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黒猫と三つカラス

 その日の由希は家にいた。

 学校も休みでのんびりとしていた由希はちょうどなにをしようかと考えていたとき、ごろりと転がっていた由希のいる居間の扉が開いた。


「ゆーきー」


 家の主である墨が目元に隈を作ったまま入ってくると、由希を己の腕の中へとおさめた。


「癒される、癒されるー…… 仕事なんてくたばってしまえ」


 墨が盛大なため息をこぼして、由希を強く抱きしめる。 その力の強さにぐえという声をもらすも墨には聞こえないのか力は強くなるばかりだった。


「由希くんにしがみつくのはいいですが、早く原稿を終わらせてください」


 墨のすぐ後ろからスーツをすらりと着こなした女性が居間に入ってきた。 

 緑色の肌をもつその女性はあずみ。 あずみの瞳はまるでカメレオンのように鋭い。

 一度だけなんの妖なのか聞いたことがあったが女の秘密だとはぐらかされてしまったのでもう聞いていない。


「原稿と由希なら俺は断然、由希をとる」

「いや、仕事をしてよ」


 小説家という職業の墨。 

 本人は趣味で書き始めたものだったが、気がつくとなっていたと言っていた墨を由希は思い出す。

 

「だって! 仕事が忙しすぎて最近は由希と飯も食えない、風呂にも入れない、一緒に寝ることもできないし」


 今日こそはとぶつぶつつぶやく墨の姿に呆れたとあずみは己の額を叩いた。

 墨が由希のことをなによりも大切にしていることを知っているあずみはいつものことかと思いつつも早くと墨を由希から引き剥がした。


「ならば早く仕事を終わらせてください。 そしたらいくらでもどうぞ」

「ちょっと僕は大之助さんのところに行ってくる。 墨にお菓子でも買ってくるよ」

「お前はいい子だ! さすが由希! やさしいな」


 由希の頭をぐしゃりと撫でた墨は己の仕事場へと戻っていく。 一度だけ頭を下げて墨の後をあずみはついていった。


※※※ 


 あずみが扉を閉めたと同時に玄関の閉じる音が二人の耳に入った。 仕事机に腰を下ろした墨はため息をこぼしつつ、目の前にあるパソコンに目を戻す。

 そしてなにを発するでもなくキーボードをたたく音だけが部屋の中に響きだした。 その姿を眺めつつ、己の持ってきた資料を眺めていたあずみはふと口にする。


「あの子って生粋の人ですよね」


 あの子というのが由希のことだと理解した墨はああと答えた。 


「不思議に思っていたんです。 なぜ、あなたが生粋の人と一緒に暮らしているのか。 人が珍しくなっている時代に、飼うわけでも果たして交わるわけでもなく我が子のようにかわいがっているなんて」

「俺はそんなに趣味が悪いように見えるのか」


 呆れたとため息をこぼす墨はキーボードをたたき終えると息を吐きだした。 そばに由希の淹れてくれたコーヒーがあったがすでに冷めており、それを口に含むもあまりおいしく感じなかった。


「由希とはあいつが五歳のころに家の前の道で倒れているのを見つけてな」


 いまでも思い出すと墨は顎を撫でた。


 当時の墨は普通にアルバイトをしながら生計をたてていた。 友だちなどが特にいない墨にとって仕事と家の行き来がいつもの日課。

 その日もいつものように仕事を終わらせていつものように家に帰るという日課だったはずだった。


 空は灰色に染まり、すでに雨がぽつりぽつりと墨の頭へと落ちてきていた。 その日は夕方から雨が降ると聞いていた墨だったが傘を持っていくのを忘れており、すでに服は雨のしずくを吸いこみ始めていた。


「本降りになる前に帰ろう」


 アルバイト先から走った墨は家の前まで来たとき、異様なものが道に転がっているのを確認した。 どこからきたのか煤にまみれたぼろ布をかぶったそれは道の端でダンゴムシのようにうずくまり、表情が見えない。


「どうした」


 それに声をかけるとびくりと体を震わせて墨のほうへ視線を向けた。

 その瞳は初めて見るほど黒くて、そしてひきこまれそうなほどきれいな色だった。

 ぼろ布の中から手をだしたそれの手首には縄が巻きつけられ、それは足首にも同じものがついているのが見てとれる。


「人、か」


 よく見るとぼろ布の下にはなにも身に着けていなかった。


「風邪ひくぞ、とりあえず家に上がれ」


 脇に手をさしこんで抱えるとそれを胸に押しこんだ。 それは縛られた腕を持ち上げると墨の服をつかむ。 そのつかむ腕は震えていた。


「明らかになにか事件に巻き込まれたというのはわかった。 悪いと思ったが、そのときの由希をカメラに撮ってから風呂に入れた」


 両腕、両足についていた縄を外すとその下からは赤い皮膚が現れた。 縛りつけられた縄が擦れて焼けたようにただれてしまった肌に由希は痛いとつぶやいていたのを墨は覚えている。


「きれいな子どもだと思った。 風呂の中で親のことを聞いたら由希は首を横に振って、ぽつりとぽつりと涙をこぼし始めたのさ」


 声をあげるわけでも顔を歪ませるでもなくぽろぽろと瞳から涙をこぼすそれの姿に墨は目が離せず、頭を撫でるとそれはもう一度首を横に振り、墨のほうへと体を預けた。


 声にはださずとも体を震わせるそれを抱きしめると安堵の息をもらして寝息をたてはじめた。


「ちょうど知り合いに警察の奴がいたから調べてもらったら、すごいことがわかった」


 本来、生粋の人が生まれる条件は両親が共に人であること。 

 そうなればそれの両親は必ず人である。


「由希は三人家族で暮らしていたが、両親と共に人売りに誘拐されて車で移動していたときに両親がなんとか由希を逃がしていたということ。 そして由希の両親はとっくに売り飛ばされて消息がわからなくなっているということだった」


 墨の言葉をあずみはただ聞いていた。

 相槌を入れるでも理由を問うわけでもなく、聞き耳をたてるあずみの姿に墨は息を吐きだした。


「んで、それから預かっているってこと。 ここで手放しても施設にいれられるだけだったし、それにあいつが人であることには変わりないからまた狙われても困るし」


「いまは、大丈夫なのですか? 」


 あずみの言葉に墨はにんまりと笑った。

 いきなり笑いだした墨の姿に頭がおかしくなっただろうかと首をかしげたあずみ。 あずみがなにを考えているのかを理解した墨はひどいなあとつぶやきつつ、部屋の扉を開いた。


「むかぁしからの古い知り合いに由希をどうしても店の手伝いに欲しいと言われて、お手伝いをさせるかわりに由希を必ず守るように伝えているから大丈夫」


 ぬかりなし、と笑う墨は喉が渇いたと部屋から出ていった。


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