230.幕間 計算通りと計算外が半々
計算通りである。
その日。
聖教国セントランスの教皇アーチルドは、執務室でその手紙を開いた。
内容を見て、ようやくかと思う。
――計算通りだ。
今か今かと待っていた報告だった。
これでようやく、
「――教皇様! 一大事です!」
手紙の内容を反芻し、しばし物思いに耽っていると。
大司教ターリンがやってきた。
同年代の初老男性にしてはイキイキとした動きで、ノックもなく部屋に飛び込んでくる。
「ターリン様! 落ち着いてください!」
止められなかったアーチルドお付きの男性神官フォンも、一拍遅れてやってきた。
二人とも元気なことだ。
もう深夜だというのに。
「フォン、ドアを閉めてくれ――大司教、
先んじて言うと、ターリンは「そうです!」と力強くうなずく。
「知っていたならなぜ教えてくれんかったのですか!」
霊樹
それは聖教国が崇める女神キラレイラの本体とも言われる存在だ。
神話、または教義に出てくるおとぎ話。
そう思っている者は多い。
信者でさえ、信じていない者もいるだろう。
だが。
「私もついさっき報告を受けて知ったんだよ。明日にでも集めて話そうと思っていた」
ターリンがやってきた理由。
それは、魔術都市ディラシックで
そう、
おとぎ話だけの存在ではないのだ。
聖教国の上層部の一部は知っていることだし、古くから存在する他国にも資料が残っているはずだ。
アーチルドもついさっき手紙で知ったのだ。
数日前に魔術都市ディラシックで芽吹いた、と。
「どういうことです!? 芽吹かせたのは誰です!? 種の出所は!?」
ターリンは大司教だ。
ただ。
条件が揃わないと育てられない、ということも知っていた。
もちろん種だって貴重品だ。
この国を除けば、他国の宝物庫で眠っているか、または正体不明の種としてどこぞに放置されているかのどちらかだろう。
あれは普通の植物の種ではない。
特殊な方法じゃないと育たない、特別なものだ。
それが育ったということは、つまり――
「あ、私がレイエスに持たせたよ」
ターリンはめまいがした。
元凶は目の前にいた。
「どういうことです!!」
「まあ落ち着きなさい、大司教。フォン、酒を出してくれ。大した話じゃないから呑みながら話そう」
「そんな悠長なことを言っとる場合ですか!?」
「でも呑むだろう?」
「呑みますよ! 呑まなきゃやってられんでしょうが!」
酒好きの大司教は、隙あらば呑む。呑まない理由はない。
二人は応接用のテーブル着いた。
あくまで穏やかな教皇。
見るからに不機嫌そうな大司教。
二人の間で、グラスに注がれた琥珀色の安酒が揺れている。
その傍らに、教皇お付きの神官が立っている。
「教皇様、聞かせてもらいましょうか。いったいどんな理由で聖女レイエスに
二杯ほど一気にあおった後。
ようやくターリンは言葉を発した。
「育つかどうか試した。レイエスが本当に豊穣の力を持っているかどうかをね。
これで確信が持てたわけだ」
アーチルドとしては、信じていないわけではなかった。
レイエスは嘘を吐かない。
そういう娘なのだ。
もし嘘があるとすれば、本人が勘違いをしている場合のみだ。
第一、アーチルドにとってのレイエスは娘同然の存在。
信じないわけがない。
たとえ聖女じゃなくてもだ。
「なぜこの国で試させなかったのです?」
「何があるかわからないからだ」
だが、実際に見たことがある者はいない。
最後の記録は、およそ二百年前のものになる。
資料通りなら問題ない。
だが、もし資料通りじゃなかったら?
もし霊樹
「
では、緑化の規模は?
どのくらいの範囲を?
どのくらいの速度と密度で?
それらがわからない以上、安易に植えるべきではない。
要するに、この国が危険を冒す必要があるのか、という話だよ」
これまで
強いて必要かと問われれば。
アーチルドは否と答える。
信奉の対象なら、ほかにも色々ある。
あえて
「種はまだある。この国に欲しいならまた植えればいい。
そしてそれは、
――さすがだ、と思ったのは傍に立って聞いている神官フォンである。
冴えない見た目の優しいおっさん。
それが一見した今代教皇アーチルドだ。
信心深く、真面目で、勤勉で。
贅沢を嫌い、清貧で。
他人に優しく自分に厳しい、品行方正を絵に描いたような人だ。
しかし、教皇まで上り詰めた男である。
それだけの存在であるわけがない。
時折覗かせる為政者としての顔は、なかなか冷徹で無駄がない。
「大司教、もし
「伐採する理由など……」
「なぜ考えない?
緑化現象が留まらず、セントランス全域を飲み込んだらどうする? その場合、我々は生きていけるだろうか?
神の力は偉大だよ。
ただの人の力で抗えるものではないと私は思う。
だからこそ、あの魔術学校で試させてもらった。
正確にはグレイ・ルーヴァの近くでな。
彼女なら
――ターリンは頭が冷えてきた。
なるほど、説明されればされるほど、アーチルドのやったことは合理的だ。
聖教国で
グレイ・ルーヴァが助けてくれるだろうか?
いや、助けないだろう。
彼女は他国で何があろうと気にしない。
しかし、
それなら彼女は、自分のテリトリーを守るために動くだろう。
そう。
確かに、聖教国がリスクを負う必要はないのだ。
ただ――
「しかしグレイ・ルーヴァは怒りませんか? その、彼女の居場所を利用するようなことをして……」
「彼女はその程度のことでは怒らないと思うよ。むしろ研究材料が増えたって喜びそうなものだ。
その代わり、聖教国には譲ってくれないだろうがね。
きっと自分の縄張りで芽吹いたのだから自分のものだ、誰にもやらん、とでも言うと思うね」
「……いいんですか?」
「いいんだよ。さっきも言った通りだ。
種はまだある。
聖女レイエスがいれば、いつでも育てられるんだ。焦る必要はないよ」
その後、五杯ほど呑んで今後の相談をして。
大司教ターリンは部屋を辞した。
「ふう」
アーチルドは息をついた。
今日一日をこなしてからの対話。
さすがに疲れた。
「フォン」
「はい」
「近い内に魔術学校から
我々の方針は、表向きは
表向きは。
つまり本当の意図は違う。
「裏では?」
「グレイ・ルーヴァは返還に応じないだろう。でもしつこく要求はしていくつもりだ」
「……何のために?」
「彼女のテリトリーで実験したことをごまかすため。
まあきっと私のやったことはバレていると思うし、その上で気にしていないと思うが。
で、そのうち向こうが譲歩してくれるだろう。
何かしらの要求を返してきて、それに応えたら
金銭、あるいは物品を渡すって形になるはずだ。まあ一種のお詫びだね」
「お詫び、ですか」
「私としてはない方が怖い。……まあ小難しい話はいいか。
我々の教義の御神体でもあるんだ、簡単に諦める方が外聞が悪いだろう?」
「そう、ですね」
簡単に諦めれば、教皇の信心が疑われそうだ。
輝女神教への想いはその程度か、なんて思われかねない。
「――
アーチルドの計算通りだった。
聖女に持たせた
そのことはあっという間に国中に知れ渡った。
どんどん外堀が埋まっていく。
とても順調に。
さあ、後は時間の問題だ。
信者たちが後押しして、教皇アーチルドを行かせてくれるはずだ。
魔術都市ディラシックへ。
聖女レイエスの元へ。
――娘の元へ。
ディラシックは国ではない。
だから、教皇の身ではどうしても行けないのだ。
交流や親善という形でない限り、教皇は国を離れられないのだ。
しかし、この形なら、行ける。
そして度々様子を見に行くこともできる。
あくまでも
そのついでに娘に会えるのだ。
――この前帰ってきたレイエスの姿に、アーチルドはものすごく不安になったのだ。
悪いようには変わっていない、と思う。
だが、心配になってしまったのだ。
あの変わり果てた娘の姿に。
留学して一年も経っていないのに、あんなにも変わってしまった姿に。
父親として、心配しないわけがない娘の変わりっぷりだった。
アーチルドは己の決断に後悔はない。
むしろ
公私混同?
否!
神に愛されし聖女を案じて何が問題か!
むしろ全力で、地位も権力も全てを駆使して、神に愛されし聖女を守るべきだ! それこそ教皇のあるべき姿だろう!
娘が心配だし!
教皇の想いは揺るがない。
しかし、計算外はここからだ。
「え?」
――あの薬草を栽培できるようになった?
「え?」
――神花も育った?
「え?」
――味もよく育てやすい品種改良の野菜ができた?
「え?」
――誕生日プレゼントにお尻のラインが綺麗に見えるパンツ?
どんどん届くレイエスの功績。
あとパンツ。
それに比例して、アーチルドの心配は増してきた。
娘の価値が上がっていく。
変わりっぷりも上がっていく。
つまり、
「教皇様。また聖女レイエス様への結婚の申し込みが届いています」
縁談の話がひっきりなしにやってくる、ということだ。
パンツは……まあ置いておくとして。
「目を通しておこう」
立場上、一応読むが。
読む前から答えは決まっている。
――聖女としてのレイエスと結婚したいなどという利権目当ての愚昧どもに大切な娘をやるものか!!
――娘を好きになれ! 聖女ではなくレイエスを好きだと言う男じゃないと認めないからな!!
国にいるだけでこの様である。
では、現地ではどうなっているのか?
まさか男に口説かれてはいないか?
強引な男に迫られてはいないか?
まさかクノンか? 噂のあのガキが付きまとっているのではないか? それとも雑貨屋のガキか? キメるなどという俗な言葉を教えたあのガキか?
心配で心配でたまらない。
一刻も早く様子を見に行きたい。
アーチルドの不安は大きくなっていき――しばしの時を経て。
「なっ……!?」
――光る種が届いた。
豊穣の力を種に宿す、というとんでもない技術を編み出したそうだ。
この技術を使えば、どこでも誰でも霊草が育てられるとか。
「……そろそろ限界だな」
この功績は大きい。
どこぞの大国が王妃として欲しがるレベルである。
レイエスが心配だ。
心配で心配でたまらない。
教皇の椅子がこんなに疎ましく思ったことはない。
この椅子さえなければ。
今すぐ飛んで行くこともできるのに。
――近く、ディラシックに行くべきだろう。
そのための予定を立てねばならない。
「フォン、一週間ほど時間は取れないか?」
「無理ですね。予定が詰まってますので」
「そこをなんとか。少し無理をしてもいいから」
「無理ですね。取れて半日がいいところです」
「……教皇やめようかな」
「無理ですね。私が逃がしませんよ」
娘を思う気持ちだけが募っていく。