8-11
※流血描写があります
ランドルフ・アルスターとその婚約者がグラフトン領の埠頭に向かったらしい。
モルダバイト宮の執務室で、王立憲兵局大尉のゲオルグ・ガイナからそう報告を受けたルーファス・メイは、腹の底が読めない穏やかな微笑みを浮かべていた。
「―――本当に目敏いな」
ややあってから落とされた恐ろしいほど静かな声に、ガイナの頬を冷や汗が伝う。弁解するように口を開いた。
「貴方から言われた通り、資料室に見張りをつけていて正解でした」
日頃から『貴族のお坊ちゃん』と揶揄されるガイナと、同じ貴族のくせに小賢しく立ち回るランドルフは折り合いが悪い。今回の件も、アルスター班の連中が【ジョン・ドゥ伯爵の夜会】の一件を嗅ぎまわっていると告げるだけで部下たちは何の疑問もなく従ってくれた。
だから、先回りして手を打つことができたのだ。
そもそもあの夜会はキアラ・グラフトンを殺害するために開催されたものだった。キアラは恋人に唆され組織の一員となったのだが、幻覚剤の乱用で精神的に不安定な状態が続いていた。なので、下手な動きをされる前に口を封じることにしたのだ。デボラ・ダルキアンの協力のもと摘発中の事故を装ったのだが、なぜかその場に居合わせたコンスタンス・グレイルがキアラを助けたために失敗に終わった。
それで今度は重傷を負ったキアラ・グラフトンに捜査の手が回らないようにしたというのに、やはりどうしてかキアラが【
「それで、状況は?」
あの
「全て貴方の計画通りに。潜伏先の倉庫にはすでに早馬を出してあります」
組織での姿は知らないが、ガイナの知るルーファス・メイは抜け目のない男だった。彼の立てる計画は常に完璧で、何か問題が起きた際の対応策まで詳細に決められている。今回のような
「パメラ・フランシスにも使いをやったかい?」
―――それは、つい先日に組織の連絡役から受け取ったばかりの伝言だった。領地で静養していたはずの件のご令嬢は今、王都に戻ってきているらしい。そして、あの厄介なコンスタンス・グレイルが万一ユリシーズ殿下の行方に気づき、動くようなことがあれば、必ずパメラにも伝えろというのだ。
ガイナにとっては真意を測りかねる不可解な内容である。
「ええ。そういう命令でしたので。今頃は、彼女もグラフトン領に向かっているはずです。ですが……」
そこでガイナは困惑した表情を浮かべた。
「意味が、あるのでしょうか。あの二人はおそらく生きて帰っては来られませんよ」
確かにランドルフは手練れだ。歴代のアルスターの中でも図抜けて優秀だったシモンの技術を受け継いでいる。けれど応援もなく、しかもお荷物である婚約者を抱えたまま窮地を切り抜けられるとは思えない。
ルーファス・メイは、その整った容貌にうっすらと笑みを浮かべてこう言った。
「物事に絶対はないからね。パメラは万が一の時の―――保険だよ」
◇◇◇
閃光は一瞬だった。どうやら直撃は免れたようだ。直前でランドルフが廃材の影に引っ張り込んでくれたおかげで怪我もない。まあ視界はぼやけているし、耳は膜を張ったようにじんじんと共鳴しているが。
「い、生きてる……」
ほっとしたのも束の間、今度はいくつもの銃声が頭上を飛び交っていった。コニーの身体がぎくりと強張る。
「―――どこからだ?」
コニーを腕に庇いながら、ランドルフが目を細めて周囲を一瞥した。スカーレットが間髪入れずに答える。
『さっき倉庫の屋根の上に人影が見えたわ! 三列目の左奥よ!』
「さ、三列目の左奥だそうです! 屋根の上……!」
叫びながらわずかに視線を向ければ、きらりと何かが反射した。
「あそこか」
ランドルフは顔を上げると躊躇いなく手にした拳銃の引鉄を引いた。続けてもう一発。振動がコニーの身体にも伝わった。屋根から狙撃手が落ちて行く。どさりと重い音を立てて地面に放り出された男はそれきり動かなくなった。
「待ち伏せされていたのか。もっと用心すべきだったな」
ランドルフが悔やむように呟くと、珍しくスカーレットが
『倉庫の中はもぬけの殻だった。慌てて出て行ったような有様だったわ。最初からバレていたのよ。自分を責めるより、身内を疑った方がいいんじゃなくて?』
コニーがその言葉を伝える前に、再び軽快な金属音が耳朶を打つ。
「……まだいるのか」
ランドルフは忌々し気に舌打ちすると、今度はコニーを腕から離して死角に置いた。驚くコニーに「そこを動くな」と身振りで伝えてから、物陰からわずかに身を乗り出して応戦していく。しばらくすると、こちらの様子を窺うように銃声がぴたりとやんだ。コニーは押し殺していた息をそろりと吐く。けれど事態が変わったわけではない。相変わらず
コニーが頭を抱えていると、ランドルフが口を開いた。
「俺が敵を引きつけておくから、君はその間に逃げるんだ」
「え……?」
「スカーレット、グレイル嬢を頼む」
ランドルフはそう言いながら拳銃の銃身を折って空の薬莢を捨てると、そのまま素早く新しい弾倉を装填した。
『はあ?』
スカーレットの形の良い眉が不愉快そうに跳ね上がる。もちろんランドルフには見えてもなければ聞こえてもいない。
つまり、言い逃げである。
ランドルフはこちらを振り返ることなく廃材置き場から飛び出した。次の瞬間、無数の弾丸がランドルフに向かって行く。コニーはひゅっと息を呑んだ。ランドルフは廃材や倉庫の影に回り込みながらそれらを器用に躱し、弾道を確認しながら正確に撃ち返していく。
「―――っ、閣下!」
しかし、すべてを避けることなどできるわけがない。捉え損ねた弾丸がランドルフの腕を掠めた。血飛沫が上がる。
気がついたらコニーは立ち上がっていた。そのまま閣下の傍に駆け寄ろうとして―――慌てた様子で前方に回り込んできたスカーレットがコニーを押しとどめた。ばちばちっと静電気が上がる。
『ちょっと落ち着きなさい! お前が行ったところで何ができるっていうの! ふたりまとめて的にされるのがオチよ!』
「でも、閣下が……!」
銃声は途切れない。ランドルフは今のところ上手く物陰に身を潜めているようだが、それもいつまで持つか。
「どうしよう、スカーレット……!」
泣き出しそうな顔で見上げれば、スカーレットは「うっ」と怯んだように一歩下がった。それからわずかに逡巡すると、諦めたように大きく溜息をついた。
『もう、仕方ないわね―――!』
怒ったような
◇◇◇
気がつけば、日はすっかりと暮れていた。黒い空に猫が爪で引っ掻いたような白い月が上っている。
さすがに王都では人目があるからだろう。デボラに連れて来られたのは郊外にある一軒家だった。血で汚れることを懸念してか室内には入ろうとせず、ルチアを立たせたまま庭先でナイフを取り出した。辺りは雑木林に囲まれており、悲鳴を上げても無駄だろう。
「―――恨むならアビゲイルを恨むのね」
デボラはルチアの耳元に口を寄せると囁いた。首筋に押し当てられた刃先に力がこもる。ぷつっと皮膚が切れる感覚があった。ルチアは覚悟を決めると瞳を閉じた。
「はい、そこまでー」
その時、場にそぐわぬ明るい声が夜の静寂を切り裂いた。
「おばはん、何やってんのさ」
おどけるような口調で告げたのはひょろりとした細身の青年だった。片手に大きな麻袋を背負っている。ルチアは思わず目を瞬かせた。
「……サルバドル?」
予期せぬ闖入者にデボラが動揺したように声をあげた。
「どうして、ここに」
「それは俺の台詞なんだけど。うちの中継所を勝手に使わないで欲しいなー。てか、どーせ考えなしにまっすぐここまで来たんでしょ? んで? 何人に見られた? ここもう使えないじゃん。俺、荷物届けに来ただけなのに仕事増えたじゃん。うーわ、めんどくさ。どう考えたってクリシュナに嫌味言われるの俺じゃない?」
「用を終えたら立ち去るわ。だから今は邪魔をしないでちょうだい」
吐き捨てるようにデボラが言えば、青年は「うーん」という気の抜けるような態度で首を捻った。
「普段だったらそうするんだけどね。あんたが逃げようが野垂れ死のうが俺の知ったことじゃないし。でもさあ―――」
そこでいったん言葉をとめて、へらりと笑う。
「俺ね、ガキは殺さない主義なの」
その言葉にルチアは驚いて、サルバドルと呼ばれた青年を見上げていた。
「だからさ、あんたは大人しく修道院に入っていてね。ついでに憲兵どもの注意を引きつけておいてよ。―――あんたにとっちゃここで死んだ方がマシかも知れないけど」
青年は軽い調子で言いながら、デボラの手首を捻り上げた。そのままぎりぎりと力を込めれば、からん、とデボラの手からナイフが地面に落ちる。凶器から解放されたルチアはさっと彼女から距離を取った。
「このっ……!」
ルチアが逃げたことに激昂したデボラが、サルバドルの頬を打とうと空いた手のひらを振り上げる。その時だった。
突然デボラの口から悲鳴が上がり、崩れるようにその場に
デボラの太ももに、ナイフが、突き刺さっている。
「別に、手足なんてなくていいんだよ? 心臓さえ動いていればね」
サルバドルはへらりと笑うと、垂直に生えていた
「ああでも聴取の時に余計なことをベラベラ話されても困るからなー。本当だったらよく回る舌を引っこ抜きたいところだけど、ガキのいる前じゃちょっとなー」
何でもないことのように告げられた内容に蒼白になったデボラは、壊れた玩具のように何度も首を振った。サルバドルは愉しそうに目を細めると、冷徹な声で命令を出す。
「―――修道院に着くまでに口が利けない程度に壊しておけ」
いつの間にかやってきた男たちが、デボラをずるずると引きずっていく。
彼女はこれからどうなってしまうのだろう。ぞくりと背筋が粟立った。青褪めるルチアに気がついたのか、サルバドルがまたへらりと笑う。
「あ、だいじょーぶ。あんたは帰してあげるよ。まだガキだし」
ほっとしていいのだろうか。ルチアが戸惑っていると、突然、押し殺したような声が耳元に飛び込んできた。
―――たすけて。
子どもの―――それも、男の子の声だ。思わず周囲を見渡したが誰もいない。そんなルチアを見て、目の前の青年は怪訝そうに首を傾げた。どうやら何も聴こえていないようだった。一瞬
たぶん、生きている。よくわからないが、そんな確信があった。
問題は相手がどこに隠れているかだ。おそらく、そう遠くないはず。そう思ってぐるりと視線を巡らせた。雑木林の中か、あるいは―――
その時ルチアはサルバドルが大きな麻袋を手にしていたことを思い出した。あれなら、子供ひとりなら難なく入るだろう。
きっと、あそこに、いる。
サルバドルは急に顔を強張らせたルチアを不思議そうに見つめると、少女の視線の先をゆっくりとなぞっていった。そして、その終着点にあるのが己が手にした麻袋だと気がつくと、困ったように苦笑した。
「―――お前、勘が良いね」
どくどくとルチアの心臓が早鐘を打つ。
「でも、これでこのまま帰すわけにはいかなくなった。―――さて、どうしたもんか」
そう言うと、夕陽のような赤金色の瞳が何かを思案するようにくるりと回った。