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「裏金?」


 ローラから告げられたのは意外な言葉だった。

「ええ。ほら、コニーちゃん、キャンベルには借金があるって言っていたでしょう?」

 コニーはこくりと頷いた。

 賭博好きのカルヴァン・キャンベルは借金返済に追われていた。ランドルフから聞いたその情報を、ここに来る前に娼婦たちにも伝えてあった。

 もともとキャンベル領は豊かではなく、困り果てた伯爵は、先代から受け継いでいた病院や孤児院をいくつか売り払って返済の足しにしているらしい。


「でもね、レベッカを囲うお金はあったらしいの。だからあの子、問い詰めたらしいのよ。そうしたら―――」

 自身が経営している施設から不正に得た収入があるのだと告げたらしい。

『あら、吹けば飛んでいきそうなほど軽い口ね。きっと頭の中身も軽いんでしょうね』

 スカーレットが嗤う。コニーは俄かには信じられずに首を捻った。

「いやでもそんなのすぐにバレるんじゃ……」

 国への収支報告は義務である。突然沸いて出た金があれば、その拠出を疑われるのではないだろうか。

 そう疑問を口にすると、ローラが薄く微笑んだ。

「だからね、()()()()()()()。たとえば請求書の金額をちょっとずつ水増ししたり、実態のない会社と取引をしているように見せかけたりしてね。まあ、キャンベルはそこまでだいそれたことはできなかったみたい。だから、実在する市民団体を利用したらしいわ」

「市民団体……?」

「ええ。すみれの会って言うんだけど、知っている? そこの青年部の経理にあいつのお仲間がいるらしいわ。それで、寄付金という名目で多額の現金を移動させていたのよ。これって立派な犯罪よね?」

「すみれの、会」

 脳裏を過ぎったのは、全身のピンクの女―――キンバリー・スミスだ。

 スカーレットが不愉快そうに鼻を鳴らした。


『―――あの女に会いに行くわよ、コニー』



◇◇◇



「どちらさま?」

 目が痛くなるような鮮やかなピンク色の塊がコニーをじとりとめつけた。ドレスはもちろん、顔の上半分を隠す仮面でさえもピンクである。

 黒玉ジェットの仮面に詰襟の喪服を纏ったコニーとは対照的な出で立ちだ。


()()()と申します」

 そう言ってコニーが一礼すると、キンバリーの目がわずかに細まった。

「―――あら、まあ」

 おそらく、今の言葉で目の前にいる少女の正体がわかったのだろう。

「それで、何かご用?」

 歓迎するような笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。こちらの意図を探ろうと冷ややかな光を湛えていた。

 コニーとしても、あまり長居をするつもりはない。単刀直入に訊ねて様子を窺うことにした。


「カルヴァン・キャンベル伯爵とはどういったご関係ですか?」

「伯爵? 貴族だけれど、素晴らしい方だわ。彼はね、私たちの活動に賛同してくれているの」

『で? その大嫌いな貴族の集まりに尻尾を振って参加しているのはどちらさま?』

 呆れたように告げるスカーレットに、コニーも心の中で賛同する。すると考えが表情に出ていたのか、キンバリーはばつが悪そうに付け足した。

「……貴族社会を知るのも経験だろうと、伯爵が同伴させてくださったのよ。お優しい人だから、こうやって色々と心を砕いてくれるの」

 その言葉に、コニーは思わず眉間に皺を寄せた。

「寄付も、ですか?」

 すると、キンバリーはきょとんとした表情を浮かべた。

「怖い顔ね。寄付は別に犯罪じゃないでしょう?」

「ええ。―――そのお金が不正に得たものでなければ」

「……何の話?」

「裏帳簿があるそうですね」

 怪訝そうにしていた彼女は、その言葉を聞いてもピンと来ないようだった。

「裏帳簿?」

 心の底から不思議そうな表情に、コニーも思わず目を瞬かせる。ローラが言うにはカルヴァン・キャンベルの仲間がいるのは青年部で、キンバリーは婦人部の代表だと言っていたから、もしかしたら彼女は本当に関係がないのかも知れない。


「……それは伯爵が言っていたの?」

 気がつけば、キンバリー・スミスはひどく険しい表情を浮かべていた。彼女はすっとエントランスホールに視線を移す。

「今日の夜会は―――アビゲイル・オブライエンを助けるためね」

 コニーの体がぎくりと強張った。あからさまな動揺に、キンバリーは可笑しそうにその豊満な体を揺らす。

「まさかうちに鼠が紛れ込んでいたとはねえ。まったく、これは目も当てられない失態だわ。……か弱き市民団体を隠れ蓑に使うなんて、キャンベルの坊やもやってくれるじゃない」

「え?」

「ふふふ、それにしても面白いことを思いついたわね。正々堂々と正義の鉄槌を下すのではなく、毒を以て毒を制そうだなんて。それも、あの誠実のグレイルが。ああ、褒めているのよ? だって逃亡を幇助するよりもよほど手っ取り早くて確実だもの」

 突然饒舌になったキンバリーは、おもむろにコニーに近づくとその耳元に口を寄せた。

「坊やを脅してアビゲイルを釈放させるつもりだったんでしょう?」

 コニーは息を呑んだ。けれど、相手は構わず言葉を続けていく。

「そうね、やり方は悪くない。でも、あなたにはちょっと荷が重いわね。カルヴァンは間抜けな愚か者だけど、悪いことは得意なの。人間には得手不得手というものがあるのよ。そして、どう見てもあなたは悪いことが得意ではなさそうね」

 そう言って笑うキンバリー・スミスは、どう考えても先程までの意地の悪い中年婦人ではなかった。

「昔から裁縫は針子に任せるのが一番だとよく言うでしょう? これは私の得意分野だし、鼠には心当たりがあるわ。きっちり片をつけて来てあげる。こちらとしても、今オブライエンに失脚されては困るのよ。せっかく十年も時間をかけてあいつらの勢力を削いできたのに、ここでまたダルキアンを台頭させるわけにはいかないの。これは、我々にとっても好機だわ」

 コニーは呆気に取られたようにぽかんと口を開けた。

「信じられない? なら、手蔓ヒントをあげる」


 キンバリー・スミスは歌うように囁いた。


「―――すみれの花はどんな色?」




 ◇◇◇




 コニーは道端で揺れるプルプラの花をぼんやりと見ていた。その花弁は赤と紫が混じり合った色をしている。

 一般的にプルプラと言えば、アデルバイドではこの色を指す。紫と言われて思い浮かべるのもこれだ。赤みがかった紫。

 そして、それは王家の色(ロイヤル・カラー)でもある。


 ―――すみれの花はどんな色?


 あれは、どういう意味だったのだろう。

 考えても答えは出て来ない。けれど、あの剣幕に押されてコニーはカルヴァン・キャンベルの処遇をキンバリーに委ねることにした。スカーレットも反対しなかった。ただ、時折何かを考え込むような素振りをしていたが。

 ちなみに隣国ファリスのスミレは青みがかった紫である。菫の色(ヴァイオレット)は帝国時代のファリス皇族の色でもあり、血統を重んじるかの国では、現代でさえ王位を継ぐためには青紫の瞳が不可欠だと言われているのだ。


 ふう、とコニーは溜息をついた。こうやって余計なことを考えていないと体が震え出してしまいそうだった。

 アビゲイルの裁判が始まってからすでに数刻が過ぎている。審議が行われているグラン・メリル=アンの星の間ではランドルフが傍聴しているはずだ。後で屋敷に寄ると言われていたが、居ても立っても居られず飛び出してきてしまった。今は小宮殿の前で判決が出るのを待っている状態だ。


「大丈夫かなあ……」

『キンバリー・スミス次第ね』

「だ、大丈夫かなあ……!」

 だんだんと心配になってくる。もしかすると、あれは演技だったのではないか。実は彼女は伯爵と共謀しているのではないか。

 もしこれで有罪判決が下されれば、ウォルター・ロビンソンとオルダスによる奪還作戦が強行されることになる。館のお姉さま方の()()()によれば、彼らは着々と手筈を整えているらしい。

 頭を抱えて呻くコニーを見かねてか、スカーレットが口を開いた。

『大丈夫よ。だって、あの女は多分―――』

 しかし最後まで言い切る前に「グレイル嬢?」という意外そうな声がコニーの耳に飛び込んで来た。

 ―――ランドルフだ。

 気づいた瞬間、コニーは駆け出していた。「閣下!」

 ぱたぱたと正面に回り込むと両腕をがしっと掴む。

「ど、どうなりましたか! 判決は!?」

 必死の形相で詰め寄る婚約者に、ランドルフ・アルスターは相変わらずの無表情で応対した。

「ああ。アビゲイルは証拠不十分で無罪になった。もっとも、判決を告げる当人が死刑でも宣告されたような表情だったが」

 コニーはゆっくりとその言葉を噛みしめた。


 証拠不十分で、無罪。


 つまり―――

「よ、良かったあああああ」

 アビゲイルは助かったのだ。はーっと長い息をつく。涙で視界がぼやけた。安堵のあまり全身から力が抜けていく。堪えきれず、へなへなとその場に崩れ落ちそうになった。

 あ、倒れる。そう思った瞬間、力強い腕がコニーの腰をぐい、と引き寄せた。

「大丈夫か?」

 ―――近い。

 これは、図らずともランドルフに抱き込まれるような体勢である。思わず体が強張った。近い。距離が近い。体が近い。ついでに見上げた先にある精悍な顔も近い。

 紺碧の双眸にじっと見下ろされていると、何だか落ち着かない気持ちになってくる。それに軍人だけあって、肌に触れるランドルフの体はどこもかしこも堅い、気がする。これではまるで抱きしめられているようだ―――いやこれはただの人助けである。人命救助のようなものであって、恋人の抱擁とは全く性質の違うものである。だから落ち着け、コンスタンス・グレイル。

 それでも体温はじわじわと上がっていった。

 その不審な態度に、ランドルフがわずかに首を傾げる。

「顔が赤いな。熱でも―――」

 ふいに骨ばった手が額に向かって伸びてきて、コニーはとうとう悲鳴を上げた。

「ああああありません大丈夫です!」




 ―――その後お誂え向きに別の男が捕まり、アイシャ殺害を告白したその晩に自害した。これによってオルダス・クレイトンの容疑も晴れ、辞職していたマーセラも復帰した。


 そして、騒動の発端となったアメリア・ホッブスはメイフラワー社を解雇されることになった。


 オルダス曰く、今回の話は業界に知れ渡っており、今後アメリアの記事を取り上げる出版社はないだろうということだ。




『あら、自業自得ね』

 事の顛末を聞いたスカーレットは、そう言うとひどく美しい微笑を浮かべたのだった。



 ◇◇◇



 諦めて、なるものか。


 饐えた匂いが鼻をつく。襤褸小屋のような教会の前で、アメリア・ホッブスはひたすら獲物を待ち続けた。諦めてなるものか。他社から門前払いを食わされ続け、ようやく古巣に手を回されたのだと気づいた時は怒りでどうにかなりそうだった。このままでは終わらせない。ぜったいに、返り咲いてやる。そのためには、誰もが飛びつくような醜聞スキャンダルを手に入れなければならない。


 しばらくして教会から出てきたのはフードを目深に被った女だった。アメリアは弾かれるたように女の目の前に飛び出していった。

「セシリア王太子妃……!」

 女がゆっくりと顔を上げた。整った顔立ちが露になる。けれど予想と違い、そこに浮かんだ表情はこちらを小馬鹿にするような軽薄なものだった。


「なに、あんた。オータイシヒって誰。人違いじゃない?」


 上品さの欠片もない口調にアメリアは怯んだ。そもそも庶民であるアメリアがセシリアの顔を知るはずがない。式典などで遠くからたまに見る程度だ。人違いかも知れない、という疑念が湧く。

 けれど、女の瞳は王太子妃と同じ薔薇色だった。一か八か、アメリアは勝負に出ることにした。

「……あなた、本当は子爵令嬢じゃなくて娼婦の子なんでしょう?」

 女は動揺など微塵も見せずに、「ここにいるのは大抵娼婦か犯罪者の子だよ」と言ってけらけらと笑っている。アメリアはさらに続けた。

「リュゼ領にも行ったのよ。あなたの育った孤児院は、残念ながら火事で焼失してしまったそうね。孤児たちの多くも死んでしまったと聞いているわ。その後、行方がわからなくなったのは二人だけ。あなたと―――シシィという名の少年よ」

 ふいに女の笑い声がとまった。

「あなたたちは恋人のように仲が良かったそうね。……彼は今どこに?」

 感情のない目がアメリアを捉える。その冷たさに、アメリアはぞくりと身を震わせた。

 やがて女は吐き棄てるように呟いた。


「―――あいつなら、死んだよ」


 アメリアは、はっと顔を上げる「あなたやっぱり……!」セシリア王太子妃だったのだ。詰め寄ろうとした瞬間、首元に鈍く光るナイフが突きつけられた。

「あんたも、死にたいの?」

 ぞっとするように淡々とした声が降ってくる。恐怖で言葉を失っていると、その切っ先が躊躇いなく皮膚にめり込んだ。鋭い痛みとともに、ぬるりとした何かが伝う。心臓がどくりと波打った。全身からさっと血の気が引いていき、冷や汗が出る。アメリアは震えながら何度も何度も首を横に振った。ナイフが引かれる。助かった。腰が抜けてしまい、ずるずるとその場にしゃがみ込む。


 セシリアはアメリアを見下ろすと、まるで聖母のように柔らかい微笑を浮かべてこう告げた。


「なら、今日中に荷物をまとめてこの国から立ち去りなさい。さもないと―――そのみすぼらしい赤毛をもっときれいで鮮やかな赤色に染めてしまうわよ」


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