156.キームの村にて 1
ディラシックは国ではない。
だから国土や領土という言い方もおかしいのだが。
周辺国……西側の聖教国セントランスの国境近くまで行った。
だが、境界線は越えていない。
セントランスには入っていないので、ここはディラシックではあるはずなのだ。
「曖昧だなぁ」
クノンは率直な感想を述べた。
キームの村。
森の近くに作られた小規模の開拓村である。
村に到着し、ここがどういう場所なのかを聞いた後の感想である。
上級貴族学校までは行っていないが、貴族としての基礎知識くらいは学んでいるクノンである。
領地の境が曖昧、領民の所属が曖昧。
そんなことはあり得ないと知っている。
いや、まあ。
国じゃないのに国のように成立しているディラシックが特別おかしい、と思えばいいのだろう。
あくまでも、違うのはディラシックだけだ。
「ここの近くの森には、ちょっと特殊な生物や植物が生息してるんだ。
素材が欲しい魔術学校の教師も生徒もよく来るよ」
と、サトリが続けて説明する。
森の奥に、目的地である毒の沼がある。
その毒自体が珍しいようで、その影響を受けて生息する生物・植物も、非常に興味深い素材となる。
この村は、毒沼とその周辺環境を保持するためにできた面もあるそうだ。
「人体への影響は大丈夫ですか?」
傍に村ができているくらいなので、問題ないとは思うが。
「問題ないよ。おいそれと行けない森の深い場所にあるし、万が一の時は解毒剤もすでにあるしね」
「ああ、なるほど」
すでに対策ができていた。
だから毒沼の近くに人が住めるわけだ。
「――サトリさん、お久しぶりですな。ようこそキームへ」
村に入ると、村長を始めとした年寄りたち数名が歓迎してくれた。
「久しぶりだね。しばらく世話になるよ」
事前に連絡も入れていたおかげで、クノンらは即座に受け入れられた。
なお、若者たちがいないのは、すでに働いているからだ。
大きな民家に案内される。
宿泊施設として用意してくれた場所である。
「すぐ出るよ。荷物を置いてきな」
村長らを見送り、早速現地へ行くことになった。
クノンは泊まらないし荷物もない。
なので、サトリと共にザリクス、サイハを待つ。
「意外と近いんですね」
「日帰りできそうだろ?」
「そうですね。でもこれ、冷静に考えると、魅力的な女性と一緒に泊まるチャンスを逃したってことですよね?」
「あ?」
「サトリ先生との外泊チャンスをみすみす見逃す、か……生涯悔いる僕の汚点になりそうです」
「そうかい。そりゃ残念だったね」
そんな話をしていると、ザリクスとサイハが戻ってきた。
「じゃあ行こうか」
今度は沼地まで飛んだ。
毒の沼の調査・解明はとっくの昔に終わっている。
軽く元のデータと現状を照らし合わせ、変化がないことを確認し。
次の工程に移る。
「先生、こんな感じでいいですか?」
「ああ、上等上等」
元々魔術学校の生徒がよく来る村だけに、村はずれに研究用の建物がすでに設置されている。
ここは所有者はいない。
強いて言えば、魔術学校のものである。
ゆえに、教師や生徒が勝手に利用していいことになっている。
中には大した物はない。
しかし、広く、雨風が防げるだけでもありがたい。
四人はそこに荷物を広げ、簡易研究施設を作る。
今回はたくさんの水槽が必要になってくる。
ばらして持ってきた魔硬ガラス製の水槽を組み立てて、ラベルを貼って並べていく。
そして、毒素を含んだ沼の土を入れていく。
ついさっき大量に持ってきたものだ。
吸い込まないように、鼻と口に薬草を挟んだ布を巻いている。
クノンも眼帯に布まで装着している。
もはや顔が見えない状態だ。
「やることはわかってると思うが、軽く説明しておく。
今回は
水質による効果の差を調べる、毒に汚染された環境で虫を繁殖させる、更にはその虫から毒素を抜き取る。
思いつく限り条件を変えて試すから、思いついたことがあったらなんでも言うように」
さあ、楽しい実験の始まりである。
水槽に泥を入れ、いろんな条件を付けた水を注いでいくと。
すぐに異臭が立ち込める。
少し乾かして持ってきたので、泥の毒が気化してきたのだ。
つまり、イキイキとしだしたわけだ。毒が。
「わくわくしてきますね」
「してくるな」
「先生早く虫入れましょう虫。先生虫。虫」
クノンが言えばザリクスが即答する。
聞いているのかいないのか、サイハは待ちきれないようだ。
いざ実験が始まるとなると、どうしてこう興奮してくるのか。
毒素に比例して生徒たちもイキイキしてきた。
きっと今はまだ体力あるからだろう。
どうせ一週間くらいしたら徐々に意識が死んでいくので、元気なのは開始直後だけだ。
「――明日、魔術師たちが来るからな。気を付けろよ」
昨夜、父親は我が子にそう言った。
この村にとって、魔術学校からやってくる魔術師たちは上客である。
常人にとっては、毒に汚染された動植物なんて危険なものでしかない。
しかし魔術師たちは、なんのつもりかそれを有難がって高価で買い取ってくれるのだ。
キームは見た目こそ小さな村だが、割と金回りは良かったりする。
必死になって野菜を育てなくてもやっていけるくらいに。
だから魔術師は歓迎される。
大人たちはわかっている。
だからこそ、子供たちには毎回ちゃんと言いつける。
会ったら挨拶しろ。
仕事の邪魔をするな。
もし彼らから要望があればできる限り聞き入れ、無理だと思えば大人に相談しろ、と。
元々魔術関係にしか興味のない者たちばかり。
ゆえに、過干渉さえしなければ、何の問題も起こらない。
ずっとそうだったし、きっとこの先もそうだ。
少なくとも、村人の全員がそう思っていた。
――今年七歳になるこの村の少女も。
今回も、何も起こらないと思っていた。
「あっ」
少女が転んだ。
友達と一緒に走り回って遊んでいた少女が、石に躓いて倒れた。
「いてて……」
思いっきり手のひらと膝を擦りむいた。
服は派手に汚れ、髪にも土がついた。
友達が慌てて「薬を持ってくる」と行ってしまい。
少女はその場で座り込み、待つことにした。
まあ、元気な村の子供である。
転ぶこともよくあるし、これくらいの怪我なら泣くほど痛くもない。
だから、何の問題も――
「――大丈夫?」
不意に聞こえた声。
聞いたことのない、落ち着いた男の子の声に、少女はドキッとした。
「え、あ……」
振り向いて見上げると、ベルトのようなもので目を覆った、少々異様な少年が立っていた。
見覚えがない。
身形が立派。
きっと魔術師だ、と少女は思った。
「だ、だいじょぶ、です。あの、ほんとに――あっ」
ぶわ、と。
少女の身体が水に包まれた。
水の中にたくさんの小さな泡が立ち。
しゅわしゅわと音を立てて細かな気泡が舞い上がる。
「少しだけ目を閉じて、息を止めて――はい」
はい、と言われて。
少女は無意識に、言われた通り目と口を閉じた。
と――水が頭まで覆う感覚がして、すぐになくなった。
「もういいよ」
「……え? あれ?」
目を開けると。
今、全身ずぶ濡れになったはずなのに。
目を瞑ってそう感じたはずなのに。
それなのに、身体、服、髪にいたるまで、すでに乾いていた。
親に怒られそうなくらい汚れた服も。
擦りむいた膝と手のひらに食い込んでいた土汚れも。
ややぼさぼさだった髪も。
全部綺麗になっていた。
心なしか髪もつややかになり、ちょっといい匂いまでしてきた気がした。
「歩ける?」
「は、はい……」
少年は手を差し出した。
少女は戸惑い唖然としたまま、導かれるようにその手を取った。
少年の白く繊細な手にドキドキした。
見えない視線なのに見られていることがはっきりわかり、なんだか恥ずかしくなった。
「可愛いお嬢さん。君の家まで僕にエスコートさせてくれるかな?」
「……は、はい……」
ずっと戸惑い。
ずっと唖然としていた。
心臓の音がうるさくて。
でも、どこか現実味のない時間だった。
長かったような、短かったような。
気が付けば少女は自分の家にいた。
「……魔術師さま……」
何をしていても、思い浮かぶのは、眼帯の少年の姿だけ――