160.キームの村にて 5
「――なあ、あんたら知ってた?」
サトリは何も知らなかった。
まったく気づかなかった。
ただ、「今回やたら差し入れが多いな」とうっすら思っただけだ。
「いえ、俺は詳しくは知らないです」
「同じく……」
早朝。
遅れて簡易研究所にやってきたサトリは、助手たちに聞いた。
この状況を知っていたのか、と。
答えは否だった。
「まあ、多少妙だとは思っていたんですが……」
ザリクスは周囲の変化に、思うことはあったようだが。
だが、サトリら同様、深く気にしなかった。
――問題が浮上した。
ついさっき、サトリは村長に呼ばれた。
そして正式に抗議を受けてきた。
曰く「そちらの魔術師の一人が、村の女性たちを誘惑して困っている」と。
村長ほか、十名を超える村の男たちが集う村長宅の中。
ごもっともな文句を言われてきたところだ。
そんなの知るか、心当たりなんてない――なんて、心にもないことは言えなかった。
むしろ心当たりしかない。
事実確認をするまでもなく。
サトリはその場で抗議を受け入れ、研究所にやってきた。
そう、心当たりはある。
サトリどころか、助手を含めて三人ともある。
やれ焼き菓子だの果物だのジャムだの。
いつになく頻繁に差し入れがあり、作業しつつそれらを食べてきた。
思えば、用意してくれる食事も、それとなく豪華だった気もする。
キームの村では、魔術師は歓待される。
食事は用意してくれるし、身の回りの世話を始め、大抵のことは頼めばしてくれる。
まあ、有償ではあるが。
そして基本的に、村人はあまり接触してこない。
だから、たとえ同じ場所に住んでいても、情報交換したり共有したりすることはまずない。
あくまでも村の客人として、一線引いた関係を続けてきた。
それゆえ、知らなかった。
気づきもしなかった。
実験が始まった魔術師は、実験以外が非常に疎かになる。
平時であっても周囲への気遣いができない魔術師が多いのに、実験中は更にひどくなる。
「まあ、クノン君は見た目はかわいいし、性格の前情報がないと……純朴な村の娘は、アレかもなぁとは……」
サイハの言い分はわかる。
クノンの言動は軽薄だ。
彼自身が学校でも有名なので、今や誰もが知っていることである。
皆それを踏まえて付き合っているのだ。
踏まえているからこそ、「クノンは面白い子」と割り切っている者も多いのだ。
だが、もし知らなければ?
しかも貴族に免疫のない村の女が、貴族然とした少年の言動を素直に受け止めたら?
今回の件は、そういうことである。
きっとクノンは、魔術学校にいる時と変わらなかったのだろう。
この村でも。
クノンの性格にすっかり慣れているサトリである。
盲点だったとしか言いようがない。
「それでサトリ先生、どうするんですか?」
「別にどうもしないさ」
抗議は聞き入れた。
だが、特に問題はないと判断した。
「あたしらはもう撤収するしな」
――そう、実験はすでに終わっている。
あとは、荷物をまとめてディラシックに帰るだけ。
後片付けがあるので今日までは残ったが。
しかし通いのクノンに至っては、今日は来ないのだ。村に来るのは昨日までである。
「クノンはもう来ないからそれで勘弁してくれ、って言ってきたよ」
サトリの返答に、村の男連中はほっとしていた。
少し聞いた話によれば。
子供からお年寄りまで、クノンは村の女性たちに広く人気を博していた。
男たちが仕事で家にいない日中、気が付けば子が、嫁が、祖母が……と。
そういうことらしい。
村長も安堵していた。
孫娘が被害にあったとこぼしていた。
まあ、男の子であっても子供には優しくしていたそうなので、その点だけは評価しなくもない。
もし、子供にまで男女を持ち出して対応を変えるようなら。
多少は軽蔑したかもしれない。
「よし、じゃあ帰り支度をしようか」
最後の最後で問題が浮上したものの。
どうせ最後のことなので、対処する必要はない。
クノンは、言動こそアレだが、結局魔術にしか興味がない同類だ。
サトリはそれをよく知っている。
どうせクノンがここに来る理由はもうないのだから、被害は広がらないだろう。
帰ったら一言くらいは注意しておくつもりだが。
――その後、キームの村からクノンが去ったことが広まり、しばらく村は荒れることになる。
女たちは落ち込み。
男たちは「クノン」という会ったこともない紳士と比べられて憤慨し。
老婆は「無駄に長生きもしてみるもんだ」が口癖になり。
魔術師に抗議したことを知った村長の孫娘は、祖父に冷たくなった。
そんな初秋の珍事は、キームの村に「紳士はモテる」というよくわからない爪痕を残して去っていったのだった。
「――し、失礼! そこの方! お待ちを!」
サトリらがキームの村で撤収の準備をしている頃。
クノンは魔術学校の前にいた。
村での実験が終わったので、久しぶりの登校だった。
だが。
「ん?」
老いた男性の声が飛んできた。
最初は、自分への言葉とは思わなかったクノンだが。
その速すぎる足音は、まっすぐこちらに向かってくる。
「クノン・グリオン様とお見受けします。相違ありませんか?」
「あ、はい」
目の前まで来て、名前まで呼ばれた。
これはさすがに間違いようがない。
六十から七十くらいだろうか。
身形のしっかりした老紳士だ。細身で長身で、どこか鋭利な刃物を思わせる危険な雰囲気を感じる。
「不躾に申し訳ありません。私、クォーツ家の執事です」
「……クォーツ……?」
どこかで聞いた名だな、とクノンは思った。
そして思い出した。
「あ、セララフィラ嬢の」
魔術学校では、家名を名乗る者は少ない。
特級クラスでは特にだ。
クノン自身も、学校内ではグリオン家の名を出したことは、ほとんどない。
「――クノン様」
思わず呟いた、その名前。
それを聞いて老執事がずいっと歩み寄った。
ただでさえ危険な雰囲気なのに。
今、少しばかり、その危険度が増した気がする。
「セララフィラお嬢様のことでお話があります。どうかお時間をいただけませんか?」
それは質問の体だった。
だが、間違いなく、拒否を許さぬ迫力と圧力があった。