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8-8

 

 その男は、砂埃の立つ路地裏に敷布を広げて胡坐を掻いていた。


 どうやら香辛料や干した果物を売っているようだ。コニーは男に近づくと、すみません、と声をかけた。

「何を売っているんですか」

「何でもさ」

 応じた声はまだ若かった。これから食すつもりなのか、手にしたナイフで林檎の皮をするすると剥いていく。年の頃は二十代くらいだろうか。彼がキンバリーの言っていた()()なのかはわからない、けれど―――


「……焼いたワイン(ブランデー)も?」

 恐る恐る訊ねれば、露天商はゆっくりと顔を持ち上げた。ナイフを回す手を止め、「飲み方は?」と問いかけてくる。

「ソーダ水で」

 男は無言のまま立ち上がると、商品を陳列した敷布をそのままにしてコニーの肩に手を回した。

「行こう。この先に馬車がある」

「待って、キンバリーさんがまだ中に―――」

「優先事項は君の手の中だ」

 反論など許されないような意志の強い声だった。男は、愕然とした表情を浮かべて凍りつくコニーに気がつくと、宥めるように微笑んだ。


「大丈夫、増援を呼んである。それに、彼女は素人のお嬢さんじゃない。シモン・アルスターの教え子だ」



◇◇◇



 すっかり日の暮れた王都が憲兵総局の一室で、ランドルフ・アルスターは眉間に指を押し当て深く溜息をついた。


「―――ひとりで行動するなと何度言えばわかるんだ」

 全く以ってその通りである。コニーはしょんぼりと肩を落とすと、背中を丸めて謝罪した。

「ご、ごめんなさい……」

 するとすかさず己の辞書に反省という二文字を持たない悪魔が顎を逸らしてこう言った。

『あら、ひとりじゃないわよ。だってわたくしがついていたもの』

 どう考えても屁理屈である。コニーは慌てて人差し指を口元に持っていった。

「スカーレット、しっ! 閣下に怒られるよ!」

『ばかね、聞こえてないわよ』

「あ、そっか」

 ほっと胸を撫でおろしていると、間髪入れずに冷たい声が飛んできた。

「……だいたい何を言っているかは予想がつくが」

 ついでにじとりと半眼で睨まれて、コニーの顔からさっと血の気が引いていく。そのわかりやすい態度にランドルフは再び小さく嘆息した。


「―――君が持ち出してくれたエドモンド・パークの帳簿だが、やはり不正の証拠だった。これでサイモン・ダルキアンを更迭できる。上手くいけばデボラもだ。今カイルが上機嫌で令状の請求準備を進めている。あいつの鼻歌なんて数年前に南方の人身売買組織を撲滅させた時以来だな」


 おそらくランドルフなりにコニーを労ってくれているのだろう。けれど帳簿を無事に持って帰ることができたのはコニーの力じゃない。コニーはぎゅっと唇を噛みしめると、ずっと気にかかっていたことを訊ねた。

「その、キンバリーさんは―――」

「無事だ。腕を負傷して国営病院で治療を受けているが、数日ほどで退院できるだろう」

「よかったあああああ」

 安堵のあまり、へなへなとその場に崩れ落ちそうになる。そんなコニーを見ながら、ランドルフがぽつりと呟いた。

「……君も怪我はないか?」

 コニーはきょとんと目を瞬かせると、ぶんぶんと首を横に振った。ランドルフは相変わらずの無表情で「そうか」と告げると、そのまま立ち上がった。

「下に馬車を呼んである。玄関まで送ろう」


 〇


 ランドルフたちはこのまま夜を徹してダルキアン逮捕に向けた準備に当たるらしい。順当に行けば明朝にも令状が発行され、その足でダルキアン邸を包囲するつもりだと告げられた。

「もたもたしていたら、またどんな妨害が入るかわからないからな」

「そうですね」

 今までのことを思い起こして、コニーも深々と頷いた。

 そして、それきりお互い話すこともなくなり沈黙が落ちる。どうしよう、とコニーは一人焦っていたが上手い話題も浮かばず、無言のまま廊下を抜け、階段を下り、広い玄関が見えてきたところでようやっとランドルフが口を開いた。そういえば、と。

「昨晩、叔父から手紙が来たんだ。俺が望まないなら、リュシュリュワは継がなくてもいいそうだ。その代わり、もっと顔を見せに帰ってこいと」

 おそらくミレーヌが言っていた一件だろう。思い当たる節があり過ぎてコニーは顔を引き攣らせた。

「ええと、その、うちの父が、リュシュリュワ公に色々と失礼を……」

「失礼?」

 ランドルフはきょとんと首を傾げた。

「どちらかと言えば、無理を通そうとしたのは叔父の方だろう。……でも、これでようやくあの人も責務という呪縛から解放されるな」

 その瞳は何か眩しいものでも見るかのようにわずかに細められていて、どうしてかコニーの胸がぎゅっと締めつけられた。


 ―――なら、閣下は?


 けれど臆病なコニーは、その問いを声に出すことができなかった。急に黙り込んでしまった相手に気づいて、ランドルフが顔を傾ける。

「どうした?」

 こちらを映す紺碧の双眸は、やはり凪いだ海のように揺らぐことがない。

 その事実にコニーは一瞬だけ息をとめると、なんでもありません、と小さく首を振った��だった。



◇◇◇



 ほどなくしてサイモン・ダルキアンは公文書偽造の罪に問われ収監された。妻であるデボラは偽造に関与した証拠がないとして不起訴処分だ。といっても彼女自身も禁止薬物の密輸や人身売買の幇助など本件以外の余罪が明るみになったため、ひとまずは王都郊外にあるルドルフ修道院に移送される運びとなった。



「―――ってことは、これで【暁の鶏(ダェグ・ガルス)】は最大の後ろ盾をなくしたってわけだ」


 オブライエン邸の応接間。豪奢な長椅子カウチの背もたれに行儀悪く腕を回したサンが、そう言ってあくどい笑みを浮かべていた。

 この場に集まっているのはコニーの他に、例のファリスからの客人であるサンとエウラリア、それに屋敷の女主人であるアビゲイルである。

 サンの発言に、紅茶に口をつけていたアビゲイルが首を傾げた。

「セシリアは? 彼女は王太子妃よ」

「そりゃあ多少使えるだろうが、ダルキアンほどじゃない。下手に動いて民衆からの支持がなくなったら意味がないからな。あの女の役割は主に後方支援だ。例えば、連絡役の商人から指令を受け取り、それをダルキアンのようなモグラに伝えたりするような。彼女の身分なら上級貴族と接触してもまず疑われることがないだろうし。―――ユリシーズの誘拐を手伝ったのも十中八九セシリアだろう」

 ユリシーズが誘拐された日、エルバイト宮にはセシリア妃が懇意にしているバドという商人が出入りしていた。

 それも、子供一人が入るような大きい葛籠を背負って。

「問題は、サイモン・ダルキアンがどこまで知ってるか、だ」

 今日コニーたちが顔を揃えたのは、他でもないユリシーズ殿下の行方を探るためだ。

「ところで、ファリスの動きは?」

 アビゲイルの問いに、サンが答えた。

「今のところは変わらない。第二王子ロドリックは相変わらず引き篭もって表には出て来ないし、第四王子テオフィリスはすでに次期国王気取りで取り巻きたちと戴冠式の日取りを決めているらしい。ついでにアリーは二週間後には火炙りだ」

 他の王子たちはすでに継承権を放棄する申し立てをしているらしい。そこでエウラリアが口を挟んだ。

「第二王子も放棄したいようですが、さすがに周囲がそれを許さないようです」

 つまり、黒幕は第四王子であるテオフィルスとその側近たちということか。作戦が始まったのが十年前だということを考えると、主犯は側近の誰かで、その人物が王子を唆したのかも知れない。

 アビゲイルが険しい表情のまま口を開いた。

「……こんなことは言いたくないけれど、第七殿下が誘拐されてから一月ひとつきが経とうとしているわ。その、彼が、もう亡くなっているという可能性も考慮しなければいけないんじゃない?」

 それは、きっと誰もが一度は考えたことだ。思わずその場にいた全員が黙り込んだ。誰も一声も発することができずに、重苦しい空気に包まれる。

 すると、どこからともなく人を小馬鹿にするような嘲笑が降ってきた。

『あらあら。揃いも揃ってお馬鹿さんばかりなのねえ』

 そんな罰当たりな人間などもちろん一人しかない。コニーがぎょっとして顔を上げると、スカーレットは沈み込む四人を天井付近で見下みくだしながら、空中で優雅に足を組み直していた。

『死んでいるわけないじゃない。ファリスは戦争を起こしたいんでしょう? 子どもを始末したなら、これ見よがしに死体を飾り立てるわよ。死体が見つかってないってことは生きているに決まっているわ。……でも不思議ね。どうして()()()()()()()()()()

「ちょ、なんてこと言うの……!」

 うっかり耳に入ってきた非道な発言を聞き逃すことができず、コニーは思わず拳を握り締めて立ち上がった。

「ど、どうした、聖杯の娘」

「いやスカーレットが―――」

「うん?」

 サンの怪訝な表情に、コニーは、()()と我に返った。ゆっくりと周囲を見渡せば、サンの隣ではエウラリアが呆気に取られたようにこちらを見上げているし、向かいの席ではアビゲイルが「あちゃー」という表情を浮かべている。

 コニーはこほんと咳払いをすると、そのままソファに座りなおした。

「ええと、その……ひ、ひどいことを、思いついちゃったなあ、と」

「ひどいこと? 思いついたことがあるのなら教えて欲しい。何かのヒントになるかも知れないから」

 そう言われてしまえば、断ることは難しい。コニーは少し躊躇ってから先ほどのスカーレットの言葉を告げた。

 するとサンは驚いたように目を見開いた。

「……確かにそうだ」

「へ?」

「今まで、奴らが行動を開始するのは使節団が帰還してからだと思っていたが、手元に置く時間が長引けば長引くほど危険リスクが高まる。言葉は悪いが、どうしてさっさと始末しないんだ?」

 サンの言葉に、エウラリアも何かを考え込むように顎に手を当てた。

「……サン。確か今回の視察はもともとユリシーズ殿下ではなく、ジェローム殿下が来る予定でしたよね」

「ああ。直前になってケンダルがジェロームを嵌めたんだ。ユーリには後ろ盾がない。ケンダルはああ見えて面倒見がいいし、物心ついた頃からあの子の教師をしていたから身を案じたんだろう」

「つまり、【暁の鶏(ダェグ・ガルス)】にとっても予定外の出来事だったのでは?」

 そうエウラリアが問いかけると、サンは小さく舌打ちをした。

「―――そうか。殺さないのではなく、()()()()のか」

「ええ、おそらくは」

「……どういう意味かしら?」

 コニーは急すぎる二人の会話についていくのが精一杯だったが、アビゲイルはある程度の事情を呑み込んだのか、自ら会話に参加していた。

「ユーリの母親であるカレンはソルディタ共和国の出身なんだ。彼女は直系ではないがコーネリアの系譜だ。そしてユーリは兄弟の中で最も青みがかった紫の瞳(ロイヤル・カラー)を持っている。……その血に目をつけた祖国の連中が、今度はあの子を祀り上げようとしていたとしたら? かつてのスカーレット・カスティエルのように。アデルバイドではなく、ファリスの新王として」

 コニーは小さく息を呑んだ。

「となると【暁の鶏(ダェグ・ガルス)】を雇ったのはテオフィルスじゃない。奴であればユーリをすぐに殺すだろう。あの子をわざわざ王位に就かせる必要なんてないんだ。あいつ自身がすでに高貴なる血統の持ち主なのだから。むしろ傍系とは言え星冠の血を引くユーリなんて邪魔でしかない。……ああ、愚かだったな。王子が皆、王になろうとしているとは限らない。それよりも傀儡の王を立て実権を握る方がよほどたやすいこともあるというのに。それに、最初から玉座を放り投げてしまえば疑われることもない。今までさぞ動きやすかったことだろうさ」

 サンは一瞬だけ悔いるように目を伏せると、すぐさま立ち上がって「すぐに本国に報せなければ」と告げた。


「敵は第四王子テオフィルスじゃない。―――第二王子ロドリックだ」



◇◇◇



 薄暗い室内で三十ほどの痩躯の男が背中を折り曲げ、くつくつと笑っている。

「もうすぐだ」

 ファリス王宮内の離れのひとつ。身分の低い側妃であったアンナが賜った小宮は、妃の死後は息子である第二王子の居室となっている。そして勢力争いに疲れた王子はすでに心身を喪失しているという噂が広がり、今や誰も近づかない。


 ―――()()以外には。


「愚かなテオフィルスは己が裸だということに気づいていないようだし、厄介なアレクサンドラは太陽を拝めないまま丸焼きだ。ユリシーズはだいぶ弱っているようだね。ファリスに戻って来た時に反抗しないよう今のうちに恐怖心を植え付けておこうか。ただし、見えるところに傷はつけるな」

 血のように赤い液体の入ったワイングラスを傾けながら、ロドリックは唇を捲り上げた。

「それと、報告書を読んだよ。下級貴族の小娘が色々と嗅ぎまわっているそうじゃないか」

「手は打ってある」

 答えたのは壁にもたれかかっていた大柄な男だ。()()()()()()()()()()。ロドリックはよく知らない。今彼が手にしているものは、すべて、アンナから譲り受けたものだ。身分の低かった母はその美貌と体を使ってロドリックを守ってくれた。開戦派の宰相もその一人だ。今は表向きテオフィルス派に回っているが、実際にはロドリックの手の者である。彼もまた、母の愛人のひとりだった。

「ならいいけど。ちゃんと手練れを用意しただろうね」

 ロドリックが問えば、男はゆっくりと頷いた。


「ああ。百の顔を使い分ける優秀な男だ」





◇◇◇





 どうして、こんなことになったのだろう。


 少女はぼんやりと寝室の天井を見上げていた。

 今日は新しい医師がやって来る日だ。心の病を治す名医なのだと侍女のメリッサが言っていた。父はまたどれほどの金を積んだのか。醜聞を気にしてか、溺愛する末娘を思ってのことか。別に、どちらでもいいが。

 ばかばかしい、と少女は歪な笑みを浮かべた。



 ―――侍女に連れられ現れた医師とやらは腰の曲がった老人だった。少女は寝台から起き上がることもせずに年老いたその人物を一瞥した。

 老人は、ジェームズと名乗った。

 彼はまず傍に控えていた数名の侍女を下がらせた。そうしないと信頼関係が築けないと言って。相手が見るからに弱々しい老人だったためか、彼女たちも素直にその言葉に従った。もちろん会話が聞こえない程度に離れるというだけで、何かあった時にすぐに駆けつけることができるように室内にはいたが。



「安心しましたよ」

 人の好さそうな笑みを浮かべながら、ジェームズ医師は口を開いた。

「あなたの心は壊れていない。ただ用心深く鍵をかけているだけ。そうでしょう?」

 少女はこれまで何人もの医師にしてきたように何も答えなかった。虚ろな表情のまま人形になっていれば、どんな名医もやがては諦めて立ち去るのだ。

 けれど、今回の老人は違った。

「復讐を、したくはありませんか?」

「……ふく、しゅう?」

 ふいにジェームズと名乗る医師の声音が変わった。老人のようにしゃがれたものから、若い男のものに。

「ええ。貴女をこんな目に遭わせた―――コンスタンス・グレイルに」


 コンスタンス・グレイル。


 その名を聞いた瞬間、体中の血管が沸騰したかのように熱くなった。

 気がついたら少女は体を起こし、掴みかかるようにして老人を睨みつけていた。

「どういう、意味よ」

「落ち着いて。私は貴女の味方ですよ。―――()()()()()()()()


 そう言って満足そうに微笑む男は、大変珍しいことに瞳の中に二連の黒斑を持っていた。


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