104.火蝶
初めて狂炎王子という名前を聞いたのはいつだったか。
確か、まだ魔術学校に到着する前だったはずだ。
それから何くれと噂だけは聞いていたのだ。
クノンから積極的に情報を集めようとは思わなかったから――女性じゃないなら別に会いたいとは思えなかったから、気にも留めていなかったが。
ただ、すごい火属性の生徒がいるとだけ。
それも特級クラスの三派閥代表が注目している人物だ、くらいの認識だった。
優れた魔術師なら、クノンの注目の対象だ。
だが、如何せん狂炎王子は王子である。
女性ではない。
だから偶然どこかで会えたらいいな、程度にしか思っていなかった。
「――俺を知っているのか。……そうか、有名になったものだ。そんな気はなかったんだがな」
有名も有名だ。
集める気もない情報だけで、クノンは彼を知ることができたのだから。
しかし本人的には、そんな気はなかったらしい。
「座ってくれ、クノン。昼食なら遠慮なく取っていい」
クノンは一瞬どうしようかと迷ったが、座ることにした。
噂の狂炎王子がなんの用で呼んだかも気になるが。
しかし何より、話はどうあれ誘ったイルヒも同席するなら、ここにいる理由はある。
女性が誘い、クノンは合意した。
実際は美人局気味であったとしても、イルヒがいるなら立ち去る理由はない。
「じゃあ少しだけお邪魔しますね」
「ああ。ガース、彼に紅茶を淹れてやれ」
個室には簡単な台所もある。
お茶どころか簡単な食事も作れるようになっているのだ。
指示を受け、ジオエリオンの右隣に座る大柄な青年が立ち上がった。
「あ、せっかくなのでミルクティーのミルク抜きでお願いします」
「わかった。ミルクティーのミルク…………紅茶だな」
一瞬なんとも言えない顔をしたが、彼は紅茶の用意を始めた。
彼らのいるテーブルに着き、遠慮なくクノンは紙に包まれたサンドイッチを広げる。
炙ったばかりのベーコンがまだ温かく、チーズがとろけている。
さっき作ってもらったばかりなので、非常においしそうだ。
「それで、僕に何か用ですか?」
「興味本位だ」
興味本位。
「君の噂は面白い。ぜひ話がしたかった。それだけだ」
面白い。
なるほど、とクノンは頷いた。
「昨日の件は関係なかったですか?」
「教師とやりあった、という話だな。
それも気になるが、俺が気になっていたのは以前からだ。
君が食堂に出入りしているという話は聞いていたから、いずれ話せる機会もあるだろうとずっと待っていたのだ」
「ということは、今こうして会っているのは偶然ですか?」
「そうだな。これまで何度か擦れ違うようなこともあったが、俺の都合が悪かったりもしたしな。
今日こそ双方の都合が合致した。その結果だ」
つまり、前々から目を付けられていたようだ。
今日は朝から「昨日の一件」があり、知り合いと女友達がたくさん遊びに来てくれたが。
そんな日に偶然ジオエリオンと都合が合ったわけだ。
いつもと少し違う日だったから会えた、というわけか。
淹れてくれたミルクティーのミルク抜きを飲みながら、クノンはサンドイッチを片付ける。
その間、ジオエリオンを含めた彼らとポツポツ話をした。
彼らは帝国の人間で、二級クラスに在籍しているそうだ。
さすがに全員火属性、というわけでもなく、火はジオエリオンとイルヒの二人だけ、という話だ。
まあ、彼らはいわゆる友人関係、ということでいいのだろう。
――少し前にサーフから聞いていた、二級クラスが荒れている原因。
原因は彼らの存在だと聞いている。
しかし、こうして話してみると、悪い印象はない。
二級一年のアゼルといい、狂炎王子といい。
いったい何が真実なのだろう。
頭の片隅でそんなことを考えていると、話の流れから「狂炎王子」というあだ名の話になった。
狂炎王子ことジオエリオンは、冷静な顔にかすかな不快感を浮かべる。
「クノン、君が俺に関してどんな噂を聞いたかは知らない。
だが俺は一度も、この学校で自分から家名を名乗ったことはない。帝国の皇族だと身分を証明したこともない。
ただの一生徒として過ごしたかったんだ。
――知らない間に『狂炎王子』などと呼ばれていて、身元がバレたと勘違いした周りが吹聴したせいで、全てが明るみに出てしまったがな」
クノンは今の情報を整理する。
「本来なら、帝国のお偉いさんであることを隠して過ごしていた、と?」
「ああ。別に俺が特別というわけでもないだろう?
身元を隠している王侯貴族は多いし、君も基本的に家名を名乗らないだろう? ならば君も身元を隠した貴族だ。同じじゃないか」
確かに、学校で家名まで名乗る人は珍しい。
クノンも身分差を考えなくていいように、グリオン家の名はほとんど出さない。
魔術学校に国の事情や権力を持ち込まない。
暗黙のルールである。
「ジオ様は無理だろう」
「そうでありますな」
背の高いカケッタという名の男が言うと、イルヒも同意する。
「何がだ」
「その顔と威厳と魔術で『狂炎王子』だぞ」
狂炎王子。
誰が呼び出したかはしらないが、最初は単なるあだ名だったらしい。
その佇まい、顔立ち、雰囲気。
そして魔術。
あらゆる面で優れた要素があったからこそ、「王子」などと呼ばれ始め。
で、実際本当に皇子だったと。
「非凡が三つ揃えば薄々勘づかれて当然だ。ジオ様に関しては誰が言わなくても事実は広まっていたと思う」
「むしろ隠せると思っている方がおめでたいであります」
「ほう。言うじゃないか、イルヒ」
「はっ! 恐縮です!」
「褒めてないがな」
上下関係はあるようだが、それでも仲はよさそうだ。
つまり、帝国の皇子として権勢をふるっているわけではない、ということか。
ますます二級クラスが荒れているという話が謎めいてきた。
「――まあいい。つまらない話はここまでにして、本題に入ろう」
そう言ったのは、ちょうどクノンがサンドイッチを食べ終わった時だった。
ジオエリオンはちゃんとタイミングを待っていたのだろう。
「クノン。俺が君に興味を抱いたのは、君が水で動物を作れると聞いた時からだ」
「あ、はい」
それはよく言われるので、意外でも何でもない。
「俺と同じだと、少し嬉しくなってな」
しかし、その返答は意外だった。
「……はい?」
同じ?
何が?
ジオエリオンは右手を上げた。
人差し指を宙に向ける。
「――君は色は見えるんだよな?」
その指先から、赤い何かが舞った。
ひらり、ひらりと。
赤い紙きれのようなものが、頼りなさげにテーブルの上を漂い。
クノンの目の前までやってきて。
ティーカップの淵に止まった。
「生き物の再現と動きの模倣。魔術の操作と制御にうってつけだよな。
俺と同じ結論に至った者がいると知って興味が湧いた」
赤いそれは、魔術で。
火でできていて。
そう。
それは、火でできた、蝶だった。