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 由希は一人、家の中にいた。 いつの間に家に帰ったのだろうかと疑問に思った由希が寝室の扉を開く。 

 ほんのついさきほどまで辰美と一緒にいたというのに、辰美は帰ってしまったのだろうか。 見渡しても必ず家にいるはずの墨もなぜか、いない。


「墨? 」


 養い親の名前を呼ぶ。 居間、台所、トイレ、ふろ場。 どこを探しても見当たらない墨にどうしたのだろうかと由希は首をかしげた。

 果たして今日はどこかへ行くと言っていただろうか。

 墨の居所がわからず腕を組んだとき、玄関の扉が開かれた。 墨が帰ってきたのだろうかと駆け寄った由希の瞳には養い親の墨、ではなく無表情の辰美が立っていた。


「辰美」


 うつむく辰美のそばに駆け寄った由希。 辰美の頬に由希が触れようとしたとき、その手をつかまれた。

 みしり。 音をこぼした手に目を細めた由希をよそに、辰美は由希のあごに触れる。 力ずくで顔をあげられた由希の表情はゆがんでいく。


「辰美…… 」


 由希が声を絞りだす。 

 辰美はうっすらと口を開く。 開いたと同時に見えたちらりと見え隠れする赤い舌。 目を細めた由希の口に指をねじこんだ辰美は閉じることのできなくなった由希の口に食らいつこうとした。

 あと少し、というところで動きは横から突然現れた手によって止められていた。


「本当、俺の姿で止めてくれないか」


 突如として空間に裂け目が現れ、そこからはいつも見慣れた幼馴染が姿を現した。 左手には由希を抱きとめ、右手はもう一人の辰美の顔をわしづかんだまま。


「たつみ? 」

「由希、おやすみ。 いい夢を見てね」


 辰美は由希の額に口づけ一つ。 支える手で由希の頭を撫でると由希はあたたかいとこぼして寝息をたてはじめる。

 たてはじめたと同時に由希の体は足からすうと消えていく。 完全に消えてしまった由希の姿を見送った辰美はもう一人の自分に向き直った。


「さぁ、由希を苦しめたんだ。 相応の代償を払ってもらうから」


 辰美の瞳が赤い世界を作りだす。

 ひっと短い悲鳴をこぼしたもう一人の辰美は目の前の龍から逃げようとするがそれを辰美が許すはずもない。


「なんでここに来られるんだ…… こ、ここは俺が作りだした世界だぞ! 」


 もう一人の辰美の体がぼやけた。 絵具をつけた筆を水で溶かしたようにぼやけていった辰美の姿はやがて一人の少年の姿に変わる。


「やっぱり、か。 そんなに由希をいじめてタ・ノ・シ・イの? 」


 雪男のときにちょっかいをかけてきたクラスメートの少年は、目の前に立つ辰美に唇を震わせていた。


「たかがこのくらいの力で? まぁ由希はただの人なのだから、このくらいでも十分か」


 少年の顔から手を離した辰美はやれやれと言わんばかりにため息をこぼした。 


「お前が人を独占しているからだろ! 俺だって…… 」

「やだやだ、男の嫉妬ほど醜いものはないって知っているだろ。 大体、人だから由希と一緒にいるわけじゃないし」


 目の前でしりもちをついた少年の姿をちらりとだけ見つめた辰美は右手を強く握りしめて、開いた。

 途端、世界は赤く染まった。 赤い液体をぶちまけたようなあの赤く真っ赤な世界に少年は辺りを見渡す。 

 さきほどまで作っていた己の世界を力ずくで奪い取られて、どうすることもできなくなった少年はただ唇を震わせながらそれを実行した少年を見上げる。 ときおりこぼれそうになる涙をぬぐいもせずに。


「さて、選択肢をあげるよ」


 辰美は小刻みに震える少年のあごを引き寄せた。

 抵抗する力も失せている少年は辰美のなすがまま、引き寄せられてその赤い瞳をじっと見つめ続ける。


「由希の前から消えるか、いますぐ俺に消されるか」


 お好きな方を、と辰美は笑った。


※※※


「おはよう、由希」


 目を覚ました由希はベットから起き上った。 

 いつものように墨が朝食を作って待っていてくれて、いいにおいが寝室まで迫っている。 


「なんか、今日はよく眠れた気がする」

「それは良かった。 最近は悪い夢ばかり見ていたようでずっとなされていたからな」


 安堵の息をもらした墨は由希の頭を撫でた。 恥ずかしくも、悪い気はしない由希はもっとというように墨にしがみつく。

 そんな由希がかわいくて仕方ない墨は由希の背中に腕を回して何度も頭を撫でる。


「本当に、かわいいな由希」


 まるで我が子のようにかわいがってくれる墨。 そんな墨が大好きな由希はぐりぐりと頭を左右に振って墨の胸に顔を押しつけた。

 二人でじゃれあっていると来客を知らせるチャイムが家に響いた。 


「誰だ、邪魔をしに来るやつは」


 由希を席に座らせた墨は先に食べていろと玄関のほうへ向かった。 目の前に並べられた今朝の朝食に由希は腹を鳴らせた。

 豆腐の味噌汁、焼き鮭、納豆に卵焼き、それに白ご飯。 好きな物ばかり並べられた朝食にどれから食べようかと箸を手に持ったとき


「由希、辰美くんが来たぞ」


 そんな遮る声が聞こえた。


「おはよう、由希。 一緒に学校に行こう」


 家の中へと入ってきた辰美はこれから朝食を食べようとしていた由希の隣に腰を下ろした。 卵焼きをつかんだ由希の手をつかんで己の口へと運ぶ。


「うん、やっぱりおいしい」

「とるなって。 大体、今日は来るのが早くないか? 」

「由希がちゃんと眠れているだろうかと心配になって早めに来たんだけど、その調子なら大丈夫そう」


 安心だと笑う辰美の姿に心配をかけたと思いはありつつも、卵焼きを奪われたので辰美の足を踏みつけた。

 いてぇと声をもらす辰美に


「食い物の恨みだよ」


 そう言い放った。 

 ちぇっとこぼす辰美をちらりとだけ見た由希だったが、すぐに視線を朝食へと戻した。



「行ってきます」


 墨に告げて、由希は辰美と家をでた。

 後ろではいつまでも手を振っている墨の姿がある。 それに振り返すと、両手で勢いよく振り返されて苦笑いをこぼした。


「そういえば、悪い夢は見なかった? 」


 辰美に問われ、由希はうなずいた。

 昨日はとてもぐっすりと眠れたような気が由希はしていた。 数日前までの、あの意味のわからない夢はなんだったのだろうか。

 夢の中で、辰美に出会って、それから。


「そういえば、夢の中に辰美がでてきた気がするんだけど」

「あ、本当に? やった、由希の夢の中にでてきたんだ。 由希はそんなにも俺のこと大好きなんだ」

「言わなきゃよかった」

「恥ずかしがんなって。 俺も由希のこと大好きだからさ」


 うんうんとうなずく辰美になんだったんだと思いつつこれ以上いうと次になにを言いだすのかわからないため考えるのを、もうやめた。

 歩みを速めた由希に置いていかないで、と辰美はその背中を追う。


 ばさり、ばさり。


 そんな音と共に、二人の目の前に一つの影が舞い降りてくる。 墨よりも黒い、漆黒の翼をもつ大和が目の前に降り立った。

 体よりも大きな翼を折りたたみ、まっすぐに由希を見つめる。


「おはよう」


 言いにくそうに、そう挨拶をしてきた大和。

 夢のせいで大和に申し訳ないことをした由希は、大和の手をとった。 なにも言わない大和を由希は一度だけみて、すぐに頭を下げた。


「すみませんでした、大和さん」

「もう、怖がったりしないか? 」


 由希に拒絶されたことを大和はとても気にしていた。 それからしばらく会っていない間も、嫌われたのだろうかと考えた。

 なにかひどいことをしただろうか、なにか傷つけるようなことを言ってしまったのだろうか。


「とても、いやな夢を見て…… それで大和さんに酷いことをしてしまって。 本当にごめんなさい」

「もう大丈夫なら、それでいい」


 大和の手を離した由希。

 触れられていた己の手を大和が撫でたとき、いつものように学校のチャイムが鳴り響いた。 町中に知らせる、学校が始まる合図。


「また遅刻する」

「走るか。 由希、どんな夢を見たのかあとで聞かせてもらうからな」


 大和の言葉にえっと由希が声をもらした。

 先に駆けていく大和に、なんと説明をすればいいのかわからず由希は目を細める。 その間にも先に先にいく大和に待ってくださいと名を呼んだ。


「そういえば、なんで大和さんが? 」

「俺が呼んだ。 たぶん、由希はもう大丈夫かなと思って」


 辰美の言葉に首をかしげた由希に辰美は笑うと、お先と由希よりも早く駆けていく。 すでに姿が見えなくなってきている二人に追いつこうと由希は必死に走った。


  毎度毎度、遅刻ぎりぎりに教室へと駆けこむ由希と辰美の姿に担任はため息をこぼした。 またこの二人かと呆れつつ、早く座れと席に促す。


「なんとか間に合った…… 」


 息を切らせながら席をついた由希はふと、教室を見渡した。 席が一つ足りない。

 気のせいだろうかとクラスメートの人数を頭の中で確認していく。 


 が、やっぱり足りない。


 一体、誰がいなくなったのだろうかと考えているとそれはすぐに答えが返ってきた。


「なんか家の事情で〇〇は引っ越したからな。 急なことに挨拶ができなかったと」


 担任の言葉にあぁとうなずいた。

 どうりで一人足りないわけだと由希は一人で納得する。 


「でも本当に急だったなぁ」


 由希がつぶやく。

 それが聞こえたのか聞こえていないのか、辰美は一度だけ由希を見て、そしてにっこりと笑った。

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