245.夜、魔術学校へ
「もっと早く来るべきだった」
その日の夜。
教皇アーチルドは満たされていた。
もっと早く来れば良かった。
やはり、娘は傍にいてほしい。
……とは思うが、恐らくこれが最速だった、とも思う。
「必要な用事は済みましたか?」
教皇付きの神官フォンが問う。
レイエスの家のテーブルに着き、フォンが淹れた香草茶を楽しんでいる。
どこを見ても、植物の植わった鉢植えがある。
おびただしい数である。
しかし慣れた。
今のアーチルドは、鉢植えを見ればレイエスを感じられる。
それくらいには慣れた。
――もう深夜である。
レイエスは決まった時間に就寝。
使用人や護衛たちも、今は休息中だ。
アーチルドとフォンも、さっきまで仮眠を取っていた。
旅の疲れもあったが、今後の予定のためである。
「だいたいね」
今日はレイエスとデートだった。
色々とやることはあったが、まごうことなき、娘とのデートだった。
聖教国では許されない過ごし方をした。
とても楽しかった。
心配と、会えなかった時間が、満たされた。
レイエスが取引している仕事先への挨拶に行ったり、行きつけの店に行ったりした。
無表情ながら楽しそうに説明する娘。
なんと愛くるしいことか。
特にレイエスのお父様呼び。
聖教国では許されないすべてのことが、もう楽しくて楽しくて。
何度も何度も、教皇をやめてこっちに来て一緒に住んだら毎日こんなに楽しいのかな、と。
もう何度も思った。
というか今も思っている。思わないわけがない。
「ふふ。フォンよ」
「はい」
「私は今日、レイエスとパフェに行ったよ。羨ましいかね?」
若い娘とパフェ。
そう言う教皇は嬉しそうだ。
「そうですね」
――まあ、教皇が楽しかったならいいんじゃないか、とフォンは思うばかりだ。
「帰ったら仕事が山のように溜まっているので、少ない滞在期間を最大限に楽しんでくださいね」
現実を思い知らされ、アーチルドはデートの余韻から醒めた。
虚ろな目で、香草茶を見詰める。
「……教皇やめようかな」
呟く中年の悲哀がすごい。
「逃がしませんよ」
それでも神官は現実を突きつけた。
――そんなこんなで夜は更けていき。
「教皇様、そろそろお時間では?」
休んでいた神官騎士ネオンがやってきた。
「ん? ……そうだね、そろそろよさそうだ」
と、アーチルドは立ち上がる。
「ネオン、同行する者に声を掛けておくれ。私たちは門の前で待っているから」
「はっ」
外套をまとい、フードをかぶり。
教皇と護衛たちは、静かにレイエスの家を出た。
そして、ディラシックの夜に紛れた。
彼らが向かう先は、魔術学校である。
アーチルドがディラシックにやってきた理由。
それは、霊樹
本来であれば、教皇はディラシックに来ることができない。
この街は国ではないからだ。
聖教国のトップとして、他国との交流はしなければならない。
だがここには、交流すべき相手がいないのだ。
この地の支配者グレイ・ルーヴァが望むなら、交流を図りたいとは思う。
だが、彼女はそれを望まない。
――もっと言うと。
遠い過去、聖教国はこの地を狙って侵略戦争を仕掛けていた。
帝国と新王国と、聖教国。
この三大国の真ん中にあるディラシックは、攻防の要となる地だった。
他の二国へ攻め入る足掛かりになるし、砦にもなる。
三国は知っていた。
ディラシックを制することができるかどうかが、後の戦争を左右する、と。
そして、三国はディラシックを攻めた。
半ば大きな三国が連携し、協力しているかのような形で。
ディラシックに攻勢を仕掛けた。
数えあげれば切りがないほどの物量と、人と。
およそどんな国でも落とせるだろうという大軍勢が、休みなく攻め立てた。
それらの侵攻を、たった一人で相手取った魔術師。
いかなる武力も、いかなる魔術も。
いかなる神話や神器でさえも、ことごとくを打ち破った魔女。
それがグレイ・ルーヴァである。
疲弊する三大国に、侵攻を――
いや、売られたケンカの清算をするべく、攻め入ってきた魔女に対し。
三国は頭を下げて、彼女の怒りを沈めたのだ。
それぞれの国で、それなりの賠償を行い。
そして、今の平和に繋がる。
はっきり言ってしまえば。
周辺三国はグレイ・ルーヴァに頭が上がらないのだ。
もっと言えば、いつだって彼女一人に潰される国である。
――帝国、新王国はわからないが、代々の教皇は必ず伝えられることがある。
グレイ・ルーヴァの怒りを買うな。
買えば聖教国は亡ぶ、と。
「やあ、アーチルド。久しぶりだね」
校門の前に人がいた。
その声、その姿には憶えがある。
前に会ったのは十年ほど前。
その頃と、今の彼は、何も変わらない。
「お久しぶりです、クラヴィス様」
初代聖女の実子。
クラヴィス・セントランス。
彼もまた、昔の戦争の賠償として。
聖教国から魔女に捧げられた者の一人である。