14.初昇級試験 3日目
「――お兄様……」
クノンは目が見えない。
だからこそ、周囲の変化にはそれなりに敏感である。
今日で三日目となる、貴族学校での生活。
試験は簡単だし、これまでにない環境が新鮮で、それなりに楽しい日常だった。
これなら普通に通ってもよかったかも、と思わなくもないほどに。
だが、人が多いということは、それぞれいろんな思想や思考を持つ者がいるということだ。
――概ね平和だったのに台無しにされそうだな、とクノンは思った。
食堂へやってきたクノン、ミリカ、イクシオの前に、六人ほどの生徒が立ちふさがっている。
和やかだった周囲の気配が消え失せ、緊張感が高まっている。
毎日賑やかだった昼食の場が、ここだけしんと静まり返る。
そして、ミリカの「お兄様」という声。
どうも彼女の因縁のある知り合いが絡んで来たようだ。
「ミリカ。そいつがおまえの婚約者か?」
声を掛けてきたのは、大柄な子供である。
声に威圧感がある。
声も態度も高圧的で、傲慢さが伺える。
――何者であれ、ミリカが気に入らないなら、クノンも気に入らない相手という認識で問題ないだろう。
「ライル殿下、何か御用でしょうか?」
兄イクシオがクノンの前に出る。
兄が出なかったらこっちから行ってやろうと思っていたクノンは、仕方なくこの場は任せて様子を見ることにした。
「なんだグリオン家令息。俺は発言の許可を出していない。不敬だぞ」
「学校では身分は関係ないはずです――ん……?」
「え……?」
いや、様子を見ることなんてなかった。
クノンは腹が減っているし、学校でミリカ、イクシオと過ごせる時間は少なく、貴重であることを知っているから。
誰であろうと邪魔されるのは嫌だった。
ましてやミリカとイクシオが緊張するような相手だ。ろくなものじゃないだろう。
――不可視まで細かく砕いた「
次第に一ヵ所が濡れてゆき、ズボンに染み込みシミができる。
「――あ?……おっ!?」
真っ先に気づいたのはイクシオ。
次に気づいたのはミリカ。
そんな二人の反応で、本人も気づいたようだ。
だからクノンはしれっと言った。
「あれー? この人おもらししてるー」
ざわ、と。
何が起こっているのかわからない周囲が、耳を疑いざわめく。
「ちっ違う!! 違うぞこれは!! お、俺は漏らしてなんていない!!」
本人がズボンの一ヵ所を両手で隠して激しく動揺する。
――あ、クノンがなんかやったな、と理解したのはミリカとイクシオだけである。
「おいクノン……」
「クノン君……」
邪魔者は去った。
もはや今ここでどう騒いでもどうにもならないと判断したらしく、大慌てで六人とも撤退していった。
イクシオとミリカは、やった張本人を振り返るが。
「兄上何食べる? 僕はね、ハンバーグ!」
「いやいやクノン。おいクノン。おまえやっただろ」
「ミリカ殿下は何食べます? 僕はね、ハンバーグ!」
「……そうですね。クノン君ですからね。もう今更ごちゃごちゃ言っても仕方ないですね」
ミリカの諦めの伺える発言に、「ミリカ殿下もそういう認識なのか」とイクシオは驚いた。
案外似た者同士なのかと思っていたが、クノンの方がもっとアレらしい。
どうやら弟の変貌を軽く見ていたようだ。
想像よりもっともっと、はるかに明るく強くなっているらしい。
明るく強くなっている、という認識でいいのかどうかも、最早よくわからなくなってきたが。
「――それで、さっきのは誰だったんですか?」
いつもの和やかな空気が満ちた食堂で、三人は空いたテーブルに着く。
心変わりしたクノンはサンドイッチを注文した。
ハンバーグはパンに挟んでもらった形である。
色の認識ができるクノンはテーブルマナーもちゃんと覚えたし、今ではスープだろうがサラダだろうが問題なく食べられる。
が、それでもやはりサンドイッチが一番楽に食べられる。
食事くらい気を遣わらず気楽に取りたいのだ。
「私の兄です。一つ年上の第六王子、ライル・ヒューグリアですね」
ミリカはそう答えた。
異母兄弟なのであまり兄妹という認識はないが、しかし、間違いなく父親が同じの兄妹である。
――ヒューグリア王国の国王は、代々多く子供を作る。
どんな理由でかは定かではないが、王族には貴重な魔術師が誕生する確率が高いそうだ。
まあその辺を言えば、クノンもかなり薄いが王族の血が流れているので、信憑性は高いのだろう。
しかし子供が多いだけに、下の方まではあまり構われることがない。
王位継承第三位くらいまでは大事にされるが、それ以下の魔術師じゃない子は、割と普通の貴族の子扱いである。
ミリカやライルには、学校では護衛も付けられないし、王城生活も割と質素である。
「え、本当にお兄さんなんですか? 僕に対するイクシオ兄上のような?」
「はい。母は違いますが、兄になります」
「嘘でしょう?」
「本当です。何か引っかかります?」
「だって妹を大事にしない兄なんて、いないでしょう」
「……そうだといいんですけどね」
「……え? 本当に? 兄上、殿下の言っていることは本当なの?」
「本当だ」
弟のやらかしに少し食欲がなくなったイクシオは、軽めにビーフシチュー大盛とサラダとパンだ。
バレたら大変なことになるだろうな、せめて卒業まではバレないでくれよ、と願ってやまない。
「本当なんだ……そうか、悪いことをしたなぁ。ミリカ殿下のお兄さんなら、僕のお兄さんでもあるのに」
確かに理屈ではそうなる。
そしてイクシオは、弟に他者を想うまともな感情がまだ残っていたことに安堵する。
「そうかぁ……それで、義兄さんはなぜその狂暴性と暴力性を隠そうともせず、僕らの前に立ちふさがったんでしょう?」
「魔物に遭遇したみたいな言い方はやめろよ……」というイクシオの声は無視された。
「私の立場が上がったからでしょうね。牽制に来たのでしょう」
「殿下の立場? 牽制?」
「ええ。許嫁が『英雄の傷跡』を持ち、しかも魔術師。おかげで私の王族としての立場が急上昇しています。
それだけならまだよかったんでしょうけれど――クノン君、こうやって表舞台に出てきたでしょう?
こうなると今後の社交界でも私たちの立場は強くなりますから……ライルお兄様は、私が自分より立場が上になることが嫌なんでしょう」
最底辺の王子・王女の立場が多少上がったところでなんの意味もないのに、とミリカは話を締めた。
「なんかややこしいんですね」
「そうですね。でも本当に気にする必要はないですよ。
王太子……継承権第一位と第二位くらい近ければ、色々と因縁もあるんでしょうけどね。でも私もライルお兄様も大したものじゃないですから」
王侯貴族や社交界については、クノンはまったく知らない。
関わるつもりがなかったからだ。
家庭教師から最低限の知識しか教えられていない。
こうして学校に来ることになったのは、その社交界で必要になるからだ、と父親から説得された。
きっとクノンにはわからない様々な要素が絡み合っているのだろう。
――だが、とりあえずだ。
「義兄さんに謝りに行きたいなぁ」
「「やめなさい」」
クノンの願いは、ミリカとイクシオに即答で却下された。
――もう会わせない方がいい。
打ち合わせもなく二人は同じ結論に達していた。
また会わせて、クノンが何をしでかすかわからない。それが本当に恐ろしい。
「え? どうして?」
わからないのは本人ばかりである。