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 その食堂は【山羊のくるぶし】というらしい。


「変な名前……」

 コニーが微妙な表情を浮かべていると、スカーレットが教えてくれた。

『ああ、多分それ、賽子サイコロの隠語よ。象牙や鹿の角を使ったものは高価だから、庶民たちは羊や山羊の骨を代用していたと聞くわ。昔の話よ』

 つまり、遊び慣れている者が屋号を見ればすぐに賭博場だとわかるのだろう。


 城下から離れた北の一画。少し歩けば王都を南北に縦断するヌェル河に架かる橋があり、対岸には貧民窟がある。そのせいかどうかはわからないが、治安もあまりよろしくないようだ。まだ陽も高いというのに、そこらかしこで酒と煙草と()()()腐ったような匂いがしているし、大通りには目を覆いたくなるような猥雑な店が軒を連ねている。

 さすがのミレーヌも此処には足を運ばず情報屋を雇うと言っていた―――というのに。



『ここが例の店ね』


 腰に手を当て堂々と宣言するスカーレットを前に、コニーは両手で顔を覆って静かに項垂れていた。


 どうしてこうなった。


『さ、入るわよ―――って、なにふざけてるのよ』

 ミレーヌと別れたのはほんの数刻前のことだ。情報屋なんて待ってられない、奴らの行動を先回りしないと、と主張するスカーレットに急かされてやってきたはいいものの、いざ店の前までやって来て気がついた。ここからどうしよう。馬鹿正直にエドモンド・パークについて訊ねたところで教えてもらえるわけがない。せいぜい簀巻きにされて目の前のヌェル河に沈められるのが関の山である。

 スカーレットは『わたくしに任せなさい!』と胸を張っていたけれど、煌びやかな社交場ならともかく、こんな挨拶代わりに火種が燻っているような場所では彼女の態度は火に油ではなかろうか。むしろそのまま爆発する未来しか見えない。

 頭を抱えていると、後ろから声を掛けられた。

「……あなた、こんなところで何をやっているの?」

 ぎくりと肩を震わせて振り向けば、地味で小太りな女が立っていた。この辺りで暮らす人間だろうか。首を捻っていると、スカーレットが怪訝そうな声を上げた。

『キンバリー・スミス? どうしてこんなところに―――』


 ―――キンバリー・スミス?


 目の前の女は浮浪者でこそないが、肌はところどころ煤けているし、衣服は襤褸雑巾のようだし、それより何より―――

「ピンクじゃない……!」

 すると女は意外な言葉でも聞いたかのように軽く目を見張り、「あら、思ったより鈍くないのね」と呟いた。それを聞いたスカーレットが、誰かさんを小馬鹿にするように鼻を鳴らす。コニーはこほんと咳払いをした。


「で? 一体何をやっているわけ? ここは世間知らずの貴族のお嬢さんが気軽にお茶をしに来るような場所じゃないわよ」

「う、いや……その……」

 コニーが目を泳がせていると、小さな溜息がひとつ。

「いやだもう、狼の群れに迷い込んだ栗鼠にそっくりじゃない。―――仕方がないわね、ついて来て」


 そう言うと、キンバリー・スミスはいともあっさり【山羊のくるぶし】の扉を開いたのだった。



◇◇◇



 昼下がりだというのに店内は薄暗かった。客は多くないが、皆、見るからに柄が悪い。入ってきたのが女二人だとわかると口笛を吹かれ、じろじろと好奇の目を向けられた。

 怯むコニーを尻目に、キンバリーは迷う様子もなく、さして広くもない店内を進んでいく。すると行く手を阻むように見上げるほどの大男が現れた。

 射貫くような視線とともに、「注文は?」と愛想のない声が降ってくる。

「骨付き肉を」

「うちのはだいぶ大きいよ」

「なら、切ってもらおうかしら」

「……切り方は?」

 キンバリー・スミスはそこでようやくわずかに口の端を持ち上げた。

「―――裏と表が足して七つになるように」

 男が目を眇め、頭のてっぺんから爪の先までじっくりとキンバリーを観察する。それからあっさりと肩を竦めた。

「すまんな、まだ()が足りてないんだ」

「なら別にいいわ。今日は友人の()()()()()を受け取りに来ただけだから。エドから聞いたわ。預かってくれていたんでしょう? ほら、鍵もある」

 彼女が懐から小指ほどの何かをちらりと見せれば、男は何かを考え込むように眉を寄せ―――小さく頷いた。

「こっちだ」

 顎で促され、L字になっている木製のカウンター内に連れて行かれる。狭い通路の床には取っ手付きの収納庫が備え付けてあった。男が蓋を持ち上げれば食料ではなく地下へと続く階段が現れて、コニーは目を見開いた。

 男とキンバリーに先導され恐る恐る降りた先にあったのは、地上とは打って変わって豪奢で洒落た内装の広間だった。ただし、人の気配はない。円卓がいくつかあり、それぞれの台にカード賽子サイコロが置かれていた。おそらくここが賭博場なのだろう。

 奥には貴賓室もあるようで、そのうちのひとつに案内され、ここで待つようにと告げられた。



 キンバリー・スミスは酒瓶の並ぶ備えつけの棚から勝手にグラスを取り出すと、琥珀色の蒸留酒を注いでいった。

「それで、エドモンド・パークの件で来たの?」

「は、はい」

「情報は誰から?」

「その……友人、です」

「筋が良い子ね」

 そう言うと、笑いながら蒸留酒を傾ける。場の緊張感が緩んだ気がして、コニーは口を開いた。

「助けてくださって、ありがとうございます」

「仕方ないわよ。だってあなた、ランドルフ・アルスターの婚約者でしょう?」

 キンバリーはグラスを回しながら、つまらなそうに頬杖をついた。

「私も、アルスターに縁があるのよ」

「へ?」

「アルスターが何を意味するか知っている?」

 キンバリーの質問は唐突だった。意味するも何も、アルスターとはリュシュリュワ家の有する従属爵位のことではないのだろうか。疑問が顔に出ていたのか、キンバリーはグラスを置くと、コニーの耳元に唇を寄せて囁いた。

「―――アルスターはね、王家の外敵を始末する執行人のことよ」

 まあ公にはされてないけど、と告げる口調はあっさりしていたが、内容は物騒である。コニーはそのまま凍りついた。

「そういう意味では、私もアルスターのひとりね。組織というには数が少ないけれど、代々リュシュリュワ家の人間が長を務めることになっているの。ああ、でも、ルウェインの時代はアルスターを擁立しなかったわね。当時はシモンがまだ現役だったから。今は知っての通りランドルフがアルスターを継いでいるわ。リュシュリュワ家でもこの事実を知るのは、当主と、アルスターを継ぐ人間だけよ」

「執行、人……?」

 うまく頭が回らない。目の前のキンバリーは「ええ」と肯定するとまた蒸留酒を仰いだ。

「つまり、王族お抱えの工作員ってわけ。といっても何十年も昔の話よ。今はわざわざアルスターを使わなくても王立憲兵局があるもの。特にエルンスト王の時代になってからは裏の顔としてのアルスターは形骸化されたわ。それがファリスにつけ込まれた要因の一端ではあるし、平和惚けと言われればそれまでだけど。ランドルフにしたって工作員としての訓練は受けたけど、今は総局に属する人間だもの。なのにあんなに因習にとらわれてるのはシモンの教育が悪かったのね、きっと」

 何となくだが、理解した。きっとランドルフがリュシュリュワを継ぎたくないのも、結婚したくないのも、これが原因なのだろう。しかし―――

「どうして、そんなことを教えてくれるんですか?」

 そこまで知っているなら、キンバリーはコニーとランドルフの婚約が偽装だということも分かっているはずだ。

「……シモン・アルスターって男はとんでもない頑固者でね」

 その言葉は、またもや唐突だった。

「あのクソジジイ、こちらの心情なんてお構いなしに一人ぼっちで死にやがったの。けっきょく私は最後までアルスターの呪縛には勝てなかったってわけ。でもあの人の葬儀を終えた時、こうも思った。もしかしたら、私は最初から戦おうとすらしていなかったのかも知れないって。相手が望まないからとそれ以上踏み込むこともしなかったのだから」

 そこでキンバリーは一端言葉を切った。それから楽しそうにコニーの顔を覗き込んでくる。

「ほら、あなたって空気を読まないでしょう?」

「ん?」

「嘘は下手だし、思っていることもすぐに顔に出るし」

「んん?」

「放っておこうにも、こちらが頭を抱えるような頓珍漢な行動力を見せてくるし―――」

「んんん?」

 もしやこれは悪口だろうか。ならば受けて立つべきかと真剣に悩んでいると、先ほどの男が戻ってきた。手には帳簿のようなものを持っている。


「……なあ、こいつ、殺されたんだろう? 実は処分に困ってたんだよ」

 周囲を窺いながら()()をキンバリーに手渡すと、男はおどけるように手のひらを見せた。


◇◇◇


 地上に戻ると、店内は先ほどより幾分か賑やかになっていた。そういう時間帯なのだろうか。やはり集まってくるのは柄の悪い男ばかりのようだが。

 キンバリーはそのまま帰るのかと思いきや、入口から離れた奥のテーブルに腰掛け麦酒をふたつ注文した。

「え、あの、私、お酒は―――」

()()()()だって!? 信じられないね、まったく―――」

「はい!?」

 何の話だと声を上げると、テーブルの下からそっと何かを渡された。確認しようとすると鋭い声が飛んでくる。「下を見ないで。目線はこちらに向けたまま手提げにしまって」

 その台詞に、帳簿だ、と気がついた。思わず息を呑んでキンバリーを見る。彼女は穏やかに微笑んでいた。

「私が手助けできるのはここまでよ」

「え?」

「店の突き当りに裏口があるから、用を足しに行く振りをしてそのまま出て行って。迎えを寄越してある」

 コニーは目を瞬かせた。

「露天商に扮しているはずだから、見つけたら売り物を訊ねて。符牒は『焼いたワイン』と『ソーダ水』よ」

「キンバリーさん、は……?」

()()()()()()()()

 キンバリー・スミスは口の端を吊り上げ、店内をぐるりと一瞥した。スカーレットも目を細め、『確かに、こんなしなびた店に急に客が増えるわけがないものね』と嗤う。


 つまり、増えた客の正体は―――


「私一人なら何とかなるわ。足手まといは必要ない。―――わかったら、とっとと便所に行ってきな! 麦酒の泡が消える前に戻ってくるんだよ!」

 それでも躊躇っていると、スカーレットから『自分の足で歩くか、わたくしに()()()()()か、好きな方を選ばせてあげるわよ』と脅されて、のろのろと立ち上がった。

 去り際に、一声だけ掛けられる。

「私ね、アルスターが途方に暮れることがあるなんて思ってもみなかったのよ」

 かちりと撃鉄を起こす音がする。

「だから―――ジュニアをよろしくね」


 ―――コニーはぐっと唇を噛みしめると、振り返ることなく前に進んだ。

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