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20.いざ王城へ

2021/08/15 修正しました。










「またこの服を着る機会があるとは思いませんでした」


 馬車が動き出し、グリオン家の門を潜ったところで、クノンは言った。


「人生って何があるかわかりませんね」 


 今クノンは、貴族学校へ行くと決まってから、母ティナリザがわざわざ作らせた正装を再び身にまとっている。可愛い蝶ネクタイもだ。


 学校は無事卒業できたし、何かのパーティーに出る用事もない。

 何より九歳のクノンの身体はすぐに大きくなる。


 だから、もう着る機会はないと思っていたのだが。


 しかしこれから王城へ向かうのだ。

 正装は欠かせない。


 まるで、こんなこともあろうと予想していたかのような、母の先見の明だった。


 向かいに座る父アーソンも、正装である。

 まあ父親の場合は毎日着る仕事用の服でしかないが。


「そうだな。私もおまえと一緒に王城へ行く日が来るとは考えたこともなかった」


 ――もしかしたら一度だけあるかもしれない、とは思っていたが。それにしてもこんなに早くはなかった。


 ミリカと結婚する直前での国王陛下への挨拶か、婚約解消の書類にサインをする時か……父親は漠然とそんなことを考えていた。

 クノンと王城を繋ぐ関係なんて、許嫁のこと以外ないから。


 だが、そんな父親の予想を、クノンは見事に裏切ってみせた。


 先日、クノンから王宮魔術師に師事を仰ぎたいと乞われ、却下されるのを覚悟して陛下にそれとなく話してみたところ――


 会っていいと許可が出てしまった。

 王宮魔術師が、魔術師としてのクノンに興味を示したからだ、と。


 決して癒着からの許可ではない。


「不思議なものだな」


 父親は文官で、魔術師と関わる部署でもないから、魔術のことはよくわからない。


 だが、確かにこれは普通じゃないことは理解できる。


 何せ触っている(・・・・・)から。

 魔術という不思議そのものを。


「本物を飼ったらどうです? 父上の富と権力なら造作もないことでしょう?」


「駄目だ。こんなのがいたら家で仕事ができなくなる」


 しかし父親が膝に乗せている「水猫」は、拒否の言葉を否定するように、ひたすらに撫でられ続けている。


 いや、むしろ肯定しているのか――このように猫が気になって仕事に手がつかなくなるから、と。


「侯爵グリオン家の富と権力を駆使して、世界中の可愛い猫を集めることができると思いますが」


「馬鹿なことを……ティナは犬派なんだ。猫など許されるものか」


 そもそも生き物は足元にまとわりつく。

 クノンが転ぶ理由になりかねない。


 そういう理由から、飼う飼わない以前の問題だった。ペットが欲しいなどと話をしたことさえない。


「そうですか? 猫は貴族のたしなみだってミリカ殿下もイコも言ってましたけどね」


「たしなみ?」


「貴族は外に猫を囲うことが一種のステータスとかなんとか。外じゃなくてもいいじゃないか、と僕は思うんですけどね。でも家に連れ込むのは品がないと言われるそうですよ」


「……」


「それは猫じゃなくて愛人の話じゃないか?」と父親は思ったが、さすがに九歳の子供にはまだ早い言葉なので控えた。


 イコだけならともかくミリカも言っていたなら、比喩的な表現でもないだろう。

 イコだけの発言なら減俸付きの説教ものだが。


 ――父親は知らない。侍女イコの言動がクノンに伝わり、クノンの言動からミリカも相当な影響を受けていることを。


「……外に猫を囲う、か」


 妙に心に響き渡る言葉だった。


 小さい頃は勉強ばかり、大人になったら仕事ばかり。

 趣味らしい趣味もなく生真面目に生きてきた――クノンの将来を考えると不安になり、逃げるように仕事に打ち込んできた。


 しかし、こうして王宮魔術師に会うことが叶うまでに、クノンは成長した。

 アーソンの不安と心配は、今や無に等しいほどになっている。


 ――許されるのでは? 外に猫を囲うことも。別に浮気でもないんだし。猫を囲うくらいの富と権力もあるし。


 久しぶりに猫に触れたが……癒される。ほんの一時でもいいから猫を撫でながら何もしない時間を過ごしたくなってきた。


 きっと疲れているのだろう。

 心身ともに。

 猫がいるなら休みが欲しいと思うくらいには。


 父親の心に野望の火種がくすぶる。

 それに気づかないクノンは取り留めのない話を続け、父親は息子の話を聞き流しながら膝の上の「水猫」を撫で続けた。


 そして、馬車は王城の門を潜る。





「父上、着きましたよ」


「待て。もう少し」


「帰ってからにしましょう。また出しますから」


「でもそれはこの子じゃないだろう? 違う子だろう?」


「父上、そもそもその猫は生き物じゃないですから……」


「だから名残惜しいのだ。おまえが術を解いた瞬間、この子はこの世からいなくなるんだ。手触りも体温も感じる。こんなにも愛おしいのに……なんと儚い……」


「……僕は全然このままでもいいんですけど……でも、お城の人が待ってるみたいですけど」


「――早く降りるぞ」


 アーソンが合図をしないので、馬車のドアを開けられなかった御者の男が困惑しているのをよそに、当人は心を切り替えて水からさっさとドアを開けた。


「こんにちは、グリオン卿」


「…! これはレーシャ様!」


 わずかとは言え、大変な人を待たせてしまった。慌てて馬車から下りて略式の礼を取る。


 ――そこにいたのは、王宮魔術師である証のフード付きの黒い上着を着た女性。


 第二王女レーシャである。


「あら、猫を連れてきたの? 可愛い黒猫」


「ああこれはなんでもありません。息子の魔術でして」


「え?」


 一瞬何を言ったのか理解できなかったレーシャの前で、父親は猫を地面に置いた――と、ばしゃんと水になって猫は消えた。


「……今のが、魔術……?」


 色々と面白いことができるという噂は聞いていたレーシャだが……


 今見た猫は、猫そのものだった。

 透明でもなかった。

 言われても水でできた猫だなんて一目ではわからないくらい、精巧な姿形の猫だった。


「初めまして――」


 地面を濡らす水の後を呆然と見ていると、父親に続いて男の子が降りてきた。


 目には革の眼帯を巻き杖をついた、十歳に満たない小さな少年だ。


「クノン・グリオンです。本日は僕のために時間を作っていただいてありがとうございます」





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