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回想(エルンスト・アデルバイド前編)

 

 奇しくも、同じ日に生を受けた。


 幼い頃はよく似ていた。その瞳の色から双子のようだと言われて育った。無論、世辞だ。容姿も才能も人を惹きつける力も―――何もかも彼の方が優れていた。おそらく神は魂を宿す胎を間違えたのだろう。自虐を込めてそう零す度に、彼は、全く仕方がないやつだな、という風に微笑んだものだ。


「―――確かに私は自分でもびっくりするくらい優秀だけど」

 同性でも見惚れるほどの美貌に、エルンストと同じ赤みがかった紫の双眸。

「でも、そんな私が君に仕えたいと思っているんだ。自信を持ちなよ、エル。君は王位にふさわしい」

「……なんだそれは」

 殊更に眉を寄せてしかめっ面になって見せたのは、もちろん、照れ隠しだった。目の前の少年はすべてわかっているとでも言うように口の端を吊り上げた。


 彼はいつだってエルンストの進むべき道の先にいて、出来の悪い弟分を引っ張り上げてくれる兄のような存在だった。


 アドルファス・カスティエル。


 彼のことをドゥフィと呼んでいたのは遥か昔のことだ。



◇◇◇



「ベロニカが駆け落ちしたそうだな」


 子を産んだばかりの公爵夫人が愛人とともに出奔した。

 俄かには信じがたい一報は、その日のうちにエルンストの耳に入った。

 その翌日、いつもと変わらぬ様子で登城してきた男を見て思わず責めるような口調になったのは、生まれたばかりのマクシミリアンが不憫だったからだ。

 けれど当事者であるアドルファスは、何だそんなことか、という風にこちらを見返してきた。勢い込んでいたエルンストの肩から力が抜ける。

「……なぜ、許したんだ」

 ベロニカの画策にこの男が気づかなかったはずがない。真意を問えば、アドルファスはあっさりと肩を竦めた。

「私たちの間にあったのは次代を繋ぐという義務だけだ。彼女はその義務を果たしたのだから、特に問題はないだろう」

 おおありだ、とエルンストは頭を抱えた。母親に捨てられたマクシミリアンはもちろん、カスティエル家にとっても紛れもない醜聞である。口では嘯いているが、もちろんアドルファスだってわかっているはずだ。

「ジョンは良い奴だ。ベロニカも幸せになるだろう」

 だから何でもないことのように告げられた言葉に、エルンストはひっそりと嘆息した。この男は、決して心がないわけではない。もともとベロニカは公爵夫人が務まるような芯の強い娘ではなかった。だからこれは―――おそらく、アドルファスなりの優しさなのだ。ひどくわかりにくい上に、傍迷惑だったが。


 ※


 それから数年が過ぎ、教会から正式にふたりの離縁が認められると、エルンストはアドルファスを王城まで呼びつけた。


「再婚?」

 今だ社交界に出向けば蜜を求める蟻のようにご婦人方が列をなす美貌の男はそう言うと、怪訝そうに首を傾げた。エルンストは尤もらしく頷き、言葉を続ける。

「マックスには母親が必要だろう」

「心配ない。クロードがいる」

 クロードは先代当主の代からカスティエル家を見守ってきたという古参の執事だ。アドルファスも彼に躾けられたという。

 エルンストは一瞬言葉に詰まったが、すぐに、こほん、と咳払いをひとつした。

「……幼子は筋張ったご老体より、もっと温かくて柔らかいものを求めるのだよ」

 我ながら苦しい言い訳だった。案の定アドルファスはにっこりと微笑んだ。男でも見惚れるような華やかな笑みだ。

「それで、真意は?」

「何の話だ」

「私に隠し事ができると思っているのかい」

 エルンストは思わず天井を見上げた。それから両手を上げて降参のポーズを取る。

「……ソルディタ共和国から泣きつかれた。コーネリア・ファリスの直系の娘を引き取ってくれと」


 ―――帝国の最後の皇女がソルディタ共和国に亡命したという噂は真実だった。

 以来、かの国はその血脈を静かに見守っていたようだ。しかし、数年ほど前からファリスの干渉を受けるようになったらしい。あそこは昔から血統に拘泥する国なので、おそらく衰退してきた王家に再びかつての皇族の血を入れたいのだろう。


 どうやら共和国はその事態を防ぎたいのだという。一体どういうわけかと首を捻っていたのだが、コーネリア・ファリスの婚姻相手が問題のようだった。彼女は亡命から数年後、当時の元首の甥と結婚していたのだ。その血を引く人間がファリス王家に入るとなれば、共和国内にも少なからず波紋が生まれる。彼らとしても無用な混乱は避けたいというわけだ。


 代わりに提示された条件は悪くなかった。ただ、アデルバイドとしてもそんな厄介な血筋を下手な貴族に与えるわけにはいかない。


 こういう時にエルンストが心の底から信頼できるのはひとりだけだった。


「……お前以外に適任がいないんだ」

 ばつが悪そうに告げれば、アドルファスはいつものように、まったく仕方のない奴だな―――という苦笑を浮かべたのだった。




 それから数カ月後。はるばる海を越えてやってきた花嫁を見て、エルンストは目を見張った。


 夜を写し取ってきたように艶やかな黒髪に、アデルバイドともファリスとも違う紫水晶アメジストの瞳。泡沫のように儚げな美貌。


「美人じゃないか」

 しかしアドルファスの反応はひどく素っ気ないものだった。相手を一瞥すると、何の感慨も覚えなかったように視線を戻す。

「子供だな」

 そして、それきりである。

 エルンストは思わず額に手を当てた。確かに彼女は若いが、おそらく十も離れていないだろう。

「……他に感想はないのか。お前の奥方になるんだぞ」

「形式上はな。私の役目はあの子供を保護することだろう?」

「いや保護ってお前……犬や猫じゃあるまいし……」

「似たようなものだ。まあ、うまくやるさ。得意分野だ」

 アドルファスはそう言って肩を竦めると、麗しき花嫁の手を取りに向かって行った。


 ※


「……その顔はどうした?」

 領地から久方ぶりに王都に戻ってきたアドルファス・カスティエルは、頬に大きな包帯を貼っていた。男前が台無しである。思わず訊ねれば、やや憮然とした面持ちで一声だけ返ってくる。

「猫だ」

「お前の屋敷は猫など―――」

 そこまで言いかけて、はたと思い立った。口元がにんまりと弧を描く。

「ふうん、猫か」

「……そうだ」

「黒猫か?」

「…………そうだ」

 おそらくその黒猫は紫水晶アメジストの瞳を持っているのだろう。事情はわからないが、何やら面白いことになっている。

 けれどここで下手に突いたら余計に拗れそうだったので、エルンストは傍観者に徹することに決めたのだった。




 それから季節は巡り、いつの間にか海を渡ってきた花嫁―――アリエノールは子を孕んでいた。

 エルンストが生まれてくる赤子の父親となる人物に生温い視線を送っていると、気づいた相手がひどく嫌そうに顔をしかめる。それから「不可抗力だった」と低く呻いた。

「ふうん」

「だから、不可抗力だったんだ……!」

 いつも飄々としている男が必死になる様子が珍しくて、エルンストは久しぶりに声を立てて笑った。


 ※


「そう言えば、サラが無事に第二子を産んだらしいぞ。また男児だ」


 眦に溜まった涙を拭いながら共通の幼馴染みの名を出せば、アドルファスは先程までの不機嫌さを一変させて口元を綻ばせた。

「男児か。オーウェンはサラ似だったから、今度はルゥに似ているといいな」

 予想通りの反応に、エルンストは苦笑した。

「お前は本当にルウェインのことが大好きだな」

 アドルファスは昔からルゥ―――ルウェイン・リュシュリュワのことをひどく可愛がっていた。ちなみに親交は一方的で、日頃からちょっかいを出し過ぎた結果、当の本人からは倦厭されていたが。


 この男は、本当に愛情表現が下手くそである。


「だって可愛いじゃないか」

「あの厳つい男のどこに可愛い要素があるんだ」

「斜め上なところ」

「ああ……」

 確かにルウェインはこちらの予想外の言動や行動を取ることが多かった。しかし可愛いとは言い難いが―――と首を捻っていると、アドルファスがぽつりと告げた。

「シモン・アルスターはかなりのご高齢だ。おそらく、その子が次のアルスターを継ぐことになるな」

 アルスター。その称号が持つ闇に、エルンストは思わず眉を顰めた。

「くだらぬ風習だ」

 唾棄するように言えば、諭すような口調で窘められる。

「だが、必要だろう。カスティエルのように」

 困ったような微笑みは、昔から幾度となく目にしたものだ。エルンストが何も言えなくなっていると、アドルファスはわざとらしく声を明るくした。

「赤子に会うのが楽しみだな。サラと約束しているんだ。次に男児が生まれたら、私と同じ狼の名を入れてくれると」

「そんなことになったら大好きなルウェインが泣くぞ」

「ああ、知らなかったのか? サラと私は『可愛いルゥを泣かせたい同盟』を組んでいるんだ。最近泣かせていないからな―――全力で泣かす」

 そう言って満面の笑みを浮かべる美しい悪魔を見て―――エルンストは哀れな仔羊ルウェインに深く同情したのだった。



◇◇◇



 あー、う、とあどけない声が室内に響く。ふくふくとした小さな手をのばされて歓声を上げたのは、鋭い顔貌の大男だった。


「別嬪さんだなあ! それに俺を見ても泣かない!」

 男はでれでれと脂下がった表情のまま赤子に頬ずりをした。髭が痛いのか、ううう、という迷惑そうな声が上がる。それを見たアドルファスが辛辣に告げた。

「デュラン、あまり触るな。馬鹿がうつると困る」

「ひっでえ!」

 愕然とした様子で叫んだ男は、アドルファスの友人であるデュラン・ベレスフォードだ。ファリスとの国境沿いにあるベレスフォード領の末子でもある。今は王立憲兵局に身を置いており、口は悪いが仕事はできた。エルンストとも数年来のつき合いである。

「ちょっ、陛下、今の聞きましたか! あいつひどくない!?」

「ああ、聞いていた。私も心配だな。早く可愛いスカーレットを返してくれ」

「どうしよう、味方がいない! ……別嬪さんは俺の味方だよな?」

 そう言ってデュランが腕の中を覗き込むと、何が可笑しいのかけらけらと赤子が笑った。

「お前もか……!」

 大袈裟に嘆く声に、エルンストは堪えきれずに噴き出した。アドルファスも笑っている。


 ―――今思えば、何も知らずに笑い合えたのはこの時代が最後だったのかも知れない。


 だからなのか、エルンストは今でもよくこの日の光景を夢に見る。



 在りし日の、幸せの象徴として。


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