※
「まあ人は珍しくなっているからなぁ、俺もお前を拾うまでは純粋の人なんてものがいるとは思わなかった」
「人だろうと妖だろうと妖怪だろうと生きているのは変わらないでしょ。 なにが面白くてみてくるのかわからない」
不愉快だとつぶやきながらも由希の箸は止まらない。 食べ終わった食器を重ねて一息ついた由希は食器を炊事場へと持っていく。
「今日は僕が洗うから」
スポンジに洗剤をつけて洗っていく由希にこれもと墨は己の使った食器を置いた。 二人分の食器を洗い終えると、それを見計らって墨が由希を引き寄せる。
「じゃあ風呂に入るか」
意気揚々と由希の腕を引いて目的地の風呂場へと向かう墨の姿に由希はため息をこぼした。
今年で十六となる由希と大人の男である墨の二人で風呂に入るのは少々狭苦しくなっている。
浴室の中ではろくに足を伸ばすこともできず、大体は片方が体を洗っている間にもう片方が浴室につかるようにはしていても、だ。
「いい加減、風呂が狭苦しくてきつい」
遠回しに一人で入りたいと訴える由希に墨は己の髪の毛を洗いながらうんとうねり声をもらす。 なにかを考えるようにあごをなでながら首をかしげた。
「じゃあ、風呂を大きくしてもらうか。 それは俺も思っていたことだし」
別々に入るという選択肢のない墨は業者に頼むかと一人で納得していた。
もういいと由希はあぶくを吐きだしながら浴室の中へと沈んだ。
※※※
「由希」
今日は学校が休みだった。
ゆっくりしてから大之助のところにいこうと思っていた由希だったが、家のチャイムと共に現れた大之助のところの黒猫に呼ばれて朝から行く羽目になってしまう。
仕方なく店に向かうと、すでにお客様が来ていたらしく大之助が勘定をしていたところだった。 上に着ていたパーカーを黒猫に手渡すと大之助のところへ向かうと大之助が口をへの字に由希へと視線を向ける。
「遅い」
「まさか朝から仕事にかりだされるとは思わなかったので」
会計を終わらせた大之助は由希の頭を撫でると次をだしてくると家の中へと戻っていく。 お客様が多かったのか、がらりと開いてしまった店の中を見渡していたときに一人の男と目が合う。
それは先ほど会計を済ませた男だった。
手にはお菓子の入った茶色の封筒を持っており、帰る寸前であるはずなのになぜか由希を凝視したままそこから動こうとはしない。
見た目ではただの人にしか見えなかった。
由希のように両手と両足、それにうろこもなく大之助のような獣の耳もない。
「なにかご用ですか? 」
「久しく見ていなかったが、純粋な人というのは久しぶりだ」
男がつぶやいた。
由希のほうへ右手を向けたかと思うと、男の腕が遠くにいた由希の首を捕えた。 通常の長さより二倍も三倍も伸びた男の腕は由希をそばまで引き寄せるとすぐに長さはもとに戻った。
よくみると先ほどまで黒かった男の瞳は血に染まったように真っ赤に染まっている。
「あぁ、甘いにおいがする」
お菓子のせいだろうという言葉は男に首をつかまれているせいで、発することができなかった。 口を開いた男の舌の先が蛇のように二つに裂けており、それは由希の頬をなでた。
「柔らかそう」
ごくりと音をたてた男の首に由希は目を細めた。
首をわしづかんでいる男の力が強くなっていき、いまにも意識が飛びそうだった。 苦しさに目の前がちかちかとしたかと思うと白く染まっていく。
男の腕を外そうと触れたそこには先ほどではわからなかったうろこが腕いっぱいに広がっており、 ぬるりとしたうろこに爪をたてようにも滑ってつかむことすらできなかった。
「由希」
由希に用事を思い出した大之助が店へと戻ってきた。
店の中で男に首を絞められて意識を飛ばしかけている由希の姿に大之助は由希に味見をさせようと持ってきた焼き菓子を男へと投げつけた。
出来立ての焼き菓子が顔に直撃し、熱さに顔をしかめて由希をもつ腕が緩んだのを見計らって大之助は一、二と歩みを進めると男の懐に足をねじこんだ。
「がはっ」
男は声をもらして、その場に膝をついた。
手から離れた由希を肩に抱えると膝をついた男のえりをつかみ外へと放りだす。
しりもちをついた男に容赦なく蹴りを叩きこむことを忘れずに。
「二度とこいつに近づくな」
飢えた喉が空気を求めて由希の中へと押し入っていく。
激しく咳きこんだ由希の背中を撫でる大之助は男など眼中にないというように背中を向けた。
「まさか人を飼っているとは思わなかった。 そんなにも愛おしそうにするなんて、その子どもの体がそんなにも良かったか? 」
店の中に戻っていく大之助の背中に男は皮肉をこめて吐き捨てた。 動きを止めた大之助はちらりとだけ男に視線を送った。
「やれ」
大之助はつぶやく。
つぶやいたと同時にそばにいた黒猫が男へと襲いかかった。 野太い声をもらした男の叫びが由希の耳に入らないように両方の耳を塞いだ大之助は息継ぎを繰り返す少年の額に口づけた。
それから気がつくと、由希は布団に寝かされていた。
布団をかぶっているのになぜか足に風が入りこんできてぶるりと体を震わせる。 体を起こした由希はそれの原因が大之助にあることを知る。
布団をめくった大之助は由希の足を眺め、たまに由希のズボンをまくりあげて撫でていた。
「なにをしているのですか、大之助さん」
「白いなと思って撫でている」
隠すことなくはっきりと告げた大之助は撫でる手を止めようとはしない。 それを止めたのは由希の蹴りが大之助の腹に食いこんだからだ。
「僕、なんでここに寝ているのですか」
店にいたはずだと目を細めた由希は布団から体をだした。
撫でてほしい黒猫が由希の足に絡みついてくる。 頭を撫でると黒猫は由希の唇を舐めた。 そのときに猫の舌から魚のようなにおいがして由希は首をかしげた。
「なにか魚でも食べさせました? 生臭いにおいがするような」
「ちょうどさっき、食べさせた」
大之助はそれだけを答えて部屋から出ていく。 何度も体をすりつける黒猫を抱えた由希は大之助の後を追った。
台所でお菓子の製造に励んでいた大之助は焼き菓子の出来上がりに満足すると、後から入ってきた由希を手招き。 よってきた由希の手から黒猫を下ろすと口の中へ焼き菓子を放りこんだ。
「あっつ、あっつい」
出来立てほやほやの焼き菓子の熱さに声をあげた由希は口に放りこまれた焼き菓子を手にとった。 その形は由希の口の中で多少は変えても、どんなものかわかった。
「猫の形をしたクッキーだ」
「甘さ控えめで欲しいと頼まれていたから、さっき作った」
なるほど、たしかに食べてみると普段は口の中いっぱいに広がる甘い味が舌先をしびれさせただけだった。