132.ひとまず事情を説明する
聖女が泣いている。
森の前で、聖女が泣いている。
どういう意味の涙かはわからない。
だがきっと。
謝罪の意、謝罪の感情で流れたものではないだろう。
あまりにも美しい涙だからだ。
あれには負の感情は一切ないはずだ。
一部の女子が得意とする「泣けば男たちがなんとかしてくれる姫の涙」などより、圧倒的に美しいので、そういう意図もなさそうだ。
まあ、この場合。
美しいのもどうか、という声も上がりそうだが。
求められているものは、それじゃないから。
「――絶対悪いと思ってないでしょ!」
数瞬の間を置いて、誰かが気づいた。
そう、謝罪や罪悪感から出た涙ではない。
言葉からして絶対に違う。
だが手遅れだった。
「――どこ行くのよ! ちょっと! そこの聖女!」
いやほんとにどこ行くんだ、とクノンまでもが思った。
聖女は静かに涙を流した後。
誰の声も聞こえないとばかりに、森へ向かっていく。
いや、振り返った。
「私の居場所へ」
一拍の間を置いて。
「――あんたが私らの居場所を台無しにしたって話をしてるんだけど!!」
「――私の実験レポートどうしてくれるのよ!」
「――俺の肉もどうしてくれる!」
怒号が飛び交った。
居場所。
片や居場所を壊され、片や居場所へ行く。
悪気も意図もない皮肉だった。
しかし、なかなか皮肉が利いていた。
「――謝れ! こら!」
「――ちょっと聖女だからって調子に乗ってるでしょ!」
「――クノン君と仲いいのどうにかしなさいよ! 王子がかわいそうでしょ!」
なんだかよくわからない声も上がる中。
一言でいいから振り返って謝れよ、とクノンまでもが思った。
しかし今度こそ、聖女は森へ消えていってしまった。
もう振り返ることはなかった。
「――あー、皆さん落ち着いて。落ち着いてねー」
小さいながらも深い森である。
何があるかわからない。
もっと言うと、魔術的な要因で生えた森なら、要注意である。
何が生息しているかわかったものじゃない。
そんな正体不明の森に行ってしまった聖女を、追う者はおらず。
諸悪の根源が立ち去るのを見送り、立ち往生していた生徒たちの前に。
教師サーフ・クリケットが現れた。
「色々言いたいことがあるだろうけど、まず私の話を聞いてね。質問は後で受け付けるから」
苦情が来る前に先手を打って黙らせ、サーフは説明を始めた。
「まだわからないことが多いから、森の調査はこれから行う。
だから今は、必要なことだけ伝えておく。
まず、この森はレイエス・セントランスが原因の一端を担っている可能性は高いが、彼女だけのせいではない。
いくら聖女でも、一日で森を作るほどの力はないからだ。
冷静に考えてくれ。
そこまでの力があるなら、誰に狙われてもおかしくないだろ? 聖教国は彼女を国から出すこともしなかったはずだ」
納得の行く説明だった。
聖女の力とは何なのか。
具体的かつ正確に把握している者は少ないが――
聖女の逸話に、「一日で森を作ることができた」などという無茶な話は出てこない。
歴代聖女の史実を紐解いたとしても、一切出てこない。
つまり、元からそこまでの力はないということだ。
しかし実際は森ができている。
だから、聖女が原因の一端を担っている。
原因の一つではある、と表した。
「次に、各々が教室に置いていたレポートだのなんだのだが。
これは安心していい。教師が回収を約束しよう」
そこだ。
一番大事な部分を保証され、何人かは安堵の息を漏らした。
クノンとベイルもほっとした。
第十一校舎には、魔帯箱の試作品と山のようなレポート、そして図書館から借りっぱなしの本があった。
どちらも貴重なものだ。
何があろうと回収しなければならないと思っていた。
――それと、クノンは今失念しているが。
自分の研究室に貯めてあるお金も回収しなければならない。
魔帯箱の開発から一度も回収していない。
無造作に机の引き出しに突っ込んできたので、かなりの額が貯まっているのだ。
回収しないと侍女の給金がピンチだ。
「それと、追々説明はするが、この森に関してはしばらく立入禁止とする」
――サーフは、この木が
特に特性だ。
森の近くに植えたらどんな種であっても芽吹く、なんて、悪戯に伝えるべきではない。
絶対に軽い気持ちで試す者が出てくる。
きっと何人も出てくる。
若者の好奇心が憎くなるほどに出てくる。
その結果、もっと広範囲に緑化が進んだら、後始末がより大変なことになる。
だから今は話せないのだ。
なぜ
少なくとも、その原因がわかるまでは秘密にすると。
グレイ・ルーヴァはそう方針を打ち出した。
どうせいつまでも隠せることではないので、あくまでも今だけだ。
「崩れた第十一校舎は近い内に別の場所に再建され、この森はこのまま残すことになった」
聖教国への報告もしなければならないし、向こうの要望もあるだろう。
それによっては、もしかしたら植え替えられるのではないか――
そんな心配をしたサーフだが、グレイ・ルーヴァははっきり言った。
――「この場所にあるなら自分の物だ。魔術師の研究材料を素直に引き渡す理由はない」と。
彼の国にとっては、輝女神キラレイラの現身、分身のような存在だ。
とても神聖な代物である。
しかしグレイ・ルーヴァにとっては、ただの研究し甲斐のある木でしかない。
そういうことである。
「あとは……あ? なんだ?」
クノンが挙手しているのを見て、サーフは視線を向けた。
「さっき立入禁止って言いましたよね?」
「…? ああ、言ったが」
「あの、レイエス嬢がさっき、中に」
「入ったのか? あ、そう……でもまあ大丈夫だろう。キーブン先生が様子見で先行しているはずだからな」
あの土属性の教師は嬉々として。
謎の森の出現と聞くや飛んで現れ、喜び勇んで森の中に突入していった。
さっきから鳥の鳴き声がうるさいのは、キーブンが調査しているせいだろう。
いわゆる警戒の声というやつだ。
「とにかく入らないようにな。レイエス・セントランスにも出てきたら注意しておくから。
それから――グレイ・ルーヴァから皆への伝言を預かっている」
その名が出た途端、生徒たちの背筋が伸びた。
この学校の校長にして、世界一の魔女の名である。
自分たちの誰よりも魔術の深淵にいる、偉大なる方である。
畏まらずにはいられない。
「ちょっと森ができたくらいで大騒ぎするな、だそうだ」
さすが世界一の魔女。
校舎が全壊しても森が生えても、彼女にとっては些事のようだ。