165.セララフィラの話
「セララフィラ嬢の家ってこの辺なんですね」
この辺は高級住宅地である。
かの狂炎王子も、この辺に家を借りて住んでいる。
つまり、豪邸である。
心配になるほどの豪邸である。
特級クラスは生活費を自分で稼ぐ必要がある。
家賃は学校が払ってくれるので、住む場所自体はどこでもいいのだが。
無駄に広いと手に余るし、維持も大変である。
家を守る使用人たちの給料も自分で稼ぐ必要があるので、人を多くするのはリスクが高いのだ。
「生活、大変そうですけど。大丈夫なんですか?」
庭先に用意されたテーブルに着き。
クノンは本日朝から三度目のティータイムである。
朝食で、喫茶店で。
そしてセララフィラの家で、だ。
「今月一杯まではこのままですな。
実は入学試験の結果から、特級クラスを勧められたのです。元は二級クラスに進むつもりでしたので」
給仕に佇むルージンはそう答えた。
執事姿そのままに、彼には執事の仕事がよく似合っている。
「結局、お嬢様は特級クラスへ通うことを決めましたが」
なるほど。
二級だったら仕送りも貰えるので、この規模でも問題ない。
そのつもりで来たから、こうなっているのだ。
「来月からは使用人を何人か帰して、ちょうどいい家を探すつもりです。
お嬢様がどれだけ稼げるのか、というのもありますので、まだ不明瞭なところが多いですな」
そういえば、とクノンは思い出す。
魔術学校の試験。
特級クラス入りの試験と、一般向けの試験は別にあるという話だ。
クノンは前者を受けた。
セララフィラは後者で、試験結果から特級入りを勧められたらしい。
きっとジオエリオンも勧められたはずだが。
家庭の事情で、彼は断ったのだろう。
「ルージンさんはディラシックに残るの? それとも引き上げるの?」
「どうでしょうな。元は最後まで付き従うつもりでしたが、色々と事情が変わってきましたので……」
――入学早々セララフィラの行方不明、外泊。
護衛も兼ねて同行してきたルージンだ。
大恩あるクォーツ家の娘を、身を呈してでも守り抜くつもりだった。
そんな覚悟をあざ笑うように。
すでに取り返しのつかない致命的なミスを犯してしまっている。
結局セララフィラは無事戻ったから構わない?
いいや。
それはあくまでも結果論である。
一度は帝国に戻ることになるだろう。
クォーツ家に陳謝するために。
「大丈夫ですよ」
「はい?」
「ルージンさんがいなくなっても、僕がちゃんとセララフィラ嬢の面倒を見ますよ。僕は紳士ですからね!」
――それが一番不安なんだ、とルージンは思った。
今もっともセララフィラに近づいてほしくない男だ。
羽毛のように軽く、息をするように女を口説くこの男は非常に性質が悪い。
「それにエルヴァ嬢もセララフィラ嬢を気に入っているみたいだし、彼女もしっかり見てくれると思いますよ!」
――今となってはそれが一番悔しいんだ、とルージンは思った。
産まれた時から世話をしてきた。
不遜ながら、娘にも孫にも似た感情を持っている。
そんな大切なお嬢様が。
二週間くらい一緒にいただけの女に、奪われた。
もう悔しくてたまらない。
悔しくて悔しくてたまらない。
もう少し若ければ。
あと四、五歳若ければ、耐えられなかったかもしれない。
部屋に戻って枕に顔をうずめて大声で叫んでいたかもしれない。
それくらい悔しい。
この歳になってこんなに悔しいことがあるのかってくらい悔しい。
胸中に強く暗い気持ちが渦巻いている。
だが、老執事は微塵も表に出さない。
「お嬢様が困っている時は、ぜひ手を貸してあげてください」
一度はディラシックを離れる必要があるだろう。
だが、いつか必ず戻ってきたいと、ルージンは思っていた。
ほがらかな眼帯の少年と、心中の闇をたぎらせる老執事。
そんな傍目には異常が伺えないテーブルに、エルヴァが合流した。
「どうも――聞いてきましたよ」
と、彼女はルージンが引いた椅子に自然に収まった。
「お嬢様はなんと?」
気は急くが、態度は優雅に。
老執事は紅茶を注ぎながら話を促す。
「詳しくは彼女から説明がありますから、簡単に」
――つい先程。
セララフィラが部屋から出てきてすぐ。
エルヴァの指示で、男たちはその場から追い返されたのだ。
部屋から出てきた彼女を一目見た瞬間。
エルヴァは大体の事情を察した。
藍色の髪は乱れ、目の下にうっすら隈ができて。
着ている物もしわだらけでよれよれで。
一目見てわかった。
ああ、彼女は自分と同じことをしているのかもしれない、と。
そして、その予想は当たっていた。
「特訓です」
「……はい?」
「魔術の特訓ですよ。部屋にこもってずっとやっていたそうです」
「……」
――あまりにも予想外すぎる答えに、ルージンの思考が止まった。
「な……なぜ? なぜ部屋にこもって? なぜ誰も近寄らせず?」
別に悪いことはしていない。
ならば誰の目を気にする必要があるのか。
……と、男は思うのだが。
「ちょっと考えてくださいよ。女の子がなりふり構わず努力する姿なんて、男に見られたいわけないじゃないですか」
女を捨てる瞬間もあるのだ。
それが、なりふり構わない努力というものだ。
セララフィラはまだ十二歳の女の子である。
多感なお年頃である。
人目くらい気にして当然だ。
エルヴァだって、実験や研究の末にダサくなる自分を受け入れるには、少々時間が必要だった。
「――お姉さま、その先はわたくしが」
そこで、件のセララフィラがやってきた。
きちんと身だしなみを整えて。
ついさっき部屋から出てきた時の、少々くたびれた少女はもういない。
「ご心配をおかけしてすみませんでした。クノン様も、来てくださってありがとうございます」
「君のためならこれくらい構わないよ、レディ」
「どうやらうちの執事がご迷惑をお掛けしたようで。申し訳ありません」
丁寧に頭を下げるセララフィラに、老執事がうろたえる。
「お、お嬢様……」
「――じい。わたくしは『放っておいて』と何度も言ったじゃない。なぜ放っておいてくれなかったの?」
「いえ、しかし、あんな風にお引きこもりあそばされれば、心配もしますぞ」
「事情を話しても気を遣うでしょ? そういうのもいらなかったの。
わたくしは放っておいてほしかったの。本当に。それだけを望んでいたのに。
それなのにこんなに大事にして。クノン様を巻き込んで。エルヴァお姉さまにまでご足労を掛けて」
「……お、お嬢様……」
――できることなら話したくなかった、とセララフィラは思っていた。
だが、こうなってしまった以上、話さないわけにはいかない。
「遠征に行って見せつけられたのよ。
本物の魔術を。
わたくしの児戯のような魔術とはまったく違う、本物を見せられたの。何度もね。
今のままでは特級クラスについていけないって思ったのよ」
だから特訓をすることにした。
もはや一刻の猶予も許されない。
この一ヵ月で、自分の中に可能性が見えなかった場合、二級クラスに行こうとまで考えていた。
セララフィラはクォーツ家の娘。
家名に恥じない振る舞いが求められる。
実力不足のくせに特級クラスにしがみついている、などと言われるわけにはいかない。
「そのように言ってくだされば放っておきましたぞ!」
「じいは放っておかないわ」
「私めを信じてほしい!」
「信じているから言っているのよ。
わたくしの特訓は、夜を徹して、倒れるまで、寝食を忘れて限界まで、とにかくやるしかないの。無茶を重ねるしかないの。
じいは、無茶をするわたくしを放っておけないでしょう? じいだけじゃなくて、使用人たちも。
その気遣いはありがたい。
けれど、今は本当に必要ないの。
わたくしは魔術師になりたい。なりたくなったの。だからわたくしを止めないで」
そう語るセララフィラの瞳は、強い光を宿している。
少々疲れが顔に出ているが、それでも意志の力は漲っている。
「……お嬢様……」
――ルージンはセララフィラの成長を感じていた。
自分の傍から離れていくのがわかる。
だが、それを止めることは許されないことを、知っていた。
見送るしかない。
つまり――放っておくしかないと、やっとわかった。
本当に、言葉通りの意味で。
「――お姉さまと一緒にいたいし、特級クラスに残りたいの」
「……ん?」
…………
気にならないと言えば嘘になるが。
しかし、まあ、ひとまず、今はいいだろう。