訪問者は
「いい天気」
日が空高く君臨していた。
昨日まで降っていた雨は嘘のようだと由希は思う。
ここ一週間、毎日のように降り注いだ雨もいまはすっかりと収まり空の主導権を太陽へと渡していた。
朝までじめじめとしていた世界もからりと晴れていまはじんわりと汗がにじむだけで、むしろ世界の温かさに由希はほっこりとしていた。
それもいまから行う掃除をしなくていいと思えば、の話だ。
「ほら、大之助さん掃除をするから。 ちょっと寝ないでくださいって」
店の前にだしていたお菓子をすべて冷蔵庫へと片付けた由希が店に戻ってくると、熱気にやられてぐったりとしている店の主を見つける。
途中まで片付けようとしていたのか手にお菓子を入れるかごを持ったまま、壁にもたれかかっていた。
「いくら暑さに弱いからって壁にもたれかかったままだとさらに暑いでしょ」
暑さにうぅとうめき声をもらす大之助を外に追いだすと由希は蛇口をひねるとなにを思ったのかそばに置いていたお菓子をいつも入れている容器、ではなく暑さにへばっている大之助に向けてホースの水を噴射した。
「うぎゃっ」
普段はださないような悲鳴を大之助はあげた。
水が嫌いな大之助はそれから逃げようとするも由希は止めようとしない。 着ていた衣服をぐっしょりと濡らした大之助の姿に声をあげて笑った由希を大之助はにらみつけた。
「これで少しは冷えたでしょ、早く掃除をしましょう」
上着を脱ぎ捨てた大之助をよそに由希はたわしを手に容器を洗っていく。
水をかけながら隅を洗う由希を横目に見て、大之助は己の尾を由希にばれないようにこっそりと伸ばす。
「だいぶ落ちないな」
洗剤はどこだろうかと由希がホースから手を離した。
その瞬間、ホースを奪いとった大之助の尾はそれを由希へと向ける。
「うわっ、ちょっと」
今度は由希が悲鳴をあげる番だった。
主導権を握った大之助は水から逃れようとする由希へとひたすらホースの先を向け続ける。
「大之助さん、冷たいってば」
「さっきのお返し」
由希のズボンをひっぱった大之助は隙間の空いたそこへホースを差しこむと下腹部に感じた急激な冷たさに由希は悲鳴に近い声をあげた。
「本当にやめてってば、大之助さん! 」
「そういえば、男の大事なところって冷やすといいって言うな」
突然、そんなことを言いだした大之助に由希は息を飲む。
嫌だと大之助の腕を振り払うとズボンの中からホースを引き抜いた。
下腹部の冷たさにぶるりと体を震わせた由希は蛇口を元に戻した。
水の止まった蛇口を確認して由希は上着を脱ぎ捨てる。
「風邪をひいたらどうしてくれるのですか」
「そのときは、抱きしめて温めてあげる」
両手を広げた大之助にいらないと由希は答えた。
上着を絞ると水が溢れて地面に吸いこまれていく。 先ほど水分は吸ったはずの地面だったがそれすら足りないというように由希の上着から溢れてくる水分を求めて一瞬のうちに吸い上げた。
「すみません」
濡れた服を乾かすように上下に振ったとき、そんな声が由希の耳に飛びこんできた。
吹く風に飛ばされそうなほどか細い声をもらした声の主は気がつくと由希の真後ろに立っていた。
二輪の牡丹が咲いた赤い着物を身にまとった女性。 顔が見えないように包帯を巻いていたが、包帯から唯一でている右目だけは由希の姿をはっきりと捉えていた。
「こちらでおいしい茶菓子を販売していると聞いたのですが」
「あ、お客様。 こちらです、いま商品を持ってきますので」
由希は濡れた上着を大之助に手渡して店の中へと戻っていく。
「珍しいですね、生粋の人がこんなところにいるだなんて」
女はそばに立っていた店の店主に声をかけた。
絶滅危惧種とまで言われている生粋の人の存在に驚きの隠せない女。 包帯で隠された唇を撫でた姿に大之助はあげないとつぶやく。
「絶対に、あげないから」
大之助の言葉に女は目を見開くもほほほと笑った。
「お待たせしました、種類がいろいろとあるのですがどうしましょう」
冷蔵庫からお菓子の入った箱を持ってきた由希は店の縁側に並べた。
それをひとつひとつ眺めた女はちらりと由希へ視線を送る。
「かわいい店員さん、あなたのおすすめはなにかしら」
女の言葉に目を細めた由希。
大之助の作るものはなんでも好きな由希はどうしようかと首をかしげるもオレンジの果実の入ったクッキーに手をのばした。
数枚入ったそれは由希がここに来て、大之助が初めて新商品にしたものだ。 必然的に由希が初めて味見をしたお菓子ということになる。
「僕は、これが一番好きなのでおすすめですね。 甘酸っぱいオレンジの果実と甘いクッキーがちょうどいいです」
由希の言葉に女はもう一度、包帯の上から唇に触れた。
「おいしそうね。 それを三つほどいただけるかしら」
「ありがとうございます」
お菓子を袋につめていく由希のすぐ後ろ、女の姿は真後ろにあった。 それに、由希はまだ気がつかない。
女が口元の包帯を下へとずらした。 まるで寒さに凍えて色の変わってしまったように真っ青に染めた女の唇がそこに存在していた。
そこからちらりと赤い舌をのぞかせる。
「代金は」
由希がつぶやきながら後ろを振り返ったとき、目の前にいた女の姿に息を飲んだ。
飲んだというよりも突如として女の唇に己のそれが塞がれて息を飲まされた。 ひんやりと感じる女のそれの冷たさに由希は離れようとするも腰に腕を回される。
温かいはずの女の口内は氷水に舌を浸しているようで凍りついてしまいそうだと由希はとっさに思った。
女の肩を叩くも、ものともしない女は由希の頬に触れる。 その冷たさに身震いした由希を確認して女はやっと由希を解放した。
「ごちそうさま、お代はここに置いていきますね」
ずるりと床に崩れ落ちた由希の手のひらにお金をつかませると女は意気揚々と店から出ていった。 入れ替わりに店に戻ってきた大之助は体を震わせる由希の脇に手をさしこむと抱え上げた。
「変なものに好かれたもので」
歯をかちかちと鳴らし、体を震わせる由希の体を胸に押しこんだ。
「雪女に口づけられるなんて、死にたいって言っているようなもの」
ただでさえずぶ濡れになっていた由希に追い打ちをかけるように口づけた雪女の姿に大之助はため息をこぼした。
「風呂にでも入るか」
自身も由希のせいでずぶ濡れになっており、一石二鳥かと風呂場へと向かった。
途中、口笛を吹くと黒猫がそれを合図にお菓子の入った容器を器用に銜えて大之助の後を追って駆けていった。