっきの場所に戻れ、と。
「え? さっきの……えっと、この辺ですか?」
そこは、ヒビ割れのすぐ隣。
「そのままでお願いします! 動かないで!」
「は、はい……」
――この現象はなんだろう。
ミリカの羽が、動いている。
そよそよと揺れている。
ミリカの頭に突き刺さっている羽ペンが。
いや――揺れている、のではなく。
羽ペンの先がしなっている。
ヒビ割れに吸い込まれるように。吸われているかのように。
確かに揺れている。
左右に。
そよ風に遊ばれている程度のささやかな変化だが。
確かに動いている。
「……クノン君?」
「そのままで! あ、その辺って酔います!?」
「あ、はい、結構くらくらしてます……」
「それはまずい! 離れてください!」
「は、はあ……」
ひとまず観察はいいだろう。
それ以上の変化はなさそうだったから。
それに――サンプルなら他にもある。
そう、己の蟹だ。
常にずっとクノンに付いてくる、この巨大な蟹。
ミリカとは違う存在なのかもしれないが。
「鏡眼」で見える。
その点においては同じ存在である、とも言える。
さすがにレーシャに頼むのも怖いので、自分で試すことにした。
「――うわーーーーーーーー!!」
蟹が!
蟹が!!
蟹までもが吸い込まれる!!
ヒビに近づくと端っこの方から小さくなって吸い込まれる!! なんか半分くらい吸われている!! これ以上はまずいかもしれない!! これ以上はなんか怖い!!
この現象はなんなんだ!!
魔力溜まりとはいったいなんなんだ!!
あと頭がぐらぐらしてくる!!
これが魔力酔いか!!
「……」
「……」
一人、思考の中で大騒ぎしているクノンをよそに。
女性二人の視線の冷たいこと冷たいこと。
「お待たせしました。まあ何もありませんね」
一しきり大騒ぎした後、クノンは我に返った。
「いや君さぁ」
わかっている。
何もない。
そんなの通じるわけがない。
あんなに騒いでいたのに、無理があるだろう。
さすがに誤魔化し切れないのは、クノンにもわかっている。
「すみません……色々と事情があって、話せないんです……」
「でしょうね」
と、レーシャは不機嫌そうに腕組みする。
「魔力溜まりに関する情報は、魔力という不可思議なものの解明に繋がる可能性があると言われている。
もしこれに対する進展があったなら、王宮魔術師の耳に入らないわけがない。
私たちの研究分野になるからね」
魔力の解明。
それは、突き詰めれば、魔術師を誕生させる方法に繋がるかもしれない。
魔術師を意図的に増やすことができる。
これは国にとってとんでもない財産に。
あるいは武器になる。
それに、魔術師を誕生させるまではいかないにせよ。
人工的に魔石を造り出す。
そんな新たな事業も興せるかもしれない。
利は多い。
想像もつかない利点もありそうだ。
「でもこの件、秘密にしておくには大きすぎるわ」
「あ、師匠とか国の上の人は知ってる、と思いますよ」
「いや、そこじゃないわ」
レーシャは「恐らく」と語る。
「クノンは何かしらの方法で、魔力溜まりに何かを見ている。
ゼオンリーや国が知っているのは、その方法でしょ?
今私が問題だと思っているのは、魔力溜まりに何を見たか、よ。
それは今ここで判明したことだから、ゼオンリーも国も知るわけがない。でしょ?」
問題は「鏡眼」ではなく。
「鏡眼」で見えたもの。
確かにその通りだ、とクノンは思った。
「えっと……どうすればいいでしょう?」
「国への報告を進めるわ。……と言いたいところだけど、この場所も問題なのよね」
「この場所も問題?」
「だってこの領地、まだ正式にクノンのものになってないでしょ?」
なっていない。
ミリカが代行していることも、まだ正式には決まっていない。
「そんな場所に、王宮魔術師がやってくる事件があった。
となると、うちの王族なら黙ってないでしょうね。絶対に調査に来るし、場合によっては奪いに来るわ」
ヒューグリアの王子王女は、実力で玉座を得る。奪い合う。
王太子は決まっているが。
この国では、入れ替わることも儘あるのだ。
――そもそもあなたが王宮魔術師だけど、という突っ込みは、今はなしだ。
「お姉さま、この件は内密にしておきましょう」
「え? でもこれ、さすがに黙っているわけには」
「お願いします。今
お姉さま方の功績もたくさんありますし、見つかるとそちらの意味でも痛いですよ?」
「……そうなんだけどねぇ。そうなんだけどさぁ」
王宮魔術師は王都を出てはならない。
基本的には。
でも、その辺の決まり事を完全にやぶっているのだ。
「でもこれ、黙ってると絶対に総監に怒られるやつだからさ……
――思ったより面倒臭いことになってきた。
立場も悩みも違うが。
三人の感想は、その一言で一致していた。