253.上からの通達
「――クノンか。よう来た、よう来た」
「こんにちは、ウィーカー先生。今日もスレンダーで一際魅力的ですね。顔のしわの一つ一つがイキイキしてますよ」
「カッカッカッ、何言っとるかわからん。
今日は呼んどらんけどちょうどいい、眠らせておくれ。……あん? もしや呼んだかの?」
サーフの研究室から移動し。
クノンがやってきたのは、教師ウィーカーの研究室である。
土魔術師ウィーカー。
やはり今日も顔色が悪い。
見た目は、くたびれた老婆である。
やせぎすで、いつも疲れた顔をしていて、実際疲れている。
サトリより年上で。
恐らくは七十代後半と思われる。
――彼女はクノンの睡眠商売の常連、お得意様だ。
なんでも、若い頃から眠りが浅い体質らしい。
年を取ってからは更に悪化して、なかなか眠れなくなってしまったのだとか。
そんな体質から、これまでは、気絶するまで活動するしかなかった。
休めるのは、力尽きてから。
限界までがんばってから。
そんな無茶な、と。
彼女の事情を知ったクノンはそう思ったが――冷静に考えると。
もしかしたらウィーカーも、英雄の傷跡を持っているのかもしれない、と思った。
彼女は睡眠だ。
休む、という行為に欠落があるのかもしれない。
――まあ、真実はいいのだ。確かめようもないから。
そんな彼女は、クノンの商売に、見事にハマった。
睡眠時間こそ短いが。
これまでにないほど絶対に熟睡できるとして、ちょくちょく利用してくれる。
「呼んでないですよ。今日は僕の用事で来ました」
「おお、そうか。いよいよ身体どころか頭まで錆びてきたかと思ったわ」
しかし、彼女も魔術学校の教師である。
老いるまで第一線にいて。
今もそこにいるのだ。
非常に優秀な……もっと言えば、年齢と比例して学んできた魔術師である。
――単純な知識量と実力差で言えば、クノンなど彼女の足元にも及ばないだろう。
「今日はウィーカー先生にお願いがあってきました」
「ええよ。私の全財産でもなんでも好きにしんさい。もうお迎えも近いんだ、何も気にすることはないんよねぇ」
何度聞いても、年寄りのブラックな冗談は笑えない。
「またまた。この世から美老女がいなくなるなんて世界の損失ですからね。そんなの神だって許しませんよ」
「カッカッカッ、何言っとるかわからん」
「――それより、一人お弟子さんを貸してほしいんです。セイフィ先生を。一ヵ月から二ヵ月くらい」
「ええよ。私の弟子でも利権でも好きにしんさい」
よし、許可が下りた。
さらりと一筆書いてもらい。
ウィーカーを完全熟睡型「
お気に入りの白猫を抱かせて。
「今度こそ永眠したりしてのう。カッカッカッ」
弟子がくれたというアイマスクまでして、ウィーカーは笑う。
――この調子でしれっとあと三十年くらい生きるんじゃないかな、とクノンは思った。
初めて会った時は、今にも危なそうなご年配……と思ったが。
今では、この人が亡くなるイメージなんて、一切湧かなくなった。
寄り道をした後、クノンは図書室へ向かう。
図書館ではなく、図書室。
三級クラスが学ぶ校舎にある一室で、初心者魔術師向けの本が集められているらしい。
部屋も広くないし、本の数もあまり多くない。
だが、これまで魔術に触れてこなかった者には、宝の山である。
「ふうん……」
利用者は少ない。
目当ての人を探すついでに、本棚に並ぶ本を見ていく。
興味深い本がたくさんある。
ついつい手が伸びそうになる、が。
今は、本に捕まる時間はない。
「――セイフィ先生」
本棚の前で、本を選んでいた女性に声を掛ける。
「え? ……あ、クノン・グリオン」
――名前を呼ばれたセイフィは、驚いた。
振り向くと、眼帯の少年が立っていた。
入学試験で会ったあの少年である。
最後に会ってから一年以上経っている。
一年。
準教師として三級クラスを受け持っているセイフィとクノンは、本当に接点がなかった。
まあ、それでも。
噂はたくさん聞いているが。
やはり
「大きくなったね」
十二、三歳の少年の一年である。
当然のように、身体が大きくなっている。
一年前のクノン・グリオンしか知らないセイフィは、その成長に少し驚いた。
「そうですか? セイフィ先生も大きくなりましたね。先生としても女性としても魅力的になりました。まるで荒削りの原石の荒が少し削れた感じで。素敵ですよ」
――そういうところは相変わらずか。
セイフィはそっちにも驚いた。
本当に、何も変わらないぺらっぺら具合だ。
「いきなり不躾ですが、実はセイフィ先生にお願いがあってきました」
挨拶もそこそこに、クノンは本題に入った。
「お願い? 私に?」
――一年以上、なんの接点もなく。また会う用事もなかった。
セイフィからすれば、こうしてクノンが訪ねてきたことこそ、不思議で不自然である。
いずれ会うなら、師ウィーカーの研究室だと思っていた。
クノンが仕事で出入りしていることは聞いていたから。
だが、ウィーカーは誰もいない――弟子がいない時にクノンを呼んでいたので、顔を合わせることはなかった。
まあ、その辺はいいのだが。
「一ヵ月から二ヵ月くらい、遠征に行きましょう。そのお誘いに来ました」
「無理よ」
セイフィは即答した。
考える間さえ必要なかった。
「私、準教師として、三級クラスを受け持っているから。ディラシックから出られないわ」
一ヵ月以上の遠征どころか。
二、三日でさえも、学校から離れることはできない。
「それに春には教職資格試験もあるし。これから大事な追い込みの時期なのよ」
試験に通れば、晴れて正式な教師である。
元々筆記はできていたし、今年は実技を中心に磨いてきた。
今年こそ合格する! はずだ!
「でも、ウィーカー先生から許可は貰ってきましたよ」
はい、と。
クノンは軽い気持ちで書面を渡す。
「……は? …………はあ!?」
――受け取ったセイフィにとっては、とんでもなく重い代物だったが。
「うそ、え、何!? 何これ!?」
場所も弁えず、セイフィは取り乱す。
書面の内容は、簡素である。
ふざけているとしか思えないくらい、簡素である。
しかし、間違いなくセイフィの師ウィーカーの字だ。
しかも彼女の印章まで押してある。
彼女の弟子として、彼女の仕事や実験を手伝ってきたセイフィである。
直感でも理屈でもわかる。
これは間違いなく、師の用意したものだということが、わかる。
何かの手違いだ、なんて可能性が見つからないくらいに。
わかってしまう。
「なんて書いてあるんですか?」
クノンは内容を知らない。
受け取りはしたが、内容は確認していないのだ。
ここまでセイフィが取り乱す理由がわからない。
――きょとんとしているクノンに対して、セイフィは読み上げた。
「……『これを受け取ったセイフィ・ノーザは、クノンの言うことをなんでも聞きゃええんよ。』……だって」
その声は、怒りに震えていた。
――なんて物を持ってきたんだこのガキ、とセイフィは思っていた。
やっぱり
こいつは間違いなく、人の迷惑なんて一切考えない、あの男の弟子だ。
受験が迫る大事な時期に、一ヵ月以上も何をさせる気だ。
「あ、じゃあお願いしますねー。よかったー。土魔術師を探してたんですよー。詳細は追って伝えますので、旅の準備だけしておいてくださいねー」
あーよかったよかった、と。
怒りに震えるセイフィなど見えないとばかりに、クノンは行ってしまった。
まあ、実際見えてはいないのだろうが。
「――……はあ」
クノンが図書室を出ていくと、セイフィは溜息を漏らした。
肩に入っていた力とともに。
――今年の試験も無理かな。
早く正式な教師にはなりたいが。
だが、取り立てて今に不満があるわけではない。
生活はできるし、収入もそれなりにあるし、学ぶことはまだまだあるし。
だから、焦って教師になる理由はないのだ。
むしろ教師になれば、今より確実に忙しくなる。
いっそ来年も下積みに徹するのも、悪くない気がする。
「……」
そもそもの話。
あのウィーカーが、なんの理由もなく、これを書いたとは思えない。
――あの婆さんの素顔は、言動ほど生易しくはない。
あれは怪物だ。
生涯を魔術に捧げ、今なお捧げ続けている、化け物だ。
他はともかく、魔術が絡むことに関しては、怖いほどに真剣だ。
いや、それを言うならこの学校の教師全員がそうか。
この書面にも意味がある気がする。
セイフィには思いもよらない、意味が。
……まあ、何にせよ。
師が命じるなら、行くのは確定だ。
時間が許す限り、クノンは方々を回って同行者を探す。
しかし、これ以上協力者を捕まえることはできなかった。
やはり急すぎた。
加えて拘束時間の長さがネックだった。
――だが、返事保留にしていたリーヤ・ホースとハンク・ビートが、遠征に行くことを承諾。
聖女レイエス。
リーヤ。
ハンク。
カイユ。
そして、セイフィ。
光、風、火、土属性の魔術師を集めることができた。
カイユも風属性だが、魔術師は何人いても頼もしいので問題ない。
――これ以上集めるのは難しいと判断し、クノンは具体的な日程を立てることにした。
出発まで、あと少しだ。