157.キームの村にて 2
「ほう。ほうほう。ふうん」
実験を始めて早三日。
通いであるクノンは、一晩の間に変化した水槽を興味深く観察する。
三日目。
この辺から、はっきりと変化が現れてきた。
幾つもの水槽に、細々条件を変えて作られた環境。
中にいる水踊虫の成長と変化。
水質に応じて、水槽ごとの環境に差が出ている。
見た目の変化もあるが、これは想定内。
特に気になるのは――臭気だ。
「結構臭いが違いますね」
初日は、毒素の刺激臭がかなり立っていたが。
今は刺激臭にも違いが出てきている。
きっと毒素に働きかけている作用によるものだろう。
まあ変化があろうと刺激臭は刺激臭でしかないので、あまり嗅ぐことはできないが。
じゃないと鼻が壊れる。
「そうなんだよ」
その話がしたかったとばかりに、ザリクスが観察記録を付けながら言う。
「魔法薬を入れた水だけ臭いに変化が出てるみたいだ。
薬の影響で虫の力を助長しているのか、それともその逆か。そこまではまだわからないが――」
「それこそ観察して解明したい部分ですね」
虫の力を増す魔法薬か、否か。
毒素を浄化する速度が増すか、それとも毒か浄化以外の存在になるか。
そういう話だ。
魔法薬を使うと、突然変異のように。
それも脈絡のない変化を起こすこともある。
未だ魔力の解明がなされていない。
そうである以上、魔的要素がもたらす変化は予想できない部分が多いのだ。
「それにしてもこの虫って強いですね」
水槽の底には毒を含んだ泥。
満たされた水は毒で濁り、見るからに人体に悪そうだ。
そんな水槽の中で、水踊虫は普通にプカプカ浮かんでいる。
草に擬態しながら。
しかし、毒で死んではいないのだ。
どの水槽を見ても、虫はピンピンしている。
人で言うなら、毒の海に漂っているようなものなのだが。
「そこがサトリ先生の興味を引いたみたいね。正直私もここまで毒に強い生物がいるなんて思わなかった。面白い生物だわ」
そう言ったのは、同じく記録を付けているサイハだ。
「そうですね。僕もサイハ先輩と同じくらいこの虫に興味津々ですよ」
虫と同じくらい興味ある。
そう言われて嬉しい女性は少ないだろう。
だが。
「えっほんと? それは光栄だわ」
サイハは奇跡の少数派だったので、普通に照れた。
彼女も根っからの研究者である。
そんな話をしていると、外に出ていたサトリが戻ってきた。
「ああクノン。あんた植物に興味あるかい?」
戻るなりそう言い、会うなりクノンも「あります」と答えた。
「今沼地に生えてる草と種を取ってきた。こいつも浄化中の水槽にぶち込んでみて経過を見ようと思ってるんだ。
成長した草の毒含有率もデータを取りたいしね」
「わかりました。今水槽に入れている魔法薬を追加で調合すればいいんですね?」
「頼むよ。あたしは新しい水槽を用意する」
研究者同士は話が早い。
「――はあ。めんどくさ」
魔術師は上客である。
それは彼女もわかっている。
だが、面倒臭いことには変わりない。
村長の孫娘は、今年十六になる。
小さな村の村長の家系なんて、ただの田舎者でしかない。
だが、村の中では一番の権力者である。
彼女はこの村ではお姫様だった。
そんな彼女は今、重いバスケットを持って歩いている。
普段だったら荷物持ちなんてしない。
重い物でも軽い物でも、村の男の子たちが勝手に持ってくれる。だって彼女はこの村ではお姫様なのだから。
彼女が運ぶバスケットには、魔術師たちの昼食が入っている。
いつもなら祖父か祖母か、あるいは母が持っていくのだが。
今日はどうにも都合が悪いとのことで、孫娘が持っていくことになった。
いつもは激甘な祖父が、村長として直々に命じたのだ。
おまえが持っていけ、と。
村長として言われたら、さすがに断れないしごねられない。
村の代表として責任を持って魔術師に運ばねばならない。
孫娘には、魔術師に対する感想などない。
勝手にやってきて、村はずれの建物にこもって何かをし、いつの間にか去っていく。
それだけの存在である。
だから、十六年この村で生きたにも拘わらず、会うことはほとんどなかった。
遠目でちらっと見かけることがあるくらいだ。
まともに話したこともない。
田舎者と都会人。
ただの庶民と魔術師。
文字通りの意味で、住む世界が違う住人同士だと思っていた。
まあ、なんでもいいのだ。
昼食を渡せば仕事は終わりだ。
さっさと終わらせて、村の男の子と遊ぼう。
みんな年頃の孫娘の気を引きたくて、競い合うようにしてちやほやしてくれる。
一番気に入った男の子と結婚して、所帯を持つ。
田舎者のお姫様は、そんなささやかな人生でいいのだ。
それくらいで充分なのだ。
――そう思っていた。
「……え?」
魔術師が何かしている、村はずれの建物に近づくと。
村の子供たちが集まっていた。
わーわーきゃーきゃーと、何かを囲んで楽しそうに声を上げている。
何事かと思えば――子供たちの中心に、眼帯を付けた同年代くらいの少年が、微笑みながら立っていた。
見覚えがないし、身形もいい。
きっと彼も魔術師の一人だろう。
何をしているのだろう、と訝しげに思い、声を掛けずに近づく。
と――その魔術師は孫娘を振り返った。
「そちらのレディ。君が何がいい?」
「は……はい?」
彼は眼帯をしている。
両目をしっかり塞いでいる。
にも拘わらず、孫娘に気づいたし、まるで見えているかのように顔を向けてくる。
「あ、いえ、私は昼食を届けに来ただけですので……」
「何がいい?」の意味もわからない。
そのちょっと怪しげな眼帯姿に、孫娘の腰は少し引けている。
「そう? じゃあ今度は君かな? 何がいい?」
眼帯の少年は、孫娘から近くの子に声を掛ける。
「馬がいい! 真っ白な馬!」
馬。
子供たちは本当に何をしているのか。
魔術師には関わるな、と言われているはずなのに。
そう思った瞬間、疑問は解けた。
「えっ!?」
気が付いたら、少年の隣に立派な白馬が佇んでいた。
「すごーい!」
すごいすごいと子供たちが騒ぐ。
孫娘もすごいと思っていた。
驚きすぎて何も言えなかった。
何が何だかわからないが、とにかくすごいとしか言いようがなかった。
「乗ってみる?」
「乗りたーい!」
白馬を所望した子がそう言うと、少年は膝を着いた。
「それでは小さなお嬢さん。どうか僕の馬に乗ってください」
まるで王子様のように差し出される手。
子供は顔を真っ赤にして、少しもじもじして、ゆっくりと自分の手を重ねる。
――その光景に、孫娘は衝撃を受けた。
その優雅な所作、品の良い言葉遣いは。
まさに。
まさに、夢に見る白馬の王子様のようだった。
そう思えば、あの少し怪しげな眼帯も気にならなくなっていた。
いや、むしろその下にある素顔が気になってきた。
きっと王子様のように美しいに違いない。
「ああ、あ、あの! あの!」
子供をひょいと白馬に乗せた眼帯の少年に、孫娘は緊張しながら声を掛ける。
「私も! 私も乗りたい! です!」
言ってから少し後悔した。
孫娘はバカじゃない。
自分の我儘や傲慢が許されるのは、この村だからだ。
ちやほやしてくれるのもこの村だからだ。
それくらいは知っている。
少年はこの村の人じゃない。
そんな彼に、子供を押しのけるように我儘を言うのは、きっと好くない。
だが感情が抑えきれなかった。
田舎者のお姫様だって、一度くらい本物の王子様に会ってみたい。
田舎の駄馬ではなく、美しい都会の白馬に乗ってみたい。
できることなら王子様の傍で。
女の子の夢が目の前にある。
だから我慢できなかった。
――そんな後悔渦巻く孫娘に、少年は微笑み、言った。
「もちろん。こちらへどうぞ、素敵なお姫様」
この日から、昼食を運ぶ役目は彼女の仕事になった。