その06
「ソアラを返してくれ!」
アビスは懇願した。薄暗い部屋の中、彼の目の前には、黒い覆面を被った怪しい2人組が立っている。
そのふたりの後ろには気を失ったソアラが倒れていた。
ただし、ソアラは人間の女性であり、アビスは銀色の髪と緑色の肌をした魔人の男だった。
「いえね、本当はこんなことはしたくないんですよ。わたしとしては魔人と人間の禁じられた恋、大いに結構だと思っております。ただね、これを人間側や魔王軍に知られたらどうなるかなーと、他人事ながら心配になりましてね。何かお手伝いできることがないかと思った次第なんです」
流暢に喋っているのは、中背でやや恰幅の良い黒覆面だった。声からすると男であろう。
魔人のアビスと人間のソアラは、魔王軍が占領した人間の国で偶然出会って親しくなり、人知れず種族間を越えた愛を育んでいた。
ところがそんなふたりが密会していたところに、突然この2人組が現れ、ソアラをさらっていったのだ。そして、この部屋へと誘導された。
「それなら何でソアラをさらったんだ!?」
アビスが激高する。当然の疑問だった。お手伝いしようと思って、誘拐を仕掛けてくるような相手を信用できるわけがない。
しかし、彼は既に黒覆面たちに戦いを挑んだ後で、力ではどうにもならないことを思い知らされていた。先ほどから無言を貫いている細身の黒覆面に、完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
「まあまあ、落ち着いてください」
恰幅の良い黒覆面が、穏やかな声でゆっくり喋った。ただ、この状況で落ち着ける者などそうはいないだろう。
「ひとつだけ、ひとつだけ我々のお願いを聞いて頂ければ、ソアラさんはちゃんと解放しますし、無事は約束します。それにお願いを聞いて頂いた後は、ふたりとも安全な場所にお連れしますよ? 魔物も人も滅多に来ない場所です。悪い話じゃないでしょう?」
「お願いだと? おまえは人間だろう? わたしに一体何をさせるつもりだ?」
「いえね、わたしは常日頃から魔王軍の皆様と良い関係を築きたいと思っていたんですよ。そこで、ちょっとうちの商品をアビスさんのお知り合いの方々にご紹介と言いますか、使ってみて頂きたいんです。もちろん、最初は無料で提供させて頂きます。気に入って頂けましたら、次からはお代を頂くということで」
そう言って黒覆面が取り出したのは、瓶に入った紫色のポーションだった。
「何だ、それは? まさか毒か!?」
当然のように、アビスは警戒している。
「毒ではございません。日々の疲れを癒す栄養剤のようなものです。精神を高揚させ、疲労を取る効果があります。ちゃんと魔王軍の皆様に合わせてお作りしましたので、効果のほうは保証いたします」
「……それをわたしの仲間に飲ませろというのか?」
アビスは黒覆面の男の言うことなど、まったく信じていない。
「左様でございます。大丈夫です、身体に害は一切ございません。きっと気に入って頂けると思います」
「我々を相手に商売をしようとしても、金など持っていないぞ!」
抗うようにアビスは言った。
「お金など、占領した地にいくらでも残っているではありませんか。それを集めて持ってきていただければ良いんですよ。価値があれば美術品やアイテム、武器、防具でも構いません」
要は金になれば何でも良いということだった。
「下種が! 我々が占領した地から金品を盗もうというのか!?」
侮蔑を込めた目でアビスは黒覆面の男を睨みつけた。人間が同じ種族である人間の財産を奪おうというのだ。それはアビスにとっても卑劣な行為といえた。
「魔王軍のみなさんには価値のないものですが、わたくしどもには価値のあるものです。きっと双方に利益のある取引になると思います」
黒覆面はアビスの挑発をまったく意に介さない。
アビスは黒覆面をしばらく睨みつけた後、肩を落とした。
「……わかった。だが、本当だろうな? 約束を守ればソアラを解放するというのは?」
「もちろんでございます。商売は信頼関係が一番大事ですから」
(誘拐からの暴行、脅迫という流れのどこから信頼関係が生まれるんだろう?)
と細身の黒覆面は思った。
無論、恰幅の良い黒覆面はトラオ。細身の黒覆面はリオであった。
彼らは紫色のポーションの販促活動のために、魔王軍の占領地に潜り込んでいたのだ。
──
大量のポーションが入った簡易的なアイテム袋を渡されたアビスは、少しだけ悩んだ後、魔王軍が駐屯している城に向かった。そこまで親しくはないが、だからといって贈り物をしても、おかしくない程度の同僚にポーションを渡すことにしたのだ。
「このポーション、使ってみろよ」
アビスはポーションを同僚に渡した。その同僚は単純な性格で、同族ではなく狼の獣人だった。だからこそポーションを渡す相手として選んだのだが。
「何だ、これ?」
狼の獣人は怪訝な顔をして、受け取ったポーションを眺めている。
「精神を高揚させて疲労を癒す効果を持つポーションだ。なかなかいいぞ?」
「おまえは使ったのか?」
「ああ、使ってみた。良い気分になれる」
これは嘘だった。さすがに自分で試す気にはならなかったので、アビスはこの狼の獣人で試そうとしているのだ。
「そうか」
同僚は特に疑った風もなく、瓶を開けてポーションを一気に飲んだ。
アビスは緊張した面持ちで、その様子を見ている。
同僚はしばらく黙っていたが、だんだん眼の輝きが増してきた。
「いいな、これ! 何だか、身体中から力が湧いてくるようだ! 今すぐ走り出したい気分だぜ!」
狼の獣人は両手の拳を握りしめて、みなぎる力を実感している。
明らかにテンションはおかしいが、とりあえず死なないことがわかり、アビスは胸をなで下ろした。
ただ、その様子を見て、他の同僚たちが集まってきた。魔人や獣人など種族は様々である。
「何してんだ、おまえら?」
「いや、アビスがくれたポーションが良くてよ、最高なんだ! なんかもう滅茶苦茶調子がよくなるぜ!」
狼の獣人は恍惚とした表情で答えた。
「ポーション? そんなにいいのか?」
その様子を見て、他の同僚たちも興味を覚えたようだ。
「いいね、こいつは気分が上がる!」
アビスからすると、どう考えても彼の気分は上がり過ぎだが、他の同僚たちは良い方向にとらえたようだ。
「ほう、アビス。そのポーションはまだあるのか?」
「あるぞ」
これ幸いとアビスはアイテム袋からポーションを取り出すと、他の同僚にも渡していった。
そして、渡した同僚たちはポーションを使用すると、その効果を絶賛し、紫色のポーションは評判となっていった。
次の日、新たなポーションを同僚たちから要求されたアビスは言った。
「これは人間に作らせているポーションで、作るには金が必要だ。だから、新しいポーションが欲しいなら、金を持ってきてくれ」
これに対して、同僚たちはこぞって金を集め、ポーションを求めるようになった。
占領地の家屋を荒らして金を探し、人間を見つければ金をせびり、人間にとって価値のありそうな品を手あたり次第持ってくるようになった。
ちなみにポーションの売人になったのはアビスだけではない。他にも弱みを握られて売人になった魔物は何人もいて、魔王軍の占領地では紫のポーションが急速に広まることとなった。
ポーションが広まった後は、売人の成り手がいくらでもいる状態となったので、アビスの恋人だったソアラは最終的には解放され、ふたりには人目のつかない居住地が提供された。
リオは口封じでふたりを殺すのではないかと心配していたが、トラオは約束を守ったのだった。