219.思ったより綱渡り
「あの人たちは帰りましたよ」
テーブルに着いたクノンに、侍女が言った。
クノンが目覚めたのは、翌朝だった。
朝から夕方まで買い物に連れ回され。
その後、神経を擦り減すような魔術戦をこなした。
その結果、半日も休んでしまった。
思いのほか疲れていたようだ。
「あ、そう……見送りくらいしたかったな」
ゼオンリーもミリカも。
ついでにダリオも。
滅多に会えない人たちだ。
ただでさえ滞在期間が短かった。
過ぎてしまえばあっという間だった。
もっと同じ時間を過ごしたかった。
特に、ミリカとは。
次会えるのはいつになるのか。
せめてお別れの挨拶くらいはしたかった。
「いいんじゃないですか? 次の機会があるじゃないですか」
「え?」
「一度ヒューグリアに帰るって約束をしたんでしょう?
将来クノン様が拝領する領地を見に行くとか行かないとかで」
――侍女は今朝話を聞いたのだ。
まだ空が暗い朝。
ミリカの侍女ローラが、ヒューグリアに帰る旨を伝えに来たのだ。
その時、「来る予定が決まったら絶対に教えてほしい」とクノンへの伝言を預かった。
その時にざっと聞いた。
ミリカはすでに、クノンが拝領する領地で開拓作業をしていること。
そしてクノンとは約束をしていること。
近い内に領地の様子を見に行く、と。
侍女がそう言うと、話が早いとばかりにクノンは頷く。
「実はそうなんだ。ただ、単位がなぁ……」
移動時間を考えると、最低でも一ヶ月は欲しい。
最速で移動するとして、五日から一週間が片道。往復最大二週間。
向こうに滞在するのは二週間くらいか。
ミリカはもう開拓作業をしているそうだ。
だから、向こうに滞在する間はしっかり手伝いたい。
というか、だ。
手伝いたいも何も、本来はクノンがやるべきことなのだ。
ミリカにだけ押し付けていいわけがない。
――となると、やはりネックは単位である。
今すぐは動けない。
留年はかなりまずいので、単位を取ってから行くべきだろう。
でもこれからの予定を考えると、いつになるか。
「調和」代表シロトに誘われた造魔の実験もある。
あれは最短三ヶ月くらいを見ている。
まだ時間はある。
あるが、余裕があるとも思えなくなってきた。
これから少し忙しくなりそうだ。
急いで単位を稼がないと。
「クノン様クノン様」
「ん?」
これからのことを考えていると、朝食を運んでくる侍女が言った。
「クノン様の領地にレストランとか作ってもらえません?」
「あ、君と君の婚約者のお店?」
合法の料理の店を持つこと。
それが侍女の目標であり、ここにいる理由である。
今は婚約者と離れ、それぞれで貯金している最中なんだとか。
「ええそうです。大通りに面した一等地候補にドーンと! 大きな高級店を!」
「僕、隠れ家的なお店の方がいいなぁ」
「それは二号店で用意しますので、まずは一号店をバーンと! 大きなお店を!」
「まだ早いと思うよ」
現在、どれほど開拓が進んでいるかわからないが。
そんなに進んではいないだろう。
人もいないし誰も来ないし何もない。
開拓地なんて、そんな辺鄙な場所である。
そんなところにレストランなど必要かって話だ。
庶民向けの飯屋で充分だろう。
「お店を出すために貯めた大切なお金でしょ? 場所も見ないで決めるのはよくないよ」
「……まあ、そうですね」
侍女は納得した。
今ならものすごくいい場所が取り放題かもしれない。
将来的にはとんでもない金額の土地になるかもしれない。
だが、ならない可能性も充分あるのだ。
クノンの言う通り、現場を見て判断しても遅くないだろう。
「小さなお店なら僕がプレゼントしてもいいよ、レディ」
「ほんとに!?」
「魅力的な君だけに特別だよ。まずそこを経営してみて、様子を見てから決めるといいんじゃないかな」
――領民が増えるのは喜ばしい。
わざわざ人の文化がある場所から移り、何もない開拓地に住んでくれるというなら。
小さな店の一つや二つ、きっと安い。
それが気心の知れた相手なら猶更だ。
でもまあ、全ては現地の様子を見てからである。
「クノン様ってすごい! まるで愛人にお店を持たせるみたいなノリですね!」
「はっはっはっ。でもごめんね、僕婚約者がいるからリンコの気持ちには応えられないんだ」
「あ、はい」
――侍女は急に醒めた。
「僕の婚約者」が王族の姫君だと思い出したからだ。
クノンはともかく、向こうの逆鱗に触れたら。
首が飛ぶ。
ミリカに会って確信した。
あの子はきっと、本気で邪魔だと感じたら、誰であろうと躊躇せず処す。……と、思う。
今回、彼女らがやってきたことで。
この仕事が思ったより綱渡りだったと侍女は思い知った。
だが、高給かつ快適なこの仕事、この環境。
正直離れ難い。
綱渡りしている足元から目を逸らすくらいには。
底なしの奈落など無視したくなるくらいには。
――人って業が深いな、としみじみ思った。