286.事情が変わったから
「ただ、僕は知らないんだけどね」
酒を造る魔道具はある。
しかしクノンは、作り方を知らない。
酒に興味がない。
それどころか、そもそもまだ呑めない年齢である。
興味を抱きようがない。
しかし――と、ミリカの体温を感じながら思う。
思えば父も母も結構酒好きだったな、と。
サウナの後、豪快にエールを呑んでいた母の姿。
今も強く印象に残っている。
「で、僕のお姫様はどの酒が好きなの?」
ワイン。
ウイスキー。
ブランデー。
エール、等々。
詳しくないクノンでも、パッとこれだけ思いつくわけだが。
「――私は全然全部いけますけど!」
呑んだくれの侍女が訴える。
だが、ひとまず彼女のことは置いておこう。
彼女はクノンの管轄外だから。
「貴族の基本はワインですね」
と、ミリカがクノンから離れた。
酒を呑んで浮かれて抱きしめられて。
あまり嬉しくなかったけど。
しかし離れられると少し寂しさもあるな、とクノンは思った。
なんだか複雑な気分である。
「ワインは古くから親しまれていますし、ヒューグリアにも伝統のワインがあります。
それなりに有名なんですよ。
ただ、今でこそわかりますが、ヒューグリア産のワインは少し渋みがあるのが特徴なのだとか。
女性はあまり好まないらしいですよ」
それはミリカが自分の舌で味わったがゆえの感想でもある。
「――ああ、そうですね。ヒューグリアワインと言えば渋みと酸味ですね。寝かせると渋みと酸味が薄くなり重厚な口当たりになりますが、それでもちょっと渋いかも。
濃い肉料理と合うんだよなぁ」
酒アドバイザーの意見も出た。
なるほど渋いのか、とクノンは頷く。
――そういえば母もワインはあまり好んでいなかったような気がする。
いや、白の方が好き、と言っていたような。
確か白ワインは、原料のブドウの皮を使わないワイン、だった、はず。
なけなしの酒の知識を総動員して、クノンは考える。
つまり、だ
「渋くないワインがいいんですか?」
渋いワインはあるようだ。
伝統というからには、すでに広く出回っているだろう。
となると。
同じ味のワインを造ったところで売れるとは思えない。
それこそ新しいワイン。
これまでにないワインが必要だと思う。
その土地にしかないもの。
それが特産品だから。
「そうですね。口当たりのいいワインがあったら嬉しいです。貴族界隈でも無理して呑んでいる女性も多い……という噂も聞きますし」
「それは大変だ」
女性たちが渋いワインに困っている。
そんなことを聞かされては、紳士として黙っていられない。
「――私は渋いワインも嫌いではないですけどねぇ!」
自己主張が激しい侍女がいるが、ひとまず置いておこう。
「じゃあその方向で考えてみます。
今すぐどうこうはできそうにないですが、学校に戻ったら調べてみますね」
「よろしくお願いします」
酒造り。
財源の確保。
近い将来に向けた、現実的な問題。
これから先、きっと何度もこんな問題に直面するのだろう。
今回はなんとかなりそうだが。
しかし、次はどうなるかわからない。
今の内に学校でたくさん学んでおきたい。
酒以外でも、財源をどうするか考えなければならない。
将来、自分とミリカが行く先に困らないように。
「さてと」
これで一通りの話は終わっただろう。
となれば、やるべきことは一つだ。
クノンはジルニを見た。
ミリカもジルニを見た。
付き合いの長い二人である。
今、考えることは、一緒だった。
「……え?」
これまで無視されていた形だったジルニ。
それが、急に視線を集めた。
なぜだ。
なぜかはわからないが、なんだかまずい流れだ――冒険者の勘がそう告げている。
「……な、なんですか? なんですか!? 二人してにじり寄ってきてなんですか!?」
右からクノン。
左からミリカ。
テーブル代わりの木箱を迂回して。
眼帯の少年と、ジョッキを手放さない少女が、少しずつ近寄ってくる。
「ねえジルニ。ジルニ。ねえ、わかるでしょう?」
ミリカが優しく、そう、とても優しく語りかけてくる。
「何がですか!? こっちに来ないでください!」
これは確実にまずい流れだ。
酒に濁った頭が、この危機感にすっと晴れる。
「ジルニはアレかな? 新しい酒に興味があるんじゃないかな?」
クノンが紳士然とした態度で語りかけてくる。
「ありますけどなんですか!? 何か問題でも!?」
ニコニコしながら歩んでくるクノンを、ジルニは警戒する。
だが、しくじった。
「あっ!?」
「今ですクノン君!」
ミリカが抱き着いてきた。
思いのほか素早い踏み込みで間合いに入った。
警戒していたジルニなのに、その速度に対応できなかった。
「イコ! リンコ!」
クノンが叫ぶと、二人がばーんとドアを開けた。
そこには使用人イコとリンコの姿。
いつからか、二人はドアの向こうで待機していた。
中にクノンとミリカがいたから、様子を見ていたのだろう。
二人はなぜここに来たのかは――クノンは気にしないことにした。
女性には秘密があるものだ。
無理に暴くのは紳士のやることじゃないから。
たとえ薄々察しがついても、気にしない。
「只今ここに!」
「参上いたしました! えっ、どういう状況!?」
「――ジルニを確保して!」
「えっ!? そんな面白そうなことしていいんですか!?」
「私は左手を抑えるからお姉ちゃんは下半身と両足と頭お願い!」
「私の負担が大きいけど了解!!」
「なっ、ちょっとま、えっなにこれ!?」
この地で新しい酒を造ることになった。
となれば、やるべきことは一つだ。
――少しばかり遠慮していたが、こうなった以上は遠慮する理由はない。
「ずっと調べてみたかったんだよなぁ」
女たち三人に抑えられて、番人は動けない。
この間にクノンは歩み寄る。
「
通称、神の酒樽。
一目見た時からずっと気になっていた。
あれは借り物で、聖女の管轄だから、どうしても近づきにくいと思っていたが。
だが、事情が変わった。
世界最高の魔道具が目の前にあるのだ。
調べずにいられるものか。
その知識は、この先きっと役に立つはずだから。
「……えっと、別に見るくらいいいよって、レイエス様から命じられてますけど」
上半身をミリカに。
左手をリンコに。
それ以外をイコに抱えられているジルニは、そのままの体勢で言った。
「あ、そうなの?」
でもまあ、それはそれだ。
ジルニが抱えられている間に、クノンは神の酒樽を観察するのだった。
見えないが。