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「―――これはいったい何の騒ぎかな」 


 でっぷりと肥えた腹を揺らしながら螺旋階段を下りてきたのはハームズワース子爵だった。どうしてここに、と思ったが、先程自分が呼んだのだとパメラは思い出した。

「やだ、成金豚だわ」

 コンスタンスが何か呟いたが、生憎内容までは聴こえなかった。

 すぐに何人かが子爵に近づいて、事の次第を面白おかしく説明したようだった。子爵はいちいち大袈裟に目を見開いき、肩を竦め、嘆いていたりしてみせる。一通り聞き終わると、同情するように眉を下げてコンスタンスに向き直った。

「災難だったね、グレイル嬢」

 対するコンスタンスはどこか冷ややかな笑みを浮かべていた。相手を見下すような、見たこともない表情だ。

「……ええ、とっても。あまりの仕打ちに、このままでは神聖なる宣誓に背いてしまいそうですわ。背教者になる前に女神の慈悲に縋りたいところなのですが」

「それは婚約の意義申し立て、ということかね」

「受理されるでしょうか」

「もう公示されてしまっているから、すぐには難しいだろうね。相手方の言い分もあるだろうし」

「哀れな仔羊に、祝福を与えてはいただけませんか?」

「私がかい?もちろん、そうしてあげたいのは山々だけどね。残念なことに私は教区が違うし、そもそも、異議申し立てはこんな場所で簡単に行えるものではないんだよ。然るべき場所で、きちんと順序立てて行わないと。知っての通り、教会というものは不可侵なのだ」

 それはそうだろう。さすがにパメラだって、まさかこの場で手続きができるとは思っていなかった。子爵を呼んだのは、ただあの女に恥をかかせてやろうと思っただけだ。まあ、愛想を尽かせたニールが後日にでも本当に異議申し立てを行ってくれないかなとは思ってはいたが。

 教会というものは、男爵子爵程度の者がどうこうできるものではないのだ。だから、次に聞こえてきた言葉にパメラは己の耳を疑った。


「そんなこと、わたくしの知ったことではないわ」


 ―――この女は、今なんと言った?


「お前の夜会で起きた不始末よ。お前がなんとかなさい」


 それは、他人に命じることに慣れ切った口調だった。けれど、目の前にいるのはあのコンスタンス・グレイルなのだ。広間が再びざわつき始める。

「決して難しいことではないはずよ。特に、お前みたいな人間にとってはね。御託は良いからさっさとこの婚約を無効にしてきなさい、この、愚図が。さもなければ―――」

 決して大きいわけではないのに、その声は、はっきりと広間中に響き渡った。


「今宵グラン・メリル=アンで行われたドミニク・ハームズワースの舞踏会は、崇高なる王族の庭で男女が入り乱れいかがわしいことをするものだったと、どんな手を使ってでも陛下の耳まで届くようにしてやるわ」


◇◇◇


 舞踏会は、今やコンスタンス・グレイルのためにあった。あれほど侮辱を受けたはずのハームズワース子爵は何故か目を輝かせてすぐさま侍従に何かを命じた。まさか本当に婚約破棄の手続きでもさせるのだろうか。パメラは必死に考えを巡らせた。どうにかして事態を挽回しないといけなかった。そうしないと明日からパメラに社交界の居場所がない。ニールはおそらく役に立たないだろう。いくらお洒落でハンサムで頭が良くても彼はやはり貴族ではないのだ。この展開についていけず、そしてこれから待ち受ける事態にも気づかずに立ち尽くしている。



「紳士淑女の皆さま方」

 いつも壁の花で、人前では気の利いたことのひとつも言えなかったコンスタンス・グレイルが、舞台女優のように堂々と立ち振る舞っている。そのことに、誰も疑問に思わないのだろうか。

「この素晴らしい場に水を差してしまったことを心よりお詫びいたしますわ。道ならぬ恋に燃える若き二人にどうか祝福を。宴はまだ始まったばかりですもの。―――思う存分、楽しまれて?」


 このふたりで(・・・・・・)


 言外にそう言われた気がして、パメラは心底ぞっとした。思わず縋るように口を開く。パメラの勘が危機を告げていた。早くなんとかしなければ、ひどいことになると。

「お願い、ちょっと待って―――」

 コンスタンス・グレイルなら必ず謝罪を受け入れるはずだ。予想通り、コンスタンスはちらりとパメラを見た。けれど、見た、だけだった。わずかに目を眇めると、すぐに顔を背けてしまう。それは謝罪など許さないというような激昂した態度ではない。むしろ、うっかり羽虫が視界に入ってしまった。そんな表情だったのだ。そこで初めてパメラは気がついた。


 この女は、誰だ。


 これはパメラの知っているコンスタンス・グレイルではない。


「ああ、わたくし目まいが……。ええとそこの孔雀青のベストがよくお似合いな方―――あなたのたくましい腕を少しだけお借りしてもよろしいかしら?心が痛くて、ひとりで歩けそうもないのです。すぐそこまでですわ。外に迎えが来ているはずなので」

 顔は平凡なのに、そこに乗せられた表情はひどく艶めいていた。信じがたいが、そうしているとあの地味な女がたいそう魅力的な女性に見える。実際彼女に選ばれた男はわずかに相好を崩し、それからパメラに蔑むような一瞥を寄越した。

「もちろんです、レディ」

 ―――負けた。女として、コンスタンスに負けた。それは、パメラにとって体が震えるほどの屈辱だった。


「それでは皆さま、ごめんあそばせ」


 コンスタンスは背筋を伸ばしたまま優雅な仕草でゆったりとした裾をつまみあげると、流れるように頭を下げた。



 ―――あまりに自然で非の打ち所のない淑女の礼は、パメラでさえも一時の激情を忘れてしばし見惚れるほどだった。



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