256.いざヒューグリアへ
数日の準備期間を経て。
天候不良のため一日ずれたが。
ほかに目立ったトラブルはなく、無事旅立ちの日を迎えることができた。
「――本当に運がよかった」
と、侍女に零すクノンの声は明るい。
クノンは思っていた。
運がよかったのは元より。
きっと、日々紳士であったことが人望に繋がったんだな、と。
まだ空も暗い早朝。
ディラシックの入街門に、一緒に行くメンバーが集まっていた。
クノンと侍女リンコ。
同期ハンク・ビートとリーヤ・ホース。
聖女レイエスは、侍女のフィレア、ジルニを連れて。
そして、造魔学の兄弟子カイユと、準教師セイフィ。
皆、出発の時間にはちゃんとやってきた。
一応は「旅行」という名目なので、雰囲気は明るい。
――もちろん、全員ちゃんとわかっていたが。
クノンが行楽で人を集めるわけがない、と。
きっと現地でこき使われるだろう、と。
「まさか風属性が三人もいるなんて」
カイユとリーヤ、聖女の侍女フィレアは風属性である。
熟練の風魔術師は、移動が速い。
何しろ飛べるのだから。
二、三人くらいなら一緒に飛べる。
だから今回の旅は、「飛行」による移動を考えていた。
天候や風魔術師の体調。
その他の問題がなければ。
つまり順調に行けば、十日掛からないくらいで目的地に到着する。
特にありがたいのは、フィレアの存在だ。
クノンが予定に入れていなかった風魔術師である。
少々人数が心配だったのだが。
彼女がいることで、すべてが解決した。
フィレアはまず、「私の雇い主は聖教国なので、聖女レイエス様のためにしか魔術を使いません」と公言した。
立場上あたりまえである。
そして充分である。
聖女一行はフィレアが連れていく、ということだ。
そのついでに、少し荷物も運んでくれるそうなので、本当にありがたい。
これで人を含めた
三人の風魔術師は、うまいこと分けた重量なら、飛べると言い切った。
もしうまく分けられなかったら。
一緒に移動するのは、諦めていたかもしれない。
――ちなみにクノンの「飛行」は、もしもの時の控えである。
本来飛べない水属性である。
それだけに、風魔術師ほどの速度は出ないのだ。
だから、万が一彼らが飛べなくなった時。
その穴を埋める役割だ。
「そろそろ出ましょうか」
「うん――皆さん!」
侍女に頷き、クノンは声を張り上げた。
思い思いに過ごしていた全員の視線が集める。
「そろそろ出発しましょう! これからよろしくお願いします!」
「おう」とか「ああ」とか「こちらこそ」とか。
異口同音の返事がバラバラに返ってきて。
クノンらは行動を開始した。
地形、道、障害物。
加えて、動物や魔物といった外敵。
それら一切を無視して飛ぶだけあって、移動速度はかなり速い。
適度に休憩を挟みつつ、夕方には目的の村に到着した。
「――では一晩お世話になります」
村長と交渉してベッドを借りて一晩。
翌日の早朝には、また移動を開始する。
そしてその日の夜、聖教国の国境へとたどり着いた。
陽が落ちて、寒さが際立ってきた頃。
入国審査をしている砦に到着した。
「――終わりました。通れます」
ほぼ顔パスだった。
入国手続きで待たされることもなく。
侍女フィレアが、この砦のお偉いさんに単身会いに行き、全員の身分証を提示して。
終わった。
さすがは聖女の身分証である。
さすがは聖教国セントランスの要人である。
「あちらの兵士に付いて行ってください。今晩の部屋に案内してくれますので」
「わかった。で、あの……あれは……?」
クノンが、というか。
全員が気にしているあれは。
「――ジルニやめなさい。やめなさい。ジルニ。やめなさい。やめなさい。ジルニ。ジルニ」
顔パスの聖女は、自分の侍女と何やら揉めている。
「――ちょっとだけ。もうちょっとだけ」
無表情で淡々と。
あまり止める気のなさそうな聖女に対して。
「――ジルニ。あなたは本当にやめませんねジルニ。これだけ言っているのにジルニ」
「――いやいややめる気はあるんです。でもどうしてもなんというか、逆らえないというか。酒が私を呼んでいるというか」
侍女ジルニはへらへら笑っている。
片手にジョッキを持って。
もうゴキゲンである。
「身内の恥ですので、お願いですから忘れてください。皆さんはお先にどうぞ」
「あ、はい」
フィレアの言葉は冷たい。
これ以上の追及は許さないという、迫力があった。
まあ逆らう理由もないので、一行は言われた通り、案内の兵士の後に続く。
聖教国の三人だけを置いて。
――さて。
振り返ったフィレアの瞳は、さっきの言葉より冷たい。
「味見は済んだでしょう?」
「いやいやもうちょっともうちょっとだけ。ちゃんと味を確かめたいんです。レイエス様もレポート書くんでしょう? このジルニが詳しく味を教えますからもうちょっと。
昨日だっていい感じだったのに、今日はもっといい感じになってますから。どうせ今日は砦で一泊でしょ? いいじゃないですか一杯だけ。もう一杯だけ。ね? ね?」
「ジルニ。あなたはすでに六杯目ですよ。もう騙されません」
「次は本当です。ほら、この私の澄んだ瞳を見てください。嘘偽りのないいい目をしているでしょう? ね? 聖女様、人を信じることをやめないで」
「わかりました。では次の一杯で最後ですよ?」
「――最後になるわけがないでしょう」
と、フィレアが割り込んだ。
レイエスは本当に騙されやすい。
素直なことはいいことだとは思うが、将来が心配になる騙されやすさだ。
「あ、早かったね」
「……」
「ははは、その道端で干からびてるミミズを見るような目。酒の肴としては嫌いじゃないわ」
「――移動するから、早く樽に蓋をしなさい」
「はいはい」
――神の酒樽。
おとぎ話に聞くような、いわゆる神器だ。
実在すら怪しかったそれを、レイエスが持って帰ってきたのは数日前である。
果実と水を仕込めば、五日で酒ができるそうだ。
とんでもない代物である。
持ち帰ったその日に、早速酒を仕込んだ。
最初は眉唾ものだったが――今はフィレアも信じている。
だって、実際にできたのだから。
目の前に事実があるのに、信じないわけにはいかない。
だがしかし。
五日でできる酒だが。
まだ、肝心の五日目を迎えたことがない。
呑んだくれの同僚が、五日目を迎えさせないからだ。
――一日二日の若い酒でも、かなり旨い酒ができているのだ。
上質で、しかも悪酔いしない。
翌日に残らないから、二日酔いもない。
さすがは神器である。
「レイエス様の命令を聞かないのは減俸だからね」
「わかってるよ。この酒が呑めるなら給料なんていらない……とまでは言わないけど、減俸くらい受け入れるって」
同僚の酒豪っぷりも、さすがである。
――蓋をし、布を掛けて、背負う。
神器の守護者……ではなく。
もはやただの酒番であるジルニが、樽を運ぶ役目を買って出た。
「重くなってもいいから仕込んでいこう」と言い出し。
この通りである。
移動中に呑んだら容赦しない。
だが、一晩明かす宿までは我慢する。
そこら辺の一線だけは守っているのだ。
実に小癪である。
「だいたいフィレアも呑むでしょ?」
「……まあ」
神器ゆえだろう。
魔力を使い疲弊した身体に、この酒を入れると。
翌日は、非常に調子がいいのだ。
魔術師であるクノンが、魔力の消耗度を考慮して予定を組んだだけに。
無理のない旅程を組んでいる。
だがそれでも、多少疲れが残る。
それくらい魔術を使っているのだ。
しかし、この酒を呑んで一眠りすれば、回復できるのだ。
体調面を整えるためにも呑んでおきたい。
旅の途中で体調を崩すのは、なかなか最悪だから。
「酒とはそんなにいいものなのですか?」
「いいものなんですよー。レイエス様が大人になったら一緒に吞みましょうねー」
「――レイエス様、こんなダメな人は見ちゃいけません。さあ行きましょう」
先が思いやられるが。
旅は始まったばかりだ。