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現リュシュリュワ公にしてランドルフ・アルスターの叔父であるダヴィズ・リュシュリュワがグレイル領にやってきたのは、
事前に書簡でのやり取りがあったとはいえ、大貴族の訪問という一大事に領内は静かな緊張に包まれた。とりわけ気を揉んだのは屋敷の使用人たちで、彼らは王都から取り寄せた最新の
実際に手紙を交わし、多少なりとも相手の人柄を知っていたパーシヴァル=エセルは「そこまでしなくても大丈夫じゃなかろうか」とやんわりととめたのだが、「旦那さまの大丈夫が大丈夫だった試しがない」というひどく冷たい視線とともに一蹴された。解せぬ。
ダヴィズ・リュシュリュワは、実兄であるルウェインが事故で亡くなるまではリュシュリュワ領の教会に籍を置いていたという。
だからなのか、彼は下級貴族であるエセルのことも対等な個人として扱ってくれる。今回の件だって、別にわざわざ面倒な手順を踏んでグレイル領を訪れずとも、書面で済ませてしまうことだってできたはずだ。けれど他ならぬダヴィズ自身がそれを良しとしなかったのだ。まるで謹厳実直を絵に描いたような人間で、おそらく彼は多少無作法があっても、それが故意でなければ気にしないだろう。ただ、ひとつだけ難点があるとすれば―――
「確かに私にも子がいます。けれど、リュシュリュワの地はやはりランドルフが継ぐべきだと思うのです。それが物事のあるべき姿だとは思いませんか? そうでなければ志半ばで神の御許に旅立ってしまった小さなオーウェンがあまりに可哀想ではありませんか。兄上にだって面目が立たない」
「はあ」
この男、話が、長い。
「ああ、誤解なさらないでください、もちろん兄は許してくれるでしょう。怖いのは顔だけで実際は誰よりも優しい人でしたから。本当に恐ろしいのは天使の皮を被った悪魔―――いえ間違えました、心優しき
「はあ」
「ランドルフはどうしてもリュシュリュワを継ぎたくないようです。領地にもほとんど帰ってこないし、手紙の返事だってくれないし、昔は叔父上叔父上とあんなに懐いてくれたのに……思春期の娘を持つ父親ってこんな気分なのかな……」
「はあ」
かれこれ小一時間ほど同じ内容を語られている。侍女が細心の注意を払って淹れた紅茶はすっかり冷えてしまっているようだ。
「―――私は、あの子にリュシュリュワを継いで欲しいのです」
ふいに声が真剣さを帯びた。
「ご息女に問題があるわけではありません。もちろん、子爵令嬢が公爵夫人になれないわけでもない。けれど、それは茨の道だ。もし貴公が望むなら伯爵以上の相手を紹介致しましょう。貴公やご息女にとって最良の選択をして頂きたい」
エセルはぽりぽりと頬を掻いた。つまり、こういうことだろうか。ダヴィズはランドルフを領主にしたい。けれどいくら前領主の息子とはいえ、ランドルフはあまりに長く領地を離れていた。ダヴィズはもちろん、彼の息子も優秀だと聞くし、領民の反発もあるだろう。穏便に代替わりをさせるには、領地の有力者と婚姻を結ぶのが一番なのだ。貧乏子爵家の娘などではなく。
目の前にいるのは十年以上も公爵として領地を治めていた男だ。物騒な手段を取ろうと思えばいくらでもできただろう。ダヴィズがそうしなかったことにエセルは素直に感謝した。
ただし、それだけだ。
「リュシュリュワ公」
パーシヴァル=エセル・グレイルは、まるで外の天気でも告げるような気安い口調でこう言った。
「それは全く以って―――
◇◇◇
―――という顛末をコニーが聞かされたのは、シモン・アルスターの葬儀を終えてから数日後のことだった。
「え? 知らなかったの?」
ゴシップ好きのミレーヌ・リースは、そう言うと目を丸くさせた。
グレイル邸の応接間。
冷えた檸檬水を啜る手をとめ心の底から驚いた様子の友人に、コニーはじっとりとした目線を送った。もちろん八つ当たりである。
だってそんなの聞いてない。
「なんかそのまま殴り合いの喧嘩になって夕陽を背景にお互い号泣しながら抱き合って最終的に義兄弟の契りまで交わしたって聞いたけど……」
「なにそれこわい」
父であるエセルはよく言えば大らか、悪く言えば大雑把だ。むしろ九割方大雑把で出来ていると言ってもいい。
考えなしの癖に頑固だし、貴族の癖によく口を滑らすし、その癖妙な度胸と行動力があって―――要するに、基本的にポンコツなのである。平凡な見た目こそ受け継いだが、あの厄介な性格だけは父に似なくてよかったと心底思う。胸中で三女神に感謝を述べていると、視界の片隅でスカーレットが『父親に似たのね』と何度も頷いていた。解せぬ。
それにしても、とコニーは嘆息した。
傍から��れば、やはりランドルフとコニーの婚約はちぐはぐなのだろう。ランドルフ・アルスターは大貴族の血を引いていて、背も高くて、顔立ちも精悍で、仕事だってできて、少しおっかないけれど真っすぐで懐の広い性格だ。こちらが困っていたら絶対に助けてくれる。欠点など思いつかない。みんなが頭を抱える斜め上のところだって―――ちょっとだけ、可愛いと、思う。
対してコンスタンス・グレイルときたら、貴族とはいえ後ろ盾のない貧乏子爵だし、ちんまりしているし、顔も平凡だし、鈍臭いし、スカーレットは憑いているし、すぐに厄介ごとに巻き込まれる。閣下の
いくら能天気なコンスタンス・グレイルだって、まさか永遠にこの時間が続くとは思っていなかった。もともと打算で始まった関係だ。他ならぬランドルフ自身がそう言っていたのだ。だから、近い将来にきっと解消される。
―――なら、いつまでこうしていられるのだろうか。
そのことを考えると、コニーはどうしてか心臓がぎゅっと締めつけられるような気持ちになるのだった。
「どうしたの?」
いつになく沈んだ様子のコニーに、ミレーヌがこちらを案じるような表情になる。コニーは慌てて笑顔を貼りつけた。
「ううん、なんでもない。父さまをどうやって懲らしめてやろうか考えていただけだから……! ミレーヌこそ、仕事の方はどうなの?」
女性記者を目指す友人は大手出版社に売り込むための記事を書いているのだという。話を振れば、ミレーヌは、ああ、と破顔した。
「今はエドモンド・パークの不審死事件を追ってるのよ」
「エドモンド・パーク?」
「数日前に路地裏で他殺体として見つかった会計事務所の所長よ。最初はただの物盗りかと思ったんだけど、どうにも怪しいのよね。憲兵総局も動いているし。仕事絡みの犯行だとすると、顧客にいるのはレイヴン商会とか聖ニコラス病院とか―――」
『なんですって?』
その瞬間スカーレットが眉を吊り上げ、コニーは、はっと息を呑んだ。
「聖ニコラス病院? キャンベル伯爵が経営していたっていう?」
ミレーヌの言葉を遮って詰め寄れば、彼女は驚いたように目を瞬かせた。
「え? ええ。エドモンド・パークとキャンベル伯爵は賭博仲間だったらしいわよ」
「……その人、市民団体の経理とかやってた?」
「ああ、すみれの会のこと? よく知っているわね」
知っているもなにも―――
「事務所には総局の立ち入りがあったみたいだけど、めぼしいものは見つかってないみたい。自宅も空振りらしいわ」
そう語るミレーヌはちっとも残念そうではなかった。それどころか、今にも踊り出しそうなその表情は、彼女が『生涯の天敵』と宣言していた底意地悪いピューリック夫人の浮気現場を押さえた時のものにそっくりである。
コニーは、じっと友人を見つめた。するとミレーヌは
「実はね、エドモンド・パークが贔屓にしていた賭博場があるみたいなの。表向きは大衆食堂らしいんだけどね―――きっとそこに何か手がかりがあるはずよ」