126.教皇の心配
「レイエスは戻ったかい?」
彼が部屋に戻ったのは、すっかり陽が暮れた頃だった。
肩の凝る来客用の豪華な服を脱ぎ、いつもの楽な服に着替える。
まだ書類仕事があるので、寝る準備には早い。
――聖教国教皇アーチルド・セントランス。
この国のトップである。
今年で五十の大台に乗る初老の男だ。
痩躯の優男ゆえか威厳はないが、聖職者として清貧であるのはむしろ誇り。
見た目に反する切れ者である。
そして、国のトップとして厳格な一面も持っている。
「はい、昼過ぎ頃にはお戻りになりました」
夕食を運んできた神官はそう答える。
目前に迫った祭事の準備に追われ、近頃はとても忙しい。
聖女レイエスの帰還を出迎えたかったのだが、それは叶わなかった。
夕食なら間に合うだろうか、と思っていたのだが。
それも間に合わなかった。
再会は明日。
朝食の席になりそうだ。
「半年以上も会わなかったのか。ずいぶん大きくなっていそうだ」
「そうですね。あのくらいの子の成長は早いですからね」
アーチルドは独り身である。
輝女神キラレイラの信者は、結婚を禁じられているわけではない。
だが、生涯を信仰に捧げると決めた瞬間から、アーチルドは結婚はしないと定めた。
だからだろう。
彼は、レイエスを我が子のように思っていた。
生涯子を持つことはないだろうと覚悟していた。
そんなアーチルドの傍に、幼少の子――聖女がやってきたのだ。
本来なら、我が子や家族に向けていた感情だったはずだ。
その己の自覚していない内に秘めた気持ちを、想いを、誰かを慈しむ心を、惜しみなくレイエスに注いだつもりだ。
レイエスは感情が乏しい。
深く接すると、心配になるほど、普通の人とは違った。
それゆえに、より強くアーチルドの中に保護欲が生じたのかもしれない。
結果、過度に娘を心配し、溺愛する、親ばかの誕生である。
公の場では上手く隠しているが、内心は気が気じゃないことばかりだ。
魔術学校に行かせるのも嫌だった。
離れて暮らすのも嫌だった。
あの変わった性格では、行った先でいじめられるんじゃないかと胃が重くなった。
友人ができたとレイエスからの手紙に書いてあったが、それも心配だった。
果たして本当に友人か?
友人の顔をした敵ではないか?
それとも娘をつけ狙う狼ではないか?
レイエスには再三「男は警戒しろ、簡単に信用するな」と言い含めたが。
それなのに「男の友達ができた」と書いてあった。
その男と何かあるのではないか。
アーチルドに黙って男女の仲が燃え上がってやしないか。
いや。
レイエスに限ってそれはない。
あの子ははアーチルドの言いつけは必ず守る。そういう子だ。
しかしそれでも心配で心配で――
「そういえば、聖女様に関する緊急の報告が来ていますよ」
「何!?」
珍しく大声を上げたアーチルドに、神官は驚いた。
「なぜ私に直接届けなかった!?」
「あ、はい、緊急だけど重要じゃないから、とのことです」
聖女絡みはすべて重要案件だ。
しかし、教皇の公務に横槍を入れるほどの内容じゃない、との判断である。
「詳細は手紙に書いてあるそうです。机の上に――」
言うが早いか、アーチルドは急ぎ執務机の上の封筒を取った。
「…………うん」
内容を検め、確かに重要ではないと納得できた。
少々焦ってしまった。
まさか男連れで帰ってきたとか、そんな内容だったらどうしようかと思った。
手紙の内容は、レイエスの要望で部屋に植物を運んだ、というものだった。
以前貰った手紙や侍女の報告に、「植物や農作物に興味がある」と書いてあった。
だから特に不思議でも不自然でもない。
いや、むしろ嬉しいくらいだ。
何事にも興味がない、命じられなければ動かないあのレイエスが、自発的に望んだのである。
これは成長と見るべきだろう。
――行かせて良かった、魔術学校。
きっとレイエスの友達も、分別のある、ちゃんとした子に違いない。
いい影響を与えたのだろう。
だがしかし。
レイエスが成長したと思うと、少し寂しいのも確かだ。
成長した分だけ、自立したということ。
自立したということは、その分だけアーチルドから離れたということだ。
もう保護も必要なくなるということだ。
これからもっとたくさん、寂しい思いをするだろう。
しかし、それに比例して、レイエスはきっと幸せに近づくのだ。
だから、これでいいのだ。
娘の幸せを願わない父はいないのだから。
――と、昨夜は思っていたのだが。
「おはようございます、教皇様。おひさしぶりです」
翌朝。
待ちきれなかったアーチルドは、朝早くからレイエスの部屋を訪ねた。
朝の祈りを共にするためだ。
朝食までは待てなかったのだ。
半年以上離れていたレイエスの顔を、とにかく早く一目見たかったのだ。
……見たかったのだが。
「何があったのかね」
久しぶりに見たレイエスは、以前より少しだけ大きくなっているように思えた。
背は伸びたようだ。
身体も少し大きくなった。
いつも通りの無表情だが、少し大人っぽくなったように感じる。
成長期の十二歳だ、当然のことである。
――だが、それよりだ。
「はい? 何がとは?」
「何か悩みでもあるのかね?」
「何の話でしょう?」
レイエスの無表情は変わらない。
だが、変わった。
何が変わったかと言えば、彼女自身というより。
彼女の部屋がだ。
「……」
この鉢の数はなんだ。
部屋半分に敷き詰めたような、この尋常じゃない鉢植えの数はなんなんだ。
もはやおびただしいとさえ思える。
アーチルドの親心は、一瞬で心配の度を越えた。
魔術学校になど行かせるんじゃなかった。
きっと悪い友達の影響だ。
許すまじ。
汚れなき聖女に悪いことを教えた輩は誰だ。
信じやすい聖女に余計なことを吹き込んだ輩は誰だ。
全員調べ上げてやる。
そして聖女を害した罪で誅するしかない。
「ああ、そうでした。教皇様にお土産があります。少しお時間をいただけますか?」
「もちろんだとも」
聞き出さねばならない。
レイエスに――娘についた悪い虫が誰なのかを。