回想(エルンスト・アデルバイド後編)
スカーレットが六つの時、アリエノールが死んだ。生来体が弱く、長くは生きられないと言われていたらしい。産後の肥立ちも悪く、ここ数年はほとんど起き上がれなかったようだ。
妻の死を報告するときも、アドルファスはいつもと変わらなかった。それこそ生まれた時からのつき合いになるが、エルンストはこの男が感情を爆発させるのを見たことがない。
「……大丈夫か?」
少年時代のように気安い仲ではなくなったとはいえ、それでも兄弟のように思っている男だ。
「なにがだ?」
しかし、相手の腹の内はやはり読めなかった。
「いや、その……」
言葉に詰まっていると、アドルファスは一瞬ぱちくりと瞬きをし、それからまた例によって仕方のないやつだな、というように微笑んだ。
※
よくない知らせは重なるものだ。
「サラとルウェインが……?」
馬車の事故だったという。最後にあの二人に会ったのはいつだっただろうか。エルンストが現実を受けとめきれずに暫く呆然としていると、アドルファスの冷静な声が耳に入ってきた。
「嫡男のオーウェンが成人するまで、ルウェインの弟のダヴィズが代理領主となることになった」
ふと頭をよぎったのは、もう一人の子供のことだ。
「……ランドルフは?」
「シモン・アルスターが引き取ると言っている。……もともとその予定だったんだ。多少早まったが、問題ないだろう。アルスター伯もご高齢だしな」
つまり、あの哀れな子どもは大叔父であるシモンから直々に【教育】を受けることになるのだ。エルンストの胸を苦いものが過ぎったが、気づかない振りをした。
この時は、まさかその数年後にオーウェンまでも亡くなるとは思っても見なかった。
※
オーウェンの葬儀は領地ではなく
エルンストがどうにか都合をつけて教会に駆けつけた時にはすでに参列者の姿はなく、ただ、長椅子に座った子どもがぼんやりと祭壇を見つめていただけだった。
その所在なげな姿を見た瞬間、この少年は本当に一人きりになってしまったのだとエルンストは悟った。
「……君は、泣かないんだな」
ルウェインは、その図体の割に泣き虫だった。そのことを思い出しながら話しかける。
少年はちらりとエルンストに視線を向けると、己に言い聞かせるように呟いた。
「アルスターに、感情は必要ありませんから」
凪いだ水面のような眼差しは、どこかアドルファス・カスティエルのものと似ていた。
◇◇◇
運命の歯車が狂い出したのはいつからだったのだろう。
「ユーグ・ノートルが更迭?」
エルンストは思わず声を上げた。弁護士出身で有力貴族でもあるノートルは、次期財務総監の呼び声高い優秀な財務官だったはずだ。
「いったい何をしでかしたんだ」
呆然と呟けば、アドルファスが肩を竦めながら答えた。
「横領だそうだ。飼い犬に手を噛まれたとコルベール財務総監はご立腹だな」
「匿名か?」
「いや、告発者がいる。サイモン・ダニエル―――ああ、今はダルキアンだったか。婿入りしたのを忘れていた」
「陸軍局の経理をしていた男か。デボラ・ダルキアンの夫という印象しかなかったが、これでコルベールの目に留まったな。つくづく運の良い男だ」
残念なことにダルキアン公爵家は子宝に恵まれなかった。成人した嫡子はデボラだけだ。彼女は数年前に結婚して爵位を継いだが、蝶よ花よと育てられたお姫さまの婿選びはさぞ難航したことだろう。
夫となったサイモン・ダニエルは没落寸前の侯爵家の三男坊だった。彼自身は特筆すべきことのない風采の上がらぬ男だ。けれど、そこが良かったのかも知れない。実家の干渉も受けにくく、野心の欠片もないところが。
落ちぶれた貴族の青年が公爵家に見初められ、出世街道である財務総監への道を歩んでいる。人生とはわからないものだ。
エルンストが感慨深く思っていると、アドルファスが、そういえば、と口を開いた。
「最近、妙な幻覚剤が出回っているようだ」
「幻覚剤?」
渡された財務諸表に目を通しながら訊ねれば、「ああ」という返事が返ってくる。
「貴族の若い連中を中心に流行っているらしい。たいして強いものではないが、入手経路が少し気になってな。手にしているのは上級貴族ばかりだ」
「薔薇十字通りではないのか?」
「オブライエンに確認したが心当たりがないと言っている。あそこはレディ・オードリーが目を光らせているから間違いないだろう」
泣く子も黙る老婦人の姿を思い出し、エルンストも「うむ」と重々しく頷いた。
「それで、その幻覚剤の名は?」
「ジャッカルの楽園だ。巷では『J』と呼ばれているようだな」
「……死肉を漁る
冗談めかして告げる。実際のところエルンストはそこまで憂慮しているわけではなかった。所詮ただの幻覚剤だろう。そう思っていたのだ。
事態が動いたのは、それから数カ月が過ぎた頃だった。
※
「デュランが、謀反……?」
それは、ベレスフォードの隣領を治めるゾルムス伯爵からの密告だった。デュラン・ベレスフォードが密かに軍勢を整え、王に反旗を翻す準備をしているというのだ。
その頃にはすでに例の幻覚剤の流通に【
だというのに。
「―――ばかな」
エルンストは司法省からの報告に目を通すと愕然と呟いた。すでにデュラン・ベレスフォードは投獄されており、半年後には処刑が決まっているという。
いくら何でも、あまりに早すぎる。
エルンストの疑問に答えたのはアドルファスだった。
「ああ、ばかげている。だが、どうやら真の愚か者は我々の方だったようだ」
「……どういう意味だ?」
「ファリスだ。あの国が裏で手を引いていた」
一瞬何を言われているのかわからずに目を瞬かせる。
「ファリス?」
「そうだ。戦争を起こし、この国を属国にするのが奴らの目的だ」
エルンストはその言葉の意味をゆっくりと噛み砕いた。かの国とはアデルバイドが帝国から独立して以降、良き隣人として友好関係を築いていたはずだった。
信じられない面持ちでアドルファスを見れば、兄のような男は疲れたように溜息をついた。
「骨は折れたが奴らの計画の全貌をつかんだ。……遅きに失したがな。結局デュランは拘束されてしまった」
悔やむように告げると、ぞんざいに紙の束を放り投げられる。慌てて掴めば、走り書きのような文字が目に入った。
「エリスの、聖杯……?」
途端、自嘲するような笑い声が落ちてくる。
「案外嫌われていたのだな、我が国は」
そこには隣国の財政状況と、経済的資源を獲得するために戦争を起こしアデルバイドを統治下に置く計画が書かれていた。しかも、御旗となるのはコーネリア・ファリスの血を引くスカーレットだ。
今だ自体が呑み込めないエルンストは、動揺を隠すように呟いた。
「……デュランの件もファリスの仕業か?」
そうだ、という肯定はすぐに返ってきた。
「ベレスフォード領はファリスとの国境沿いにある。あそこの守りは鉄壁だ。だてに北方蛮族からの侵入を防いでいないからな。今回の件はその牙城を崩すために引き起こしたに違いない。おそらくデュランを失った混乱に乗じてファリス兵が一気に攻め込んで来る手筈だろう」
なんということだ。エルンストは思わず天を仰いだ。
「つまり、この早さでデュランの処刑が決まったのは―――」
「ああ。我々の中に鼠がいる」
「……ゾルムスは捨て駒か」
「あれはもともとデュランとは犬猿の仲だったからな。うまく踊らされたのだろう」
「例の幻覚剤は資金調達が目的か?」
「確かに、それもあると思うが。上級貴族の間で流行ったことを考えれば、おそらくはこちらの国力を削ぐことが目的だろう。……最近飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がり、財務総監補佐のゾルムス伯とも親交のある貴族といえば―――」
エルンストはわずかに目を見開いた。
「サイモン・ダルキアンか……!」
ダルキアン公爵家に婿入りをした、風采の上がらぬ凡庸な男。
おそらくユーグ・ノートルが失脚したのも無関係ではなかったのだろう。それがダルキアンの現当主であるデボラの意向だったのか、サイモンの独断だったのかはわからないが。
「すぐにサイモンから聴取を―――」
「したところで知らぬ存ぜぬの一点張りだろう。そもそも証拠がない。それに、今はデュランを救うことが先決だ。おそらくデュラン・ベレスフォードの死がこの戦争の引き金となる」
※
状況は致死的だった。
敵は数年をかけてこの計画を練っていたのだ。探れば探るほどデュランに不利な証拠が出てくるばかりで、サイモン・ダルキアンが不正に関与していたという影すら見えない。
悔しいが、平和惚けしていたエルンストたちに端から勝機などなかったのだ。
そんな折、憲兵総局から、セシリア・リュゼ子爵令嬢暗殺未遂事件の容疑者として、スカーレット・カスティエルの名が上がっているという報告が入った。現場に彼女のものとよく似た月虹石の耳飾りが落ちていたらしい。
エルンストは額に手を当てながら低く呻いた。
「……スカーレットを陥れるのも計画のうちだと思うか?」
「いや、偶然だろう。奴らにスカーレットを害する理由がない」
確かに、そうだ。エルンストは『エリスの聖杯』と名づけられた例の軍事作戦を思い起こしていた。
この計画では、コーネリア・ファリスの血を引くスカーレットを新王として擁立することになっている。わざわざ彼女を危険に晒すような真似はしないだろう。スカーレットがいなければファリスにとって理想的なアデルバイド統治は困難になるのだ。
エルンストはそこまで考えて、はっと気づいた。否、
なら、スカーレットがいなくなれば―――と。
次の瞬間、二の腕が粟立った。おぞましさに吐き気がする。何を考えているんだと己自身を咎立した。けれど、それでも一度浮かんできた考えはなくならなかった。戦争になれば多くの命が失われてしまうだろう。今のアデルバイドに勝算はない。属国になれば民はどうなる? エルンストは統治者として何としてでも戦争を回避しないといけなかった。
しかし、それと同時に在りし日の愛らしい笑顔が脳裏に浮かんでは消えていく。けらけらという無邪気な笑い声。小さな手のひら。そして、その体の温かさも。
無理だ。
エルンストに、その決断は、無理だった。両手を組み合わせ、思わず何かに縋るように顔を上げた、その瞬間―――
目が、合った。
アドルファス・カスティエルはエルンストと同じ色の瞳を細めると、困ったように微笑んだ。
まったくお前は仕方のないやつだな、というように。
それから、陛下、という静かな声が室内に響いた。エルではなく、陛下、と。彼がエルンストのことをそう呼ぶ時は、いつだって、王家の忠実な臣下であるカスティエルとしてだった。
「―――スカーレットを、利用しましょう」
神よ、とエルンストは声に出さぬまま絶叫した。許されるのであればその場に跪いて懺悔したかった。さもなくば、今すぐ愚かな自分に罰を与えて欲しかった。
だって、それは、本来であればエルンストが命じるべき言葉だったのだ。
躊躇ってはいけなかった。私情に流されてはいけなかった。一人の命と国の重さを天秤にかけることなどあってはならなかった。正しく、王であるならば。
この男に、こんな残酷なことを言わせていいはずが、なかった。
「奴らの計画は、旧ファリス皇族の血を持つ人間がいて初めて成り立つものです。だからきっと、スカーレットが処刑されれば―――」
それ以上聞いていられなくて、エルンストは思わず口を挟んだ。
「ならば、処刑ではなくソルディタあたりに国外追放して後で引き戻せばいい……!」
その言葉に、アドルファスは、ふっと相好を崩した。
―――それはまるで、手のかかる弟の癇癪を宥めるような穏やかな笑みで。
それでも、アドルファス・カスティエルの口調は揺るがなかった。
「貴方も、わかっているでしょう。デュランが処刑され、ベレスフォード領が落ちれば同じことだと。スカーレットがいなくとも、アデルバイドを侵略し実効支配する方法がないわけではない。だから、我々は何としてでもデュラン・ベレスフォードを解放しなければいけません。……無実を証明するには、時間を稼がなければ。スカーレットの処刑は間違いなく衆目を集めるでしょう。なら、公開処刑など野蛮で原始的な行為だと思わせればいい。すみれの会のキンバリー・スミスに糾弾の指揮を取らせます。彼女はシモン・アルスターの教え子だ。きっとうまくやってくれる」
公にはされていないが、すみれの会は王家や貴族への不満を適度に発散させる垢落としの役割を持つ機関だ。構成員の大半は何も知らない市民だが、幹部は特殊な訓練を受けた工作員だった。
「公開処刑など廃止せよという民衆の声が高まれば、デュランの処刑は延期せざるを得なくなる。その間に潔白の証拠を集めます」
「待ってくれ、きっと他に何か方法が―――」
沈黙は、一瞬だった。
「―――残念ながら、我々には時間がありません。そして、これは願ってもない好機です」
わかっている。そんなことは、わかりきっている。とうとうエルンストは俯き、両手で顔を覆った。情けなくて仕方がなかった。スカーレットを犠牲にするしか方法を見つけられない己が。そして、悲しかった。こんな時にまで感情を見せない男が。決してエルンストを責めない男が。
ひどく平坦な声が、静まり返った室内にぽつりと落ちる。
「スカーレットの助命を請う連中の顔を焼きつけておいてください。その中に、おそらく奴らの息のかかった者がいる」
当たり前だ、と唇を噛みしめながらエルンストは思った。今のままではダルキアンひとつ墜とせない。けれど、いずれ一人残らず引きずり降ろしてやる。
「奴らは必ずもう一度こちらに牙を剝いてくるでしょう。だが―――」
スカーレット・カスティエルが処刑され、デュラン・ベレスフォードも解放されれば、打つ手のなくなったファリスは撤退するだろう。けれど、それで終わりではない。奴らは爪を研ぎ、牙を磨き、虎視眈々と領土拡大を狙ってくるはずだ。まるで、
けれど、こちらとてただ黙って待つことはしない。
ほどなくして聞こえてきたアドルファス・カスティエルの声は、まるで火を失った燭台に再び炎が燃え広がるようにエルンストの耳朶を打った。
「―――最後に笑うのは我々だということを嫌というほど思い知らせてやる」