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143.大人の階段を数歩だけ





「よかった……!」


 次の地獄を提示された時、何人かの膝がその場で崩れたが。

 新たな地獄は、書類の海ほどの地獄ではなかった。


 それはそうか。


 前の地獄は、仕分ける量があまりにも多すぎたせいだ。

 やってもやっても終わらないほどに。


 だから、かなりの時間が掛かった。

 何日も何日も。

 囚人全員の心を折るのに充分なほどの時間が。


 平気だったのは聖女のみである。

 そして、彼女は囚人ではなかった。


 性格上、言われた仕分けを黙々とこなし続けることが苦にならないタイプだ。

 なので一度もビリッとされていない。


 羨ましい限りだが――まあ、それはともかく。


 冷静に考えるとあたりまえのことだった。

 私物の数は、紙より少ないのだから。


「あ、僕の遠心分離機だ。壊れてるな……」


 足元に転がっていたそれを手にし、クノンは溜息を吐いた。


 そう、数は少ない。

 だから仕分け自体はすぐに済みそうだ。


 ただ、破損している物が多かった。


 机。

 薬品を扱う機材に、ペンにインク瓶。

 大きなのは片付けられているが、細かな校舎の瓦礫もここにある。


 無事な物もあれば、無事じゃない物も多い。


「――混ざると危険そうな魔法薬や触媒、魔道具なんかはこっちに分けてある。大まかにだけどな」


 次なる地獄。

 もとい、この教室まで案内してくれた教師サーフが、部屋の片隅を差した。


 簡単に分けてあるだけだが。

 それでも充分ありがたかった。


 生易しい現場に生徒たちが散っていく。


「ベイル先輩、魔帯箱の回収をお願いしていいですか?」


「わかった」


 ここにあるのは私物ばかりである。

 第十一校舎とは関係ないベイルの私物はないので、クノンは彼にもわかる物の探索をお願いした。


「――さて」


 クノンが借りていた教室には、私物もかなりあった。

 今持っている壊れた遠心分離機を始めとして、ほかの機材もたくさん置いていた。


 いったいどれくらい生き残っているだろう。

 半分も壊れていなければ、充分だろうか。


 まあ、それはさておき。


「すみませーん。鍵の掛かった机を見つけたら声を掛けてくださーい。僕のかもしれないのでー」


 監獄で過ごした全員にそう告げておく。

 まばらに返事が返ってきたので、これで大丈夫だろう。


 クノンはまず、お金の回収をしなければならない。

 何を置いてもだ。


 魔帯箱開発が始まって数ヵ月間。


 その間ずっと忙しかったため、侍女リンコへの給金が滞っていた。

 すっかり忘れていたのだ。


 そして、見るからにクノンが忙しそうだったため、侍女も請求しづらかったそうだ。


 疲れ果てて帰ってきて、最低限の日課を済ませて、即就寝。

 翌日も疲れを引きずって学校へ。


 そんな毎日が続いていたから。

 

 ――なお、リンコ的にはクノンが踏み倒す可能性は限りなく低いと考え、かつ最終的にはグリオン家に請求すればいいと高を括っていた。


 だから、魔術に夢中なクノンを煩わせるような口出しはしなかった。


 幸いクノンが半年掛けて貯えたお金もあったので、生活費には困らなかった。

 己の給料分を除けば、充分やってこれたのだ。


 己の給料分を除けば。


 開発実験が終わったと晴れやかに告げられた瞬間、即座に請求したが。

 給料払えと。


「机も結構多いな……」


 侍女の給料を払うため、クノンは研究室に貯めていたお金を回収しなければならない。

 何を置いても最優先でだ。


 そうじゃないと、夕食が苦い野菜だけになってしまう。

 ベーコンもしばらく出さない、とまで言われたので、クノンにとっては割と死活問題だ。


 実際、最近のベーコンは薄切りになってきている。明らかにぺらっぺらだ。

 いいかげん待たせておくにも限界が近そうだ。


 魔帯箱の開発中も、商売でお金は稼いでいた。

 研究室の机の引き出しに突っ込み続けていたので、きっとここにあるはずなのだ。


「これは仕分けというより片付けだな」


 シロトの言う通りだった。

 前の地獄は、腰をやる中腰体勢の労働だったが、今回は力仕事が多そうだ。


「サーフ先生。もし時間があるなら手伝ってもらえませんか?」


「ん? あー……そうだな。この人数ならすぐ終わりそうだし、私も手伝おうか」


 しかも、新たな囚人を加えることに成功した。

 シロト看守は有能である。


「――あ、パンツみっけ」


「――えっパンツ!? ……男物じゃねえかよクソが! 誰のだよクソが!」


「――俺のだよ!」


「――きわどいパンツ履いてんじゃねえよ!」


「――うるせぇ! お尻のラインを綺麗に見られたいんだよ!」


 ひどい会話だ、とクノンは思った。

 男だけの会話は、聞いていて全然わくわくしない。


 でも笑ってしまった。


 前の地獄と比べれば、ここは天国だ。

 これまでにはなかった解放感があった。


 きっと囚役をともにした皆が感じていることだろう。


「……お尻のラインが綺麗に見えるパンツ……?」


 何事にも動じなかった聖女までもが反応している辺り。


 彼女も彼女なりに、前の地獄でつらい想いをしていて。

 同じように、この開放感を味わっているのかもしれない。


 …………


 たぶん。

 単純にパンツに興味があるわけではないだろう。





 今度の地獄は本当に楽なものだった。

 地獄と呼びたくもないくらいだった。


 夕方には仕分けも終わり、掃除まで終わった。


「壊れた物の代金は学校が負担するから、後日申請してくれ。修理でも買い替えでも構わないからな」


 結局最後まで付き合ったサーフはそれだけ告げ、やれやれと疲れた身体で教室を出ていった。


「――終わったなぁ……」


 誰かが言った。


 書類は仕分けが終わった。

 順番を揃えたりまとめたりと、まだやるべきことはあるが。

 一番大変な作業は越えたのだ。


 次に、私物の仕分け。

 壊れた物も多いが、紛失したわけではないし、何より数の上では非常に楽だった。

 廃棄する物と回収できる物で、短時間でしっかり分けることができた。


 あとは、新しい第十一校舎が再建されてからだ。

 出来上がり次第、運び込むことになる。


 ――そう、大変な作業だった。


 何度も投げ出したくなったし、実際逃げようとした者もいた。


 地獄で過ごした約二週間。

 同じ校舎に拠点があった、というだけの繋がりで集った第十一校舎の生徒たち。あとベイル。一応シロトも。


 あんなものを経験し、乗り越えてきたせいか。

 妙な仲間意識が芽生えていた。


 嫌で嫌でたまらなかった地獄だったのに。

 終わったら終わったで少し寂しく感じるのはなぜだろう。


 こんなイレギュラーなことでもない限り。

 このメンツで集まることは、もう二度とないかもしれない。


 属性も研究内容も専攻も趣味も、パンツの好みさえ、まるで違う者たちだ。

 もしかしたら、一生関わることさえなかった可能性もあるのだ。


「――ねえ!」


 案外、クノンだけではなかったのかもしれない。

 全員が同じような気持ちだったのかもしれない。


 その証拠に、誰かが言った。


「せっかくだし打ち上げやらない!? 今夜はぱーっと!」


 その提案に、全員が手を上げた。

 もちろん肯定の意を込めて。





 一度家に帰ったクノンは、打ち上げがあると侍女に告げて。

 門限を忘れて、夜のディラシックを楽しんだ。


 初めての夜遊びだった。

 実際は、夕食を食べて少し遊んで早めの解散という、夜遊びと呼ぶには健全すぎる代物だったが。


 でも。


 クノンは少しだけ大人になった気がした。




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