168.聖女が笑った
「――なぜか穴が空いていて、不注意にもそこに落ちた形になります」
聖女レイエスの教室を訪ねたクノンは。
聖女本人に、まず、そんな説明をされた。
聖女は無事だった。
数日行方不明になっていたらしいが。
少し髪が乱れて服が汚れているくらいで、他には何の支障もなさそうだ。
――エルヴァがカシスに連れて行かれた後。
リーヤは自身の派閥である「合理」の代表を探しに行き。
クノンは真っ先に聖女の様子を見に来た。
単純に心配だったからだ。
無事だという話は聞いた。
だがそれでも、自分の目で確かめたかったのだ。まあ見えないが。
事情こそ違うが、いつものように聖女の教室にやってきた。
果たしてそこには。
少々くたびれた格好の聖女が、植物の様子を見ている姿があった。
いつものように。
「急な傾斜になっていたようです。無力な小石のごとく穴を転がり落ちた私は、いつの間にか石積みの迷宮の中にいました。
真っ暗で、落ちた拍子に怪我もしたのですが、幸い私は光属性ですので」
苦境である。
準備なしに放り込まれれば、大変なことになっていただろう。
だが、聖女にとっては特に問題はなかったようだ。
自前で怪我を治す魔術もあれば、光源を生む魔術もある。
「それに、一緒に調査に来ていた先生たちが早々に私の不在に気づき、自ら穴を降りて助けに来てくれたのです」
なるほど、とクノンは頷いた。
そう。
何もわからない森の調査をしていたのだ。
どんな危険があるかわからない。
あるいは危険があっても対処ができるよう、単独行動を許さなかったのである。
聖女が落ちた時、教師がすぐそばにいた。
だからすぐに救助された。
何があっても安心の布陣である。
「じゃあ、数日行方不明になってたのって」
「地下迷宮の中にも植物が広がっており、その調査をしていました。石畳なのに根が張り、低木のようなものまで生えていましたので。
日の当たらない環境だけに、面白い成長をしていました。非常に興味深いものでした。先生方と一緒になって観察を続けました」
つまり、そういうことか。
「観察に夢中になっていたら何日か過ぎていた、ってことだね」
「ええ。地下では時間の感覚がわからなかったので、気が付けばそれくらい経っていたというだけです。
いざ地上に戻ったら数日経っていたと言われ、驚きました」
それは驚くだろう。
だが、時間の流れが早くなることは、よくある。
集中して楽しい時間を過ごしている時は、よくそうなる。
「まあ、確かに、何度か意識を失うことはありましたが」
それはたぶん寝落ちしていたのだろう。
意識は常に覚醒している。
夢中になればクノンもそうなるので、そこはわかる。
だが、身体は正直である。
自覚はなくともちゃんと疲れているものだ。
「あの森ってどうなってるの?」
クノンはまだ森には入っていないが。
聞いた話によれば、植物が移動したり、穴が空いていたりするようだ。
今回は地下施設と繋がっていたりしたようだし。
霊樹
すごい植物だとは知っているクノンだが。
とんでもなく厄介な存在に思えてきた。
――聖女同様興味深くてたまらないが、放置するのも危険な気がしてきた。
現に聖女は、穴から落ちた時に怪我もしたそうだ。
とてもじゃないが、危険がないとは言えない森である。
「面白いですよね。育てた環境の違いで植物もまた変わる。
こんなにも奥の深い生命が満ち溢れているこの世界は、まさに神の奇跡の産物と言えるでしょう」
いつもの無表情だが。
どこか穏やかで。
神を語る聖女レイエス。
その姿は信心深い本物の聖女であることを、強く感じさせた。
「――あと半年もすれば、あの迷宮は植物に満ちることでしょう。神の御業の為せることです。
フッ……あと半年もすれば、私の理想の環境が……私の理想の植物の地下都市が……ふふ……」
聖女が笑った。
初めて笑った。
それはどこまでも純粋な笑みだった。
善悪を問わない純粋な笑みだった。
ともすれば自分の知識欲が満たされることへの期待と情熱。
そんな気持ちが溢れて顔に出ているのだ。
クノンはそれを美しいな、と思った。
見る人によっては、結構邪悪に見えたかもしれないが。
――でも、地下に広がる植物たちが今まさに駆除されようとしていることを、告げることはしなかった。
揉めるのが目に見えている。
教えれば聖女は止めに行くだろう。
だが、植物の進行を止めねば、地下施設が崩壊する危険がある。
さすがに知識欲の前に人命である。
もし人工ダンジョンが崩れたら、そこを拠点にしている「合理の派閥」が大変なことになる。
こればっかりは仕方ないと思う。
クノンだってかなり興味はあるが、人の犠牲の上に存在していいものではない。
「レイエス嬢」
「はい?」
「またなんか一緒に実験やろうね」
「……? はい」
これから後。
あるいはすぐ。
聖女はとてもがっかりするのだろう。
クノンはそれを知っているが、何も言えない。
きっとそんな痛みも、彼女の感情や情緒の成長に必要なのだろう、と。
そう思うことにした。
それから数日後。
聖女は、植物の地下都市という野望が潰えていたことを知った。
「……ああ、そうですか」
見た目はいつも通りだが。
心なしか、どこか寂しそうだった。