8-5
「聖ニコラス病院か」
ランドルフが持ってきた報告書に目を通しながら、デュラン・ベレスフォードは苦々しい口調で呟いた。
「お前それ、セシリア妃が絡んでたらかなり厄介だぞ」
「どちらかというとその前です」
「……ああ。カルヴァン・キャンベルの代になってから税務調査が何回か入ってんな。いずれも問題なしってことみたいだが―――」
デュランは書類から目を離すと、おもむろに頬杖をついて皮肉気に口の端を歪めた。
「統括責任者が、全件、サイモン・ダルキアンときた」
「ええ」
「疑ってくれと言わんばかりだな」
「十中八九そうなのでしょう」
ランドルフの答えに、デュランは鼻で笑いながら再び目線で資料をなぞっていく。
「まあ、決定的な癒着があるとすれば病院から依頼を受けた会計事務所だろうな。……エドモンド会計事務所か」
「その件ですが、所長のエドモンド・パークはここ数日姿を消しています」
「何かを察したか、それとも口封じにでもあったか。いずれにせよ、早急に行方を追う必要があるな」
ランドルフは頷き、そのまま退出するため一礼をして踵を返す。
「―――そういえば、シモン・アルスターが亡くなったそうだな」
その言葉に、ランドルフは扉に伸ばしかけていた手をいったん止めた。
「……ええ、一昨日に。数年前から肺病を患っていたものですから」
「そうか。お悔みを申し上げる。それで、葬儀はいつだ?」
ランドルフはゆっくりと振り返ると、簡潔に返答した。
「これからです」
思ったよりも早かったのか、デュランは一瞬驚いたように目を見開いた。
黒を基調とした軍服は礼服としても通用するだろう。部下に指示を出したらその足で葬儀に参列するつもりでいた。
「ひとりで行くのか?」
質問の意図がわからず眉を顰める。するとデュランは呆れたように溜息をついた。ランドルフはますます訝し気に顔を歪める。身内の不幸だ。いったい誰と―――
誰と、一緒に行けと、言うのだろう。
◇◇◇
「アルスター少佐」
身支度を整えていると、部下のひとりから声を掛けられた。「ご領地から、早馬が」
恐る恐る告げてくる相手の手元を見れば、リュシュリュワの印章の入った郵便を携えている。おそらく、いつもの定期便だろう。ランドルフが軽く眉を顰めると、部下はびくりと肩を震わせた。仕方がないので礼を言って受け取ると、そのまま下がらせる。手紙は封を切ることなく軍服にねじ込んだ。
しばらくしてやってきたのはカイルだ。
「ランドルフ、お前これからどっか―――って、ああ、シモンのじーさんの葬儀だっけ。……ん? まさかお前、ひとりで行くの?」
「……何か、不都合でも?」
思いのほか剣呑な声に、カイル・ヒューズは引き攣った笑顔のまま「イエ、何でもないです」と首を横に振った。
これではただの八つ当たりである。ランドルフは小さく嘆息すると「夕刻には戻る」と告げてその場を後にした。
外に出れば、生温い風が肌を撫ぜていく。空は鉛を張ったようにくすんでいた。ランドルフは呼びつけていた馬車に乗り込むと、先ほど受け取った手紙を開く。差出人は叔父である現リュシュリュワ公だ。そこには故人を悼む形式的な挨拶と、いつもと変わらずランドルフを次期当主に望む言葉が書かれている。
予想通りの内容をざっと目にすると、ランドルフは再びそれを懐にしまった。
◇◇◇
「久しぶりね、ジュニア」
シモン・アルスターの葬儀は至って模範的に終了した。
参列者の声がしなくなった墓地はひどく静かだった。シモンの墓碑の前に佇むランドルフに声をかけてきたのは、ふくよかな体形の中年婦人だ。
つばのないヴェール付きの帽子を被り、顔の半分を黒のレースで隠してはいたが、その相手には見覚えがある。
「……マダム・スミス?」
ランドルフは思わず目を瞬かせた。まさか彼女がこの場に来るとは思っていなかった。疑問が伝わったのだろう、婦人は困ったように苦笑した。
「お礼と謝罪が言いたくて来たのよ」
【マダム・スミス】と言うのは彼女と出会った当時の通称である。今はキンバリー・スミスと名乗っているこの女の本当の名をランドルフは知らない。大叔父の教え子だったというが、はるか昔の話だ。面識も数えるほどしかない。
コンスタンス・グレイルは以前『すみれの会』から抗議を受けたと言っていたが、おそらくそれも探りを入れるためだったのだろう。コンスタンスは、マダム―――キンバリー・スミスから【ジャッカルの楽園】について訊ねられたと言っていた。
「あなたの可愛い婚約者のお陰でうちの庭に紛れ込んだドブネズミを一匹捕まえることができたんだけど、でも、ごめんなさいね。こちらの予想よりも巣穴が深かったみたい」
マダム・スミスはそう告げると辺りを窺うように声を潜めた。
「―――ネズミの名前は、エドモンド・パーク。すみれの会の青年部の経理担当で、聖ニコラス病院の
エドモンド・パーク。つい先刻前にデュランと話していた会計事務所の所長である。ランドルフはわずかに視線を鋭くすると小さく頷いた。婦人は満足気に目を細め、次の瞬間、「あら?」と首を傾げて周囲を見渡した。
「あなた、ひとりで来たの?」
今日何度目かの言葉にランドルフは無表情のまま目の前の女を睨んだ。デュランといいカイルといいマダム・スミスといい、揃いも揃って一体何なのだ。
ランドルフの態度から何かを悟ったのか、マダム・スミスが「馬鹿な子ね」と呆れたような声を上げた。
「どうしてシモンが私みたいな存在を残したと思っているの? どうして彼があなたを手元に置かず、王立憲兵局に入局させたと思っているの?」
「それは―――」
「時代は変わる。アルスターなんてそのうちなくなるわ。だから、あなたは何も背負う必要はないの。大事なものは今のうちにしっかり掴んでおきなさい。―――手を離してから気づいても遅いのよ」
〇
意外な言葉を告げられたランドルフは、思わずその場に立ち尽くしていた。それから墓碑に視線を移す。シモン・アルスターと書かれた石板の下に眠るのは
ランドルフは懐から錫の
その時ぽつりと雫が落ちて、白い石板に丸い影のような跡を残した。
見上げれば、どんよりと重く垂れさがった雲からぽつりぽつりと雨が零れ始めていた。それは見る見るうちに勢いを強めて、気づけばざあざあと音を立てていく。
―――
ランドルフはゆっくりと記憶を解いていった。
あの日。両親を乗せた馬車が滑落した日。あの日も、こんな風に雨が降っていた。決して嵐などではなかった。屋敷中が哀しみに沈み込み、春だというのにランドルフの体は凍てつくように冷たかった。二つ違いの兄は、震えるランドルフの肩をぎゅっと抱き寄せるとこう言ったのだ。
「いいか、ランドルフ」
けれど、何でもないように告げる兄の声だって、わずかに震えていたことにランドルフは気がついていた。
「兄さまが、ついているからな」
アルスターの存在を知ったのもこの時だった。両親の葬儀を終えて間もなく、大叔父だという初老の男が領地にやってきた。ゆったりとした黒衣に身を包んだ灰色の髪のシモン・アルスターは、その偏屈な容貌も相まって、まるでお伽噺に出てくる人買いのように恐ろしかった。
シモンは感情の一切こもらない冷徹な声音でランドルフを引き取りに来たと告げ、それからリュシュリュワに課せられた『アルスター』という役割について語り出したのだ。
心が凍りついたままのランドルフは己の運命を静かに受け入れたが、兄は違った。
シモンの足元に食らいつき拳を幾度も振り上げ、弟を連れて行くなど許さないと何度も叫んだ。それでも無理だとわかると今度は血を吐くような声を絞り出した。
「こんな馬鹿げた話があってたまるものか……!」
思慮深い兄があれほどまでに激昂したのは後にも先にもあの時だけだったと思う。
「待っていろ、ランドルフ。必ず呼び戻してやるからな。確かに私は今は何も知らぬ子どもだが、これから知識をつけ、人脈を増やし、完璧な領主となってやる。誰にも文句など言わせない。大叔父上殿も覚悟するがいい。私の統べるリュシュリュワは、今後一切アルスターを生むことはない……!」
―――そう言ってくれた兄も呆気なく死んだ。病床にも教師を呼びつけ最後まで領主になるための教育を受けていたという。
だからランドルフはリュシュリュワには戻らない。継ぐこともない。他でもない兄の願いを叶えるためだ。
リュシュリュワには、アルスターなどいらない。
曇天から放たれる雨滴がランドルフを容赦なく責め立てる。身体はすっかりと熱を失い、水を吸った軍服はじっとりと重かった。
―――本当は。
本当はわかっている。不器用な己が思いつかないだけで、きっとそれは兄の望みとは少し違うのだと。
だからたぶん、記憶とともにランドルフの心に降り続けるこの雨は、ずっと―――やまないのだろうと。
〇
しばらく俯いたままシモンの墓碑を眺めていると、ふいに、雨がやんだ。
否、雨音はする。空から落ちてくるも雫もざあざあと勢いよく地面を打っている。ただ、ランドルフ
「……グレイル嬢?」
怪訝に思って振り向けば、目の前に見慣れた少女が立っていた。手にした傘をこちらに差し出すようにして、墓碑の前でしゃがみ込むランドルフに雨がかからないようにしている。
ゆっくりと見上げれば、少女は困ったように眉を下げた。
「その、雨が、降っていたので」
でも肝心の閣下の傘を持ってくるのを忘れちゃったんですけど、とあたふたと告げる相手にきょとんと首を傾げた。
「なぜ、ここが?」
「ええと、閣下の大叔父さまの葬儀があると、カイルさんから聞いて」
決まりが悪そうに身を縮こませるコンスタンスに、そうか、とランドルフは頷いた。それから、ぽつりと呟く。
「……気味が、悪くないのか?」
「はい?」
コンスタンスが顔を上げた。
「両親も、兄も、リリィも、大叔父も―――俺の周りにいた人間は、みんな死んでいく。まるで、死神のような男だとは思わないか?」
少女は虚を突かれたようにぱちくりと瞬きすると、ふっと口元を綻ばせた。
「―――あなたの婚約者は」
意外な反応にランドルフが戸惑っていると、彼女はそのまま言葉を続けていく。
「元婚約者には浮気されるし、夜会では悪目立ちするし、次から次へと事件には巻き込まれるし、なにより今は希代の悪女に憑りつかれていますけど」
コンスタンス・グレイルはこちらを覗き込むと、口の端をにんまりと釣り上げた。
「気味が悪くはないですか?」
ランドルフは何か言おうとして、けっきょく何も言うことができずに黙り込んだ。その様子を見た少女は悪だくみが成功した子供のように笑う。それから嬉しそうに口を開いた。
「実はですね、ケイトがレモンパイを持ってきてくれたんです。焼いたメレンゲが上に乗っかってるやつ。さっくさくで、甘酸っぱいレモンクリームと一緒に食べるとしゅわしゅわ溶けていって、ほっぺたが落ちるほどおいしいんですよ。もちろん甘さ控えめで―――」
この婚約者は小柄な割に大食漢だ。とりわけ友人のロレーヌ嬢手製の菓子が好物で、放っておくとホールごと平らげてしまう。その度に食べ過ぎだと侍女長から雷を落とされ、しょげかえっている姿を思い出す。
目の前でくるくると変わる表情をぼんやりと眺めていると、ふいに鮮やかな若草色の瞳がランドルフを映し出した。あまりにも澄んだ世界に捕らえられて、心臓が一瞬、大きく波を打つ。
榛の髪に若草色の瞳を持つ少女は、春の陽だまりのような笑顔を浮かべて、ランドルフに手を伸ばした。
「だから、一緒に帰りましょう」