10.父の呼び出し 前編
「――クノン様、旦那様がお呼びです」
ある日の夕食の席、侍女が言った。
「ん? これから?」
サンドイッチを片手に資料を読み取っていたクノンが問うと、「夕食の後でいいとのことです」と返ってくる。
旦那様、即ちグリオン家の当主にしてクノンの父親が呼んでいるそうだ。
離れで暮らしているクノンだ。
家族はたまに会いに来てくれるが、呼び出されるのはちょっと珍しい。
「僕、なんかやったかな?」
前に呼び出されたのは、夏だったと思う。
実験を兼ねて、広範囲に色付きの水を庭にぶちまけた。
その結果、庭先が血の海に沈んだかのように真っ赤に染まり、家族も使用人も大いに驚き怖がっていた。
――ようやく魔力の供給なしで水への着色と維持に成功したので、今度は効果範囲と有効時間を見るためにやった実験だ。
庭師にも許可は取った。
ただ、結果的に「こんなことになるなんて……」と泣かせてしまったが。
かなり想定外だったようだ。
そして帰ってきた父親は、夜でもわかるほど真っ赤に染まった庭を見て驚き怒り、呼び出された。
すごく叱られた。
ただの色付きの水を撒いただけで害はないしこれは実験だ、って言ったのにすぐに戻せと言われた。
「最近は怒られるようなことはしてないと思いますよ。あの血の海事件で懲りたじゃないですか。私は全然関係ないのに私も怒られたし」
「実験しようって言ったのはイコだからね。無関係ではないよね」
「あんなに派手にやるとは思わないじゃないですか」
「どうせやるなら派手にやれ、とは言ったよね?」
「あれは派手すぎます」
――という責任のなすりつけ合いを父親の目の前でやったことで、余計に火に油を注いだことに二人は気づいていない。
「でも私、ああいうの嫌いじゃないですよ?」
「僕もだよ。みんなすごくびっくりしてたからね。平和な日常に刺激的な一石を投じたことは誰も否定できないよね。たまにはいいよね」
何はともあれ、貴重な実験結果は得られた。
人間、いきなり血の海を見ると驚く。
これがわかっただけでも、クノンは満足だ。
――やはり、少々明るくなり過ぎたのかもしれない。
夕食を済ませると、侍女とともに本館へと向かう。
「寒いね」
少し距離があるので、歩いて行くことになる。
本館への道は、クノンが普通に歩けるように、一人分の平らな石畳が敷いてある。その上を杖を付きながら進んでいく。
今は冬である。
それも夜ともなれば、吹き付ける風は冷たい。
暦も季節も気にしない生活をしているクノンだが、こういう時はさすがに時期を思い出す。
「アレ出してくださいよ、アレ」
「ん? うん」
パチン、とクノンが指を鳴らすと、人の頭くらいはあろうという「
数は二つ。
一つはクノンの顔の前に。風除けだ。
もう一つは、後ろを歩く侍女の前に浮かぶ。
「あったか~い。ぶよぶよ~」
「人肌より少し高温」と「超柔軟表皮」の特性を付けた「水球」は、言わば簡易
侍女はこれが好きだ。
押しても変形するだけの「柔らかい水の球」は、不思議だし触っていて気持ちいいそうだ。
ミリカも好きなので、女性はこういうの好きなんだろう、とクノンは学習した。
ちなみに夏は、「低温」で活躍する。
これは女性じゃなくても皆好き……というか、助かるようだ。
「クノン様、お待ちしておりました」
「うん」
玄関先で待っていた老執事バレンに案内され、本館を歩く。
向かった先は、客を迎える応接室だった。
バレンがノックと共に「クノン様が到着しました」と告げると、中から「入りなさい」と声が掛かった。
ここからはクノン一人だ。
執事と侍女を置いて、クノンは執務室に踏み込んだ。
「お呼びですか父上――あれ、母上と兄上も?」
入れば、グリオン家の全員がいた。
父アーソン。
母ティナリザ。
そして兄のイクシオ。
両親は週一くらいで会いに来てくれるが、兄に会ったのは久しぶりだ。
だが、クノンは知っている。
会いはしないが、イクシオはクノンの様子を見にちょくちょく離れに来ている。
――侍女の話では、小さい頃にクノンを遊びに連れ出したイクシオは、クノンが転んで怪我をさせたことで、以降接し方がわからなくなったそうだ。
見えないとはどういうことか。
子供心に、その時にようやく理解したのだ。
ただ、クノンは憶えていないが。
転んだ数も怪我した数も多いから、もう一々気にしていられない。
「クノン。座りなさい」
「はい」
まるで見えているかのように、なんの不自然さも感じさせず空いた兄の隣に座る。
散々鍛えてきた今のクノンは、この部屋くらいの範囲なら、全ての色の識別ができる。
テーブルを挟んだ正面には両親がいて、隣には兄がいる。
「貴族学校の学習範囲は学んだか?」
「はい。フラーラ先生が終わったと言っていました」
フラーラ・ガーデン男爵夫人は、クノンの座学の家庭教師である。
文字を憶えてから、クノンの学習速度はかなり早くなった。
本人的には、面倒なことは早く済ませて魔術の訓練に集中したい、という感じだが。
「前にも聞いたが、学校へ行く気はないかね?」
「ありません。僕がいたら周囲に気を遣わせるだけですから」
家庭でもそうだったのだから、外なら余計にだ、と。
クノンはそう思っている。
いや、かつてはそう思っていた。
――今なら普通に通えるかも、と自分でも思っている。
だが優先するべきは学校ではないので、今となっては違う意味で行く気はない。
「おまえには話したかな? 一応はクノンも貴族学校に所属していることになっているんだ」
「あ、はい。父上ではなく、フラーラ先生に聞いた気がします」
授業の折にそんな話が出た。
だからいつでも通えるけど行かないのか、と言われた。彼女も今のクノンなら通えると判断したのだろう。
もちろん「行く気はない」と答えたが。
「確か、貴族の子は必ず通う義務があるとかないとか」
「そうだ。まあおまえは事情が事情だから、陛下から通わなくていいという許可が出ている。
私も、今更おまえには必要ないと思っている。やりたいことをやればいい」
こういうところが、父の応援なのだ。
きっとクノンが気づいていない部分でも、クノンを支えてくれているのだろう。
「ただ、少し考えてほしい」
「お小遣いの使い道ですか?」
「いや小遣いの話じゃない」
「父上はいつも文句を言いますね。確かに無駄遣いに見えるかもしれませんが、僕は計画的に使っているつもりです」
「だから小遣いの話じゃない」
「父上、いつも僕ら家族のために働いてくれてありがとうございます。とても感謝しています」
「だから今はいいんだ! そういうのは!」
「血の海にしてごめんなさい」
「それも今はいいが今度やったら小遣い二ヵ月なしだからな!」
クノンは震え上がった。
聞きたくない言葉だった。