17.いい機会
「――行っちゃいましたねぇ」
「――そうだね」
辞めそうだなぁ、と思っていた家庭教師ジェニエが、本当に辞めてしまった。
クノンとしては悲しいばかりだが、何度も前兆があっただけに、覚悟はできていた。
いつかこんな日が来るかもしれない、と。
「まあ、仕方なかったかもしれませんね」
さすがに、グリオン家に関わる辞める辞めないの大事な話なので、無遠慮な侍女も何も言わなかった。
何も言わず、辞める旨を口にするジェニエと、それを引き留めるクノンの様子を、見守るばかりだった。
そうしてジェニエは去り、離れの庭にはクノンと侍女、そしてクノンが魔術で出した数々の水の動物が佇むだけである。
「元々ジェニエ様は、魔術師として覚醒したばかりのクノン様には丁度いい魔術師だった、と聞いていますから。
魔術学校の成績では、中くらいの方だったとか」
「らしいね」
つまり、魔術師としては平々凡々とした実力しかなかったということだ。
初心者になら教えられるが、それ以上の相手に教えるとなると、厳しかったのだろう。
無理しているっぽい言動はちゃんと見てきた。
「でも、僕はそれでもジェニエ先生が良かったけどね」
「あれって本心だったんですか? ジェニエ様の小細工が好き、って」
「本心だよ。間違いなく僕の本心だ」
クノンは、見えない目で周囲の水の動物たちを見回す。
「そもそもね、苦し紛れの小細工だって、一年以上も出し続けられるなら、それはもう実力だと思うよ。
普通に教わることなら本でも学べそうだし、他の教師でもできるからね。でもあの無茶な授業のやり方はジェニエ先生にしかできないんじゃないかな。
僕には向いていたと思う。本当に本心だよ」
一年以上、ああでもないこうでもないと、ジェニエの小細工を踏襲して魔術に触れてきた。きっとできなくてもいいことまでやってきたのだと思う。
おかげで、異様なまでに器用なことができるようになった。
普通のやり方では、クノンの望みはきっと叶えられない。
だからこそ、普通はやらないのであろう変わったことをやり続けたこの二年は、とても貴重な時間だったのだと思う。
無駄だなんて少しも思わない。
ただ――
「寂しくなるなぁ。惜しい人をなくした」
「その言い方だと死んだみたいですね」
気心の知れた人がいなくなる。
それがただただ寂しい。
「そういえばイコ、フラーラ先生も辞めるんだよね?」
「辞めるというか、もう辞めていますよ」
「え? 挨拶してないのに?」
「近い内に旦那様から聞くと思いますけど、あえて私が先に言いますね。
フラーラ様は、クノン様に会って別れを告げると泣きそうだからと、旦那様に話を通したそうですよ」
フラーラ・ガーデン男爵夫人は、貴族学校で学ぶことを教えてくれていた家庭教師だ。
しかし先日、クノンは昇級試験を受けて卒業してしまったので、もう座学は必要なくなった。
一応、上級貴族学校の授業もできるそうだが、グリオン家を継がないクノンには、そっちの授業も必要ない。
「そうかぁ。お別れの手紙でも出そうかな」
「喜ぶと思いますよ。ついでにガーデン男爵家に十八歳から二十五歳くらいの高給取りで背が高くて見目のいい男の使用人がいないか聞いてみてくれません?」
「イコの結婚相手?」
「はい」
「僕を捨てて男爵家の使用人に嫁ぐの?」
「クノン様と別れるのはつらいですけどね。でも結婚はしたいんです。それにクノン様はもう一人でもやっていけるじゃないですか」
「やっていけないよ。ジェニエ先生もフラーラ先生も辞めて、この上イコまでいなくなったら耐えられないよ。知ってる? ウサギって寂しいと死ぬっていう迷信があるんだって」
「迷信なら大丈夫ですね」
「そうだね。僕がウサギだったら寂しくても迷信で死なないのになぁ。でも僕は僕だから寂しいと死ぬんだよなぁ」
「アッハハー面白い冗談。寒いし部屋でお茶にしましょう」
「うん」
「手紙に書いてくださいね」
「それはやだ」
ジェニエではないが、確かに契機ではあったのかもしれない。
貴族学校卒業の証を手にしたことで、生活に一区切りついた気がする。
家庭教師はいなくなり、クノンの日常も少しばかり様変わりすることになるのだろう。
座学と魔術の授業は、ほぼ毎日午前中を使っていたので、その予定が丸々空くことになる。
これ幸いと、空いた時間はすべて調べ物や本に没頭したいクノンだが――さっき聞いたジェニエの言葉も気になっていた。
――もっと優秀な魔術師を師に迎えろ。
時間は有限だ。
本を読むにしろ調べ物にしろ、それらは一人の時にいくらでもできるが、師を迎えての訓練はいつでもできるわけではない。
クノンにとっての最高の魔術師はジェニエだ。
だが、決して他の魔術師に興味がないわけではない。
未知なる刺激。
これまで触れることのなかった方面の知識。
九歳のクノンには圧倒的に足りない経験。
家庭教師たちと仲良くなることで、授業とは関係ないいろんなことを教えてもらったが、それらも無駄ではなかったとクノンは思う。
きっと、一人で黙々とやっているだけでは、クノンの野望には近づけない。
知識も経験も魔術の腕も、まだまだ全部足りないのだから。
――新しい魔術の師は、クノンが野望に近づくために、必要な存在なのかもしれない。
「イコはどう思う?」
本を読む手を止めて、同じ部屋で待機している侍女に問うと。
「王宮魔術師のゼオンリー・フィンロール様がすっっっごい美貌の男性だって有名ですよ! ゼオンリー様を師として迎えるよう旦那様に今すぐ話を通しましょう今すぐ! さあ今すぐ!」
なかなか熱の入った返事が早口で返ってきた。
「ゼオンリー様かぁ。でも僕は女性の先生がいいなぁ」
「贅沢言わない。王宮魔術師ですよ」
「女性の王宮魔術師もいるんじゃないかな」
「ミリカ王女殿下に言いつけますよ。クノン様はすっごい下心ありきで女性の魔術師を選んだって」
「それは困る。でもおばあさんの魔術師もいそうだよ?」
「老いても女! 老いても女でしょ! 私はクノン様を、女性の年齢で扱いを変えるようなゲスに育てた覚えはありませんよ!」
「そ、そうだね……僕が間違っていたよ。そうだね、おばあさんでも女性だからね。男と女なんて何があるかわからないよね」
九歳男児と老女の間に何があるというのかは謎だが、クノンは深く納得した。
「とりあえず、新しい魔術師の件は父上に相談してみよう」
出会いがあれば別れもある。
学校卒業を機会に、家庭教師が辞めた。
だがそれは、新たな出会いの機会でもあるのだろう。