8-13
ルチア・オブライエンが失踪した。
その場にいたレティシアの証言から容疑者として指名手配されていたデボラ・ダルキアンは、移送予定だった修道院の前で重傷を負った状態で発見された。とても会話ができる状態ではないという。今は治療を受けているが、状態が落ち着き次第、聴取を受けることになっている。
アビゲイルたちは寝る間を惜しんで事態の解明に動いていた。娘をルチアに救われたマクシミリアンもこの件に関して助力を惜しまないと言っている。
しかし、一向に手掛かりは掴めない。
サンとエウラリアは別件で動いているようだった。その関係なのか、アデルバイドに滞在中のケンダル・レヴァイン上級外交官は、近くファリスに帰還する予定らしい。
ユリシーズの行方も依然としてわからないままだ。現在アルスター班の数名がキアラ・グラフトンを取り調べているが、彼女は黙秘を貫いている。【
唯一の成果と言えば、埠頭で使われた黒色火薬がメルヴィナ産だと判明したことくらいだ。メルヴィナは大陸でも有数な硝石の採掘地だが、関税の問題がありアデルバイドはかの国からの武器の輸入を認めていない。
おそらく、メルヴィナに深いパイプを持つリュゼ領が密輸したのだろう。子爵夫人はメルヴィナの上流階級の出身だった。その件で、数日中にも子爵を王都に召喚することになっている。
そして―――
「陛下が?」
顔中に疑問符を貼りつけたコンスタンス・グレイルは、そう言うと、訝し気に首を傾けた。ランドルフは、ああ、と頷いて言葉を補足してやる。
「実は、数年前から水面下で働きかけていたようだ。ようやっと成果が実った形だな。今回明らかとなった不正輸出の件を不問とする代わりに、硝石や銃砲弾の類にかけられた関税や制限を廃止するための通商条約を結ぶことになったらしい」
週明けにも現国王であるエルンストはメルヴィナに発つ手筈になっている。訪問の名目は国際親善のためとなっているが、実際の狙いは条約を確実に締結させることだろう。警護の指揮は、王立憲兵局の司令官でもあるデュラン・ベレスフォードが取ることになった。
「武器輸入に関する制限がなくなれば、ファリスへの牽制にもなるだろう」
ファリスの開戦派が戦争を支持する理由の一つに、硝石原産国であるメルヴィナとの蜜月関係があった。爆薬や銃火器類を大量に輸入する一方でアデルバイドへの輸出制限を要求し、軍事力を削いでいたのだ。
しかし、今回の訪問で交易に関する新たな条約が結ばれれば、その前提が覆ることになる。いくら開戦派が戦争をしたくとも、決断は慎重にならざるを得ないだろう。
そう説明すれば、コンスタンスはほっとしたような表情で胸を撫で下ろしていた。
◇◇◇
「貴族の女の子? いや、見てないよ」
―――この店も駄目だった。
活気あふれるアナスタシア通りの片隅で、コニーはぐっと唇を噛みしめた。ルチアが誘拐されたという報せを受けたのは、グラフトン領から戻ってすぐのことだ。その後ランドルフから陛下がメルヴィナと条約を結ぶつもりらしいことを訊いたが、それからの進展はない。まだ年端も行かぬ少女がどれほど心細い思いをしているかと考えると、居ても立っても居られなかった。
それに、ルチアだけではない。
カスティエル家の小さな
必ず、ルチアを助けると。
レティシアの証言によれば、彼女たちはアナスタシア通りの裏路地でデボラに遭遇したらしい。もちろんすでに憲兵が調査済みだが、それでも何か見落としはないかとやってきたのだ。しかし、やはり何も見つからない。
小さく溜息をつくと、ふいに背後から「やっと見つけたわ」と意味深な声を掛けられた。
はっとして振り向けば、そこにいたのは―――
「パメ、ラ……?」
グラン・メリル=アンでスカーレットにこてんぱんに叩きのめされたはずの、パメラ・フランシスだった。
けれど、ずいぶんと外貌が変わってしまっている。白金色の髪は艶やかさを失い、頬はげっそりとこけ、目の下には窪みのような隈。かろうじて愛らしかった当時の面影はあるものの、ぞっとするような様変わりだった。
「久しぶりね」
パメラは、まるで、どこかの肖像画から切り取ってきたような底の知れない笑みを浮かべていた。
「あなた、ちっとも変わらないのね。あの時のままだわ。間違いないわよ。だって、今でも毎日のように夢に見るもの。……ねえ、私はどう? 少し―――
そう言うと、呆然と立ち尽くすコニーをうっそりと眺める。それから囁くようにこう続けた。
「―���―実は私、数日前に貴女を見かけたのよ。グラフトン領の埠頭の倉庫で」
コニーはぎくりと肩を強張らせた。
「ひ、人違いじゃないかな……?」
「そうかしら? ああ、そう言えば銃撃戦があったらしいわね。死人も出たとか。物騒な話ね。もしかして、貴女もその場にいたんじゃない?」
「だ、だから人違い―――」
「そう」
血走った目が突然ぎょろりと動いてコニーを捉えると、かさついた唇が
思わず背筋がぞくりと震える。
「なら、別にいいのよ」
パメラ・フランシスは、そう言うとひどく満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、
◇◇◇
エルバイト宮の寝室で、王太子妃であるセシリアはエンリケに詰め寄っていた。
「……一体、どういうこと」
珍しく声に苛立ちが漏れる。
「メルヴィナと条約を結ぶだなんて、貴方、そんなこと今まで一言も―――」
セシリアが正式な報告を受けた時には、すでにエルンストは出国していた。示し合わせたとしか思えないタイミングだ。
「―――不思議だな」
女性のように儚い美貌を持つ王太子は、穏やかな口調でセシリアの言葉を遮った。
「我々がメルヴィナと自由に貿易ができるようになることが、それほどまでに、慌てることか?」
けれど、柔らかな声に反して赤紫の双眸は揺らぐことなくセシリアを見据えている。その鋭さに彼女は小さく息を呑んだ。
「……いつから」
明らかに距離を置かれ始めたのは、ケイト・ロレーヌを誘拐した間抜けな同胞を毒殺してからだったか。状況的に正体を疑われていることは知っていた。けれど、証拠はなかったはずだ。それに、そもそも今回のことは一朝一夕で出来ることではない。
だとすれば、いつから、気づかれていたのか。
いつから、メルヴィナとの交渉を考えていたのか。
答えるエンリケの口調はやはり穏やかだった。
「なぜ、周囲の反対を押し切ってまで君と結婚したと思う? なぜ、父やカスティエル公爵が君との結婚を認めたと思う?」
その言葉の意味を理解すると、セシリアは低く呻いた。そういう、ことか。
つまり、彼らの計画は―――
「そう、十年前からだ。すべてはリュゼ領を利用して、この条約を締結させるため。私は君に
十年前、セシリアに与えられていた役割は愛人として第一王太子を唆し、影で操ることだった。王太子妃になることではない。けれどスカーレットの処刑後、エンリケはセシリアを妃にと望んだ。はっきりと拒絶しなかったのは身分の差が邪魔をしたというのもあるが、そんな馬鹿げた婚姻が認められるはずがないと高を括っていたからだ。
気がつけば、セシリアはこの十年、王宮という名の牢獄に束縛されていた。それが組織の活動に有利に働いたこともあったが、結果的に見れば一杯食わされていたということだろう。
「……事が公になれば、貴方だって罪に問われるかも知れないわよ」
どんな理由があろうと、セシリアを妻に望んだのはエンリケである。王太子妃が犯罪に関わっていたことが明るみになれば、彼もまた何らかの形で責任を取らされることになる。
「知らなかったのか?」
そこで初めてエンリケの声に笑みが混ざった。
「私は、とっくの昔に罪人なんだ」
そう自嘲気味に言うと、そのまま水差しに手を伸ばす。取っ手のない
セシリアは目を細めてその様子を窺っていた。
―――次の瞬間、エンリケは激しく咳き込んだ。顔からは血の気が失せ、咽喉はひゅーひゅーと喘鳴している。セシリアは崩れ落ちたエンリケを無表情のまま見下ろすと、すう、と大きく息を吸い込んだ。
「―――誰か来て! エンリケが発作を起こしたわ!」
慌てて飛んできた侍医が全ての治療を終えた頃には、すでに日が暮れようとしていた。後の世話を侍女に申しつけると、セシリアは離宮を後にした。その足で向かった先は、モルダバイト宮殿内に構える財務総監室だ。
サイモン・ダルキアンの収監を受けて、補佐役だったルーファス・メイは副財務監督官に就任することとなった。コルベール財務総監は現在病気療養中のため、実質的にはルーファスが
「殺さなかったのかい?」
まるで以前からその部屋の主だったかのように深紅の肘掛け椅子にゆったりと腰掛けていた男は、人払いを済ませると、非難とも取れる声を放った。セシリアは軽く肩を竦める。
「相手は腐っても王太子よ。生かしておいた方が動きやすいわ。報告を受けたのなら、エンリケの状態もわかっているんでしょう? まだ意識は戻っていない。とても陛下の代理なんてできやしないわ。あんたのご要望通りよ」
「もちろん、不満はないさ。彼が死んだら、それはそれで面倒だしね」
ルーファス―――否、【
「でも、君は例の赤毛の記者も逃がしただろう。気づいていないとでも?」
「だとしたら、何か、問題が?」
冷ややかに告げれば、クリシュナは口元を弓なりに引き上げた。しかし、その目はちっとも笑っていない。
「いいや。ただ、憂いているんだよ。サルバドルも、君も、組織に忠誠を誓っているわけじゃない。それでもサルバドルはまだわかりやすいけどね。だがセス、君は―――」
そこで一端、言葉がとまる。青銀の虹彩が嬲るようにセシリアを捉えた。
「君は、ただ子供のように怒りをぶつける相手が欲しかっただけだろう?」
セシリアは答えなかった。答える必要を感じなかったからだ。クリシュナもまさか答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。セシリアの反応を気にすることなく、そのまま言葉を続ける。
「話を戻そうか。確かにメルヴィナと条約を結ばれたら厄介だが、この状況は好機でもある。エルンストもデュラン・ベレスフォードもいない、この状況はね。アドルファス・カスティエルは厄介だが、おそらく死に損ないの対応で手一杯だろう。ケンダル・レヴァインも帰国した。―――仕掛けるなら、今だ」
低く囁かれた言葉に驚きはなかった。この機会を逃したら後がないことはセシリアにもわかっていた。軽く頷くと、準備のために踵を返す。
「ああ、そうだ」
去り際に、ふと思い出したような呟きが落ちる。
「―――その前に、
それは、ひどく嗜虐的な声だった。
◇◇◇
ユリシーズ殿下の誘拐が公になったのは、エルンストがメルヴィンへと発った一週間後のことだった。
その時、陛下はすでに国境を越えていた。いくら早馬を飛ばしたとしても報告には数日が掛かるだろうし、そこから帰国するには、さらに日数が必要だ。
誘拐犯は、ファリスとの同盟関係を反故にしたい国内の過激派だということになっている。幼い王子の安否もわからないことにファリス側は激昂し、戦争も辞さない構えでいるようだ。
何も知らない国民にとっては、まさに青天の霹靂だった。今やアデルバイドは、荒れ狂う嵐の中を航海する一隻の小舟のように揺れていた。タブロイド紙は連日この話題で持ちきりだ。
コニーはゆっくりと息を吐いた。
さすがに、この展開は、予想していなかった。
「―――手を出しちゃだめだよ、スカーレット」
コニーは射殺しそうな鋭さで闖入者を睨みつけている相棒を静かに宥めた。
「ここで暴れたら、きっと、向こうも暴力で返してくる。レイリたちを傷つけたくない」
スカーレットは美しく煌く双眸に一瞬だけ怒りの炎を燃え上がらせると、唇を噛んで一歩下がった。
可愛い
誰も、手を出してはだめだと。
けれど、レイリを抱きしめるマルタの顔は蒼白だったし、熊とも素手で戦えそうな大きな身体は怒りでぶるぶると震えていた。皆、そうだ。屋敷にいる使用人たちは皆コニーの身を案じ、親の仇にでも会ったような表情を浮かべている。コニーの胸がぎゅっと痛んだ。
「コンスタンス・グレイルだな?」
部下を引き連れグレイル邸に押し入ってきた男は、ゲオルグ・ガイナと名乗った。曇り空のような切れ長の双眸に、薄い唇。くすんだ金髪を後ろに撫でつけている。ランドルフよりいくらか年嵩だろうか。
ガイナは懐から令状を取り出すと、愉しくて仕方がないというようにその薄い唇を捲り上げた。
「―――ユリシーズ・ファリス誘拐幇助の罪で貴殿を逮捕する」