278.カイユという男
「――ふう」
息を吐き。
ふと窓に目を向けると、赤い光が差し込んでいた。
もう夕方らしい。
思えば腹も減っている。
早いものだ。
この部屋にやってきて、まだそんなに時間が経っていないと思っていたのに。
即席の一間を研究室にして。
造魔学の研究者カイユは、中腰のまま作業していた背骨を伸ばす。
いい時間だ。
向こうにも予定があるので、今日のところはこれくらいでいいだろう。
「先生、今日は終わりましょう」
と、カイユは黒ウサギに語りかける。
テーブルの上。
すぐそこで座り、こちらを見ている赤目の黒ウサギは――瞳から輝きをなくし、きょろきょろと辺りを見回す。
切断が切れたようだ。
これで、この造魔ウサギは、ただのジーナに戻った。
――さっきまでは、魔術都市ディラシックにいるロジー・ロクソンと繋がっていた。
ウサギの目を通して遠くを見て。
ウサギの耳を介して音を聞く。
向こうからの意思は、文字表で伝える。
……と、少々やりづらいが、意思の疎通が可能なのだ。
そして今。
カイユとロジーは、会話を可能とする魔道具の開発をしている。
今のところ進展はないが。
非常にやりごたえのある実験の真っ最中だ。
「おいで、ジーナ。食事にしよう」
ロジーが手を伸ばすと、ジーナは大人しくカイユの手に乗った。
少々野性の強いジーナは。
基本的に、人を近づけることはないし、近づくこともない。
一応は造魔学の産物。
特殊な方法で呼べばやってくるが。
ウサギ自身の意思は、それなりに警戒心が強いのだ。
ただ。
開拓地にやってくる旅の最中、カイユはずっとジーナの世話をしてきた。
付き合いがあった分だけ、多少は認めてくれたらしい。
即席の研究室を出て、屋敷の玄関から表に出た。
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
そこら辺にいた開拓民の女性らに挨拶を返し、ジーナを放す。
ジーナはその辺の匂いを嗅ぎながら、うろつき出した。
一応首輪もしているし通達もしてあるので、開拓民がジーナを狩ることはない。
だが、あまり放置もできない。
遠くに行って行方不明にならないとも限らないし、魔物に襲われる可能性もなくはない。
まあ、ロジーが言うには、ジーナは結構強いらしいが。
しかしカイユは、ウサギが強いところを見たことがない。
だから半信半疑だ。
ゆえに夜は部屋に連れて行くことにしている。
一緒に寝たいが、それは嫌がるのでベッドは別々だ。
「さて、今日は――」
どうするか、と思ったその時。
「――お疲れ様です、カイユさん」
と、今日も丁度いいタイミングで、開拓地の代表ミリカがやってきた。
彼女の手には野菜くずがある。
「ああ、今日もありがとう」
ジーナのために野菜くずをくれ。
ミリカにそう頼んで以来。
だいたいこの時間、わざわざミリカが持ってきてくれるようになった。
「可愛い」
エサに寄ってきたジーナを、ミリカが撫でる。
ジーナは嬉しそうに、彼女の手に身体をこすりつける。
心なしか嬉しそうな顔で。
――自分にはなかなか懐かなかったのに……。
カイユは少し微妙な気持ちになった。
いや、まあ、いい。
どこぞの紳士のように、ジーナは女が好きなのだろう。
そしてカイユは男装中だから、女の中に入っていないのだろう。
「……今日も呑んでる?」
かすかに漂う酒精に気付き、カイユは囁く。
「すみません、臭います?」
恥ずかしそうにはにかみ距離を取るミリカに、「全然」とカイユは首を振る。
「あまり気にならないよ。本当に。
俺も後で呑みに行くし……今日の出来は?」
――神の酒樽で造った酒は、特別だ。
カイユはあまり酒は好まない。
だが、疲労回復効果が高いので、毎日少しだけ頂戴している。
「控え目に言って最高でした」
ミリカは好きなようだが。
「うふふ。八杯くらい飲んじゃいました」
飲みすぎじゃなかろうか。
まあ、悪酔いも二日酔いもしないという神酒だけに、問題はないのだろう。
つくづくとんでもない代物だ。
「カイユさんは、何か不都合はないですか?」
「ないよ。皆よくしてくれるからな」
ミリカには、カイユの性別のことは話してある。
――王族だけに、ミリカは「訳あり」には非常に理解がある。
本人自身が訳ありそのものだから、というのもあるのだろう。
だからこそ深く事情を聞かないし、気を遣ってくれる。
「研究の方は順調ですか?」
「いや、全然。一ヵ月くらいじゃどうにもならないかも。
クノンが動き出したら俺も何か手伝うから、遠慮なく言ってくれ」
ジーナにエサを上げつつ、世間話をする。
ミリカは魔術師じゃない。
だから話す内容には気を付けているが。
でも、魔術師じゃないからこそ。
なんでもない話が、なんとなく、心地よい。
常に魔術漬けだったからこそ、カイユには少しばかり新鮮に感じられた。
「――ねえ」
「――やっぱり」
「――そうよね」
「――だな」
黒ウサギを撫でながら話す、ミリカとカイユ。
ここ数日、毎日のように見る光景で。
どちらも笑顔で、話が弾んでいて。
開拓民たちはミリカを知っている。
彼女は、見るからに貴族籍にありながら、誰よりも率先して開拓作業をしてきた。
彼女の働く姿。
何事にも先陣を切る彼女の背中に、開拓民たちは信用を寄せたのである。
そんな彼女は、たとえ笑っていても。
常にどこか神経を張りつめているように感じられた。
それが彼女の覚悟だった。
必ず開拓をやり遂げるという、覚悟だったのだと思う。
そんなミリカが。
あんなにも穏やかに笑っている。
それは、あの二人が、特別な関係に見えなくもないわけで。
あのカイユという男、非常に美形だ。
誰が見ても美少女だと答えるミリカの隣にいても、一切遜色がない。少し贔屓目に見たらミリカより美しいとさえ思えるほどだ。
お似合いだ。
しかも仲睦まじい。
――開拓民たちは確信した。
ミリカの婚約者はあのカイユという男だ、と。
将来この開拓地は、あの男のものになるのだ、と。
そう、勘違いをしたのだった。