111.雨が降る
「うわ……」
クノンが炎に巻かれた。
あっという間の出来事だった。
――初手でこれか。
そう思ったのは、観客席で見ているエリア・ヘッソンである。
「実力の派閥」代表ベイル・カークントンとともに――好きな人と、ひっそりデート気分でこの場にやってきたが。
まさかの初っ端からの後輩炎上で、浮ついた気分が一瞬でなくなった。
まるで自分が燃やされたかのように、ウキウキが煙となって消え失せた。
ちなみに、周りの「実力」の生徒は二人に気を遣って少し離れている。
いや、「二人に」ではなく「エリアに」か。
「あの反応を見るに、クノンは狂炎の特徴を知らなかったみたいだな」
最初から浮ついていないベイルは、最初から冷静である。
真面目である。
そんなところも好きだが、時々もやもやもするエリアである。
まあそんなことはどうでもいいのだが。
ベイルは、燃え上がっている後輩を注意深く見ている。
「『水球』で閉じ込める。中の空気がなくなる。そして火が消える。
クノンが考えた対処はこういう感じだろうな」
魔術の火は、燃える物……燃料は必要ない。
だが、空気だけは必要だ。
これがないと火が形成できない。
元々火は物質ではない。
それだけに、存在が許されるだけの環境が必要なのだ。
――魔術なので例外もあるのだが、その基本は変わらない。
「あの爆発するように燃え上がる特徴ですか?」
「そうだ。
誰が言ったか知らないが、『火種が狂い咲く』と表現したのが広まって、狂炎王子ってあだ名になったって話だ。
あれ、真似するの大変らしいぜ。でもあの皇子は素でやってるんだとさ」
「あれってどういう原理なんですか?」
「ああ、あれはな――」
ベイルが説明しようとしたその瞬間、クノンを燃やしていた火が飛び散って消えた。
ごぽり、と大きな水泡が昇った。
火が消えた後には、巨大な「水球」に包まれたクノンがいた。
「――なるほどなぁ」
クノンを包んでいた水が弾ける。
ぼたぼたと水滴を滴らせながら、笑う。
少々驚いたが、クノンは理解した。
狂炎王子の異名の意味が今のでわかった。
「挨拶代わりだ。気に入ったか?」
そう言うジオエリオンの周りに、再び無数の火蝶が舞う。
「もちろん。面白いですね」
恐らく、二重の「
「
この時、弱くなった
それが狂炎の正体だ。
ただの火から別の火が出る。
そう考えるとわかりやすいかもしれない。
制御を失い、狂ったように燃え上がる。
彼の魔術の原理を知らなければ、そう見えるだろう。
「面白かったので、僕も同じことをしてみました」
まず巨大な「水球」で炎上から身を守り。
更にもう一つ、内部に「水球」の層を作り、温度を管理した。
そして、
「すぐ真似するなよ」
「あ、元からできてましたのでお気になさらず」
魔術の中に魔術を込める。
それは魔道具造りの応用でもあるので、クノンには珍しいことではない。
できるかどうかは別として。
何ヵ月も部屋に籠って「鏡眼」の開発を行った際。
色々と試した中に、魔術の中に魔術を込めるという発想があった。
前に訓練したことがあった、というだけの話だ。
「ところで、今度は僕から挨拶をしても?」
「どうぞ。ただし大人しく受けるとは言わない。君の水は恐ろしいからな」
「僕は先輩の想いを受け止めましたけど」
「悪いが俺にはその勇気はない」
「なるほど。残念。でも――」
クノンは少しだけ、持っていた杖を上げ。
「ぜひ受け止めてください」
地面を突いた。
「――泥」
ごぼ、と。
ジオエリオンの足が、少しだけ、地面に沈んだ。
――まずい。
この先どうなるか、瞬時に予想したジオエリオンは逃げようとした。
「――泥」
クノンはもう一度杖を突く。
がくんと視界が下がった。
いつの間にかできていた足元の泥沼に、足首まで突っ込んだ。
「――泥」
クノンはもう一度杖を突く。
膝まで沈んだ。
粘度の高い泥は非常に重く、もう足は抜けない。
「――泥」
クノンはもう一度杖を突く。
腿まで埋まった。
泥沼は広がっていた。手が届く範囲はすべて泥沼だ。
「……これだから水は……」
水は本当に厄介だ、とジオエリオンは思う。
クノンの場合は特にだ。
大技ではなく小技が怖い。
大技は、動く魔力も大きくなるので予想できるものが大半だが、小技はそうもいかない。
小技は弱い?
決定打に欠ける?
それは小技の恐ろしさを知らない、平凡な魔術師の論だ。
人なんて、一番弱い魔術で殺せる。
人をどうにかするなら、大技を使う必要はないのだ。
それがわかっていれば、小技の恐ろしさが見えてくる。
クノンは大人しく燃えていたわけではない。
ジオエリオンはそう思っていた。
炎上するクノンを見ていた時も、油断はしていなかった。
クノンの魔力の動きは絶対に見逃さないよう、注意していた。
そうしなければいけないと勘が告げていた。
――もし自分が自分を相手にするなら。
発想が似ているクノンなら、そう仮定してもいいだろう。
ならば、予想できない攻撃に出ることは、充分考えられた。
しかしこれは本当に予想外だった。
燃えている間。
クノンは足元から、地面に水を潜行させていた。
そして、水はすでに、ジオエリオンの足元まで及んでいた。
地面の中までは注意していなかった。
いや、仮にそこまで注意していても、察知できたかどうかわからない。
「――泥」
クノンはもう一度杖を突く。
腰まで沈んだ。
しかも、火蝶の外側に、沢山の「水球」が浮かんでいた。
ここまでは攻撃じゃなかった。
これから攻撃がやってくる。
「――雨」
もう沈まない。
代わりに、頭上の「水球」が隣の「水球」と繋がるように一体化し、大きなドーム状の語りとなり――
雨が降る。
嵐のような豪雨が。
ドーム状の膜の中に、どんどん水が溜まっていく。
ジオエリオンは埋まっていて動けない。
火蝶はその羽根をむしられ消えていった。
それでも雨は止まらない。