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 スカーレットは地団太を踏んだ。今日はお父さまと流行りの舞台の観劇に行くと約束していたのだ。それも、ひと月も前から。久しぶりに父を独り占めできると、スカーレットはこの日を指折り数えて楽しみにしていた。


 ―――だというのに。


「お父さまは、わたくしのことなんてどうだっていいんだわ!」

 急務が入ったため帰れないという知らせが屋敷に届いたのは、新調したドレスに身を包み、髪を愛らしく結い上げてもらった直後のことだった。

 姿見の前でくるりと回ってご満悦だった自分が馬鹿みたいだ。スカーレットは怒りのまま声を上げると、手当たり次第に物を投げつけた。

「いつもそうだわ! いっつもそう! お父さまは、きっと、わたくしのことがおきらいなのよ! おやすみの前にほっぺにキスもしてくださらないし……!」

 思い出しては色んな気持ちが込み上げてくる。けれど泣きたくなくてぎゅっと唇を噛みしめていると、穏やかな声がスカーレットを包み込んできた。

「―――あの人、ああ見えて意外と照れ屋だものね。お父さまに怒っても無駄よ。不器用な上に意地っ張りだから」

「じゃあ、お母さまは、わたくしにがまんしろとおっしゃるの!?」

 ばっと顔を上げればお母さま―――アリエノールは、ふふふ、と笑った。

「まさか。あなたはちっとも悪くないわ。こういう時はね、他に方法があるの。お母さまのお家に伝わる魔法の言葉を教えてあげる」

「まほう……?」

「ええ。家族にだけ使える、とっておきの呪文よ」

 スカーレットと同じ瞳を持つ母は、ひどく楽しそうにこう囁いた。


「―――文句があるなら、コーネリア・ファリスに言いなさい」



◇◇◇



 婚約者を紹介したいとランドルフ・アルスターが連れてきた少女は、見れば見るほど平凡だった。落ち着かない様子できょろきょろと視線を彷徨わせている姿など、どこか小動物を思わせる。

 コンスタンス・グレイル。

 その見た目から受ける印象と、ここ数カ月の彼女の行動はあまりにも噛み合わない。最初こそ背後に何者がいるのではないかと疑ったが、ランドルフ・アルスターが婚約者になったことでその懸念は潰えた。

 けれど、それでもわからないのは目的だ。

 アドルファスとて、まさかこの場が本当にランドルフの挨拶回りだとは思っていない。


「これでもなかなか忙しい身でね。それで、お嬢さんは私に何が聞きたいのかな」


 試すように訊ねれば、目の前の少女が逡巡するような気配があった。本当に言っていいものか。そう思案するような表情だ。少女は隣に座るランドルフを恐る恐る見上げ、婚約者の肯定を受けるとやっと覚悟を決めたようだった。


 鮮やかな若草色の瞳がアドルファスを映す。


「―――スカーレットを処刑台に送ったのは、公爵ですか?」


 その言葉と、声に込められた意志の強さにアドルファスはわずかに目を見開いた。 

 てっきり、どこにでもいるような平凡な少女だと思っていたのだが。予想を裏切る肝の据わり方に、低く笑った。

「だとしたら、どうする?」

 すると、コンスタンス・グレイルは困ったように口をへの字に曲げた。

「……それは、ちょっと困ったことになります」

「私が? それとも君がかい?」

 コンスタンスは「両方です」と先ほどまでの威勢はどこへやら、今にも死にそうな顔で呟いた。

 その裏も表もない緊張感が抜けるような態度に、思わず口が滑る。

「君は、何のためにこんなことを?」

 若草色の瞳がぱちくりと瞬いた。それからはにかむように微笑みを見せる。

「……実は、ある人に、助けてもらったことがあるんです。だから、今度は私がその人を助けたいなと」

 これまでの彼女の行動のすべてに関わる人物など、アドルファスはひとりしか心当たりがなかった。けれどもそれはあり得ない話である。


 何故ならばその人物は―――もうこの世にいないのだから。


「君との関係は?」

 訊ねれば、少女はちらりと虚空に視線を流した。それから、ううむ、と悩むように腕を組む。

「関係……。友人というか、親分と子分というか、いじめっ子といじめられっ子というか……」

 なんだそれは、とアドルファスが面食らっていると、少女がぱっと顔を輝かせた。

「私としては、相棒、だと思っています。相手は嫌がるかも知れませんけど」

 まるで悪戯を得意気に披露する幼子のような笑みだった。

 だからアドルファスも、その衒いのない表情につられたのかも知れない。


「―――その人は」


 それは、あまりにも荒唐無稽な想像だった。


 けれど、もし、その相手がアドルファスの想像する人物だとしたら。


「きっと、私のことを憎んでいるだろうね」


 少女が押し黙った。

「……ひとつ、発言をしてもよろしいでしょうか」

「ああ、もちろん」

 頷けば、若草色の瞳を持つ少女はおもむろに立ち上がり、すう、と深呼吸すると―――


 そのままアドルファスの頬を思い切り引っ叩いた。




◇◇◇




 ―――海���越えてやってきた花嫁は絵に描いたような良妻だった。


 エルンストから半ば強引に新婚休暇を取らされたが、領地に戻ればそれはそれで忙しい。特に今は、昨年の大雨の影響でモレル川が氾濫した件を受けて、新たな堤防の建設と放水路の見直しを行っている最中だ。日中はほとんど会議か視察に赴いているし、場合によってはそれが数日かかることもある。

 けっきょく慣れぬ土地に一人きりにしてしまっているというのに、アリエノールは不満ひとつ言わなかった。それどころかマクシミリアンのことも我が子のように慈しんでくれているという。

 そんな彼女の唯一の欠点は、どうやら体が弱いらしいということだった。熱を出したという報告を受けて、アドルファスは半月ぶりに屋敷へと戻った。



 寝室で休むアリエノールに体調を訊けば、彼女はくすりと笑みをこぼした。

「どうした?」

「ふふ、まるでわたくしのことを心配してくださっているみたい」

「当たり前だろう。君は、私の妻なのだから」

 その言葉に、アリエノールはおっとりと微笑んだ。

「今度からは―――」

 春の陽だまりのように温かい声が耳朶を打つ。

「寝言は寝てからおっしゃってくださいね」

 うん? とアドルファスは首を傾げた。今、何か不思議な言葉が聞こえた気がする。

 妻に視線をやれば、先程と変わらず穏やかに微笑んでいた。なんだ、気のせいか。そう思っていると、再び声が聞こえてくる。

「それとも目を開けたまま寝ていらっしゃいましたの? それはそれで問題ですわ。そうでないなら妻という単語を一度辞書でお引きになってみるのね。寝所も別で、たまに顔を合わせても挨拶くらしかしないような相手を世間一般では妻とは言いませんのよ。そんなものはただの顔見知りです」

 アドルファスはぽかんと口を開けた。

「なにか?」

「いや……ずいぶんと印象が変わったなと……」

 戸惑いながら告げれば、やはり、ふふふ、という愛らしい笑い声が返ってくる。

「片手で足りるほどしか会ってないのに印象も糞もないでしょう」

「くそ」

 聞き慣れない下品な言葉に思わず目を瞬かせる。

「あら、ごめんあそばせ。なにせわたくし、田舎育ちなもので」

 そこでようやくアドルファスは気がついた。

「……君は、怒っているのか?」

 アリエノールの笑みがゆっくりと深まった。

「だから―――」

 しかし、その目はちっとも笑っていない。

「寝言は寝てからおっしゃってくださいまし、このスットコドッコイ」

「すっとこ……?」

「スットコドッコイです」

「どういう意味だ?」

「……まあ。そんなこと、とてもレディの口から言えませんわ」

 わざとらしく頬を染めていたが、おそらく碌な意味ではないのだろうとアドルファスは推測した。

「それに、怒ってなどおりませんわ。ただ祈っているだけですの」

 彼女は、その整った面に聖女のように慈愛に満ちた笑みを貼りつけた。

「どいつもこいつも死んじまえって」

「……それは、穏やかではないな」

 ふふふ、とまた軽やかな笑い声が上がる。

「わたくしの人生が穏やかだったことなんて、ただの一度もありませんのよ」

 アリエノールは、まるで今日の天気でも判じるような気安さで語りはじめた。

「確かにわたくしは愚かな小娘ですけれど、貴方たちの懸念もわからないほど無知ではないの。この身に流れる血が火種を生むかもしれないことくらい知っていますわ。もちろん、わたくしだって争いなんて望んでいない」

 紫水晶アメジストの瞳の奥で、昏い炎が揺らめいている。射貫くように鋭い視線がアドルファスに向けられた。

「でも、だから我慢しろと言うの? 死ぬまで囚人のような扱いを受けるのが当然だというの? 空の深さを教えておいて、都合が悪くなると光の届かない地下牢に閉じ込めるのが正しいの? そんなもの、生きながら死んでいるのと同じじゃない」

「それは―――」

 アドルファスは何か言おうと口を開きかけたが、けっきょく何も言うことができなかった。目の前にいる娘は儚く脆い硝子などではなく、真っ赤に煮えたぎる鉄だった。そうとは知らずうっかり触れてしまったが、痛みを伴うような熱さにアドルファスは伸ばしかけた手を引っ込めざるを得なかったのだ。


 つまるところアドルファス・カスティエルは、十近くも離れた小娘に圧倒されたのである。


「わたくし、今からとっても身勝手な暴言を吐きたいと思うのですけれど」

「……ああ」

 頷けば、アリエノールは嬉しそうに破顔した。そしてゆっくりと近づいてくる。


 ―――次の瞬間、勢いよく伸びてきた拳とともに頬に鈍い衝撃が走った。頬骨がみしりと嫌な音を立てる。頭の中が、そこらかしこで鐘が撞かれているようにぐわんぐわんと共鳴していた。頬に手を当てれば、ぼうっとするような熱を帯びている。思い出したように痛みの大群が押し寄せてきて生理的な涙が滲んだ。もしかすると、顔の左側だけ倍に膨れ上がってはいないだろうか。

 恐ろしいことに頬に当たったのは手のひらではなかった。()()()()()()である。

 予期せぬ衝撃に数歩後退りながら、アドルファスはやっとのことで声を絞りだした。

「……暴言、というのは、一般的に、会話のことを指すと思うのだが」

「あら、ごめんあそばせ。スットコドッコイ相手だと、わたくしの故郷では拳で語るのが一般的で」

 どこの無法地帯の話だとアドルファスは思った。

「―――この国に来てから色々と考えてはみたのですけれど。やっぱりわたくし、見ず知らずの人間のために犠牲になるなんて殊勝な心はこれっぽっちも持ち合わせていなかったみたい。なので、愚か者と言われようが、人でなしと罵られようが、わたくしは、わたくしの好きなように生きていくことにしますわね」

 アリエノールは先ほどとは打って変わって生き生きとしていた。紫水晶アメジストの瞳が楽しそうにくるりと回る。


「だってそれが、コーネリアの遺言ですもの。文句があるなら、コーネリア・ファリスに言ってくださいませ」


 ―――まさにそれは、海を越えてやってきた花嫁の最初の宣戦布告だったのだ。

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