7-19
カルヴァン・キャンベルは焦っていた。
世にも醜い成金子爵が、ジョン・ドゥ伯爵の夜会に【
その衝撃的な話題は瞬く間に社交界を駆け巡った。
急な開催だったのにも関わらず、誰も彼もが伝手を頼って件の夜会に招待されようとした。けっきょくのところ、皆、下品な遊びの虜なのだ。どれだけ眉を顰め、澄ました顔を取り繕っていたとしても。
カルヴァンとてそうである。この日のために理髪師を呼び、特注の仮面をつけ、香水をたっぷり振りかけた。四十を越えたとはいえ、外見には自信がある。
―――だと言うのに、旧モントローズ邸の広間で咲き綻ぶ麗しき花たちは、なぜか、カルヴァン以外の男の手を取っている。
誰が娼婦かはすぐわかる。彼女たちは客人ではなく、子爵の用意した余興だった。ゆえに、仮面はつけていない。その美しい
カルヴァンは苦々しい気持ちで脂下がった男たちを睨みつけていた。出遅れたわけではない。花を愛でる機会がなかったわけでもない。なのに、彼女たちはカルヴァンを選ばなかった。その事実は彼の自尊心を大いに傷つけた。
ふいに広間がざわめいた。現れたのは、妖婦のように蠱惑的な肢体に天使のようにあどけない表情を浮かべる淑女。
それは、薔薇の妖精と謳われる【
妖艶さと可憐さを併せ持つ彼女を前に、カルヴァンは蜜に誘われる蜂のようにふらふらと近づいていった。
「レディ」
ミリアムはカルヴァンに気がつくと、まるで往年の恋人でも見つけたかのように嬉しそうに顔を綻ばせた。好意的な態度に年甲斐もなく胸をときめかせる。さらに一歩足を踏み出したその時、無粋な言葉とともに、彼女の腰にぶくぶくと肥えた手が回された。
「―――失礼。彼女は私の連れなのですよ」
告げたのはこの場で最も仮面が意味をなさない男―――この夜会の主催者であるハームズワースである。
カルヴァンは鼻白んだ。財力では劣るとはいえ、階級は伯爵たる己の方が上である。普段であれば、いくら相手が聖職者とは言え無礼を詫びさせることは容易だっただろう。しかし、ここは【ジョン・ドゥ伯爵の夜会】なのだ。身分をひけらかすことこそ無礼であり、笑い者となる。
容姿でも身分でも明らかに劣る男に負けた。無様な成り行きに、周囲から嘲笑するような声が漏れる。カルヴァンは、ぎり、と歯噛みすると、無言のままその場を後にした。
悔しい。悔しい。悔しい。
もはや碌に広間を見ることもできなかった。ひたすらに酒を煽る。
苛々としていると、「あ」という声とともに何者かがぶつかってきた。カルヴァンは大きく舌打ちをする。
びくり、と肩を震わせたのは黒髪の女だった。
「も、申し訳ございません」
脅えるように上げられた顔は、仮面をつけていなかった。つまり娼婦だ。それも、なかなかの上玉。その眦は涙で潤み、表情もどことなく憂いを帯びている
カルヴァンは怒りがするすると解けていくのを感じていた。女の手を取り、務めて優しく声をかける。
「ああ、いけない。美しい月が雲に隠れてしまっている。ぶつかったせいではないだろう? 何か悲しいことでもあったかな?」
美女はそっと
「このような場で申し上げることでは……」
「私では貴女の雲を払う風にはなれないのだろうか」
眉を寄せ、心底案じるような表情を浮かべると、女は躊躇いがちに口を開いた。
「ご存知かもしれませんが、館の
アビゲイル・オブライエンのことだろう。知っているも何も、彼女に引導を渡すのはカルヴァンなのだ。
そう。残念ながら、判決はすでに決まっている。可哀想なアビゲイル・オブライエンが太陽を拝める日は二度と来ないだろう。
「私はレベッカと申します。もともと下級貴族の出身だったのですが、没落してしまい娼婦となりました。今回もまた路頭に迷うのではないかと思うと、不安で不安で、仕方がないのです……」
「私ならば、何とか出来るかも知れないな」
レベッカが弾かれたように顔を上げた。カルヴァンは満足気に頷いて見せる。
「いやなに、金ならあるんだ。どうせなら、貴女のように美しい女性のために使うべきだろう」
カルヴァンが告げたのは、金銭面での援助―――
目の前の娼婦はあのミリアムには及ばないが、それでも充分愛でるに値する容姿を持っている。
願ってもない話だろうと思っていると、レベッカは失望したという雰囲気を滲ませて溜息を吐いた。
「……実は、ハームズワース子爵からも同じような申し出を受けているのです」
「なんだって?」
脳裏を過ぎったのは、先ほど受けた辱めだ。またあの豚にしてやられるのか。そう思うと、到底許容できるものではなかった。
「金額は?」
一月分の援助としてレベッカが告げたのは、庶民が一年は遊んで暮らせる金額だ。
成金豚め、とカルヴァンは忌々し気に舌���ちをした。
「……彼の倍は出そう」
きっぱりと言い切ると、レベッカが驚いたように目を見開いた。
「どうした?」
何かを考え込むような仕草である。彼女は困ったように眉を寄せると、そっとカルヴァンにしだれかかり耳元に口を寄せた。
「……見ず知らずの方に、そこまでして頂く理由がありませんわ」
なるほど、素性を明かせということか。娼婦の癖になかなか慎重な性格なようだ。
「カルヴァンだ。カルヴァン・キャンベル」
「伯爵家の?」
レベッカが大袈裟なまでに息を呑む。おそらくハームズワースよりも位が上であることに驚愕したのだろう。鬱憤が溜まっていたカルヴァンは胸がすく思いがした。しかし、女の表情はなぜか浮かないものだった。
「……キャンベル領と言えば、ご領主だけでなく領民までも
上級貴族だと分かれば話に飛びついてくるかと思ったが、さすが王都随一の高級娼館で教育を受けた娘だ。わざわざキャンベル家を『倹約家』だと言葉を濁してくるあたり、決して裕福ではない領地の懐事情も知っているらしい。
カルヴァンに見切りをつけたのか、レベッカは「失礼致しますね」と言うと背筋を伸ばして踵を返した。その先の広間にいるのは楽しそうに娼婦と歓談し、あるいは密着して踊る男たちだ。
そして、視線の端ではミリアムと仲睦まじそうに笑い合う豚の姿がある。
カルヴァンの頭にかっと血が昇った。二度もハームズワースに負けるなどプライドが許さない。
「か、金ならあるんだ! 本当だ!」
レベッカは立ち止まると、ゆっくりと振り返った。それから、切れ長の双眸をすっと細めて首を傾げた。
「―――では、どちらに?」
◇◇◇
エントランスホールでは、彩とりどりの花がくるくると踊っている。
まさかその可憐な姿は囮で、実のところ彼女たちが獲物を捕食しようとしている食虫花なのだとは誰も思わないだろう。
ほっと胸を撫でおろしていると、スカーレットが『あら?』と首を傾げた。
『キンバリー・スミスだわ』
ほっそりとした白魚のような指は、真向かいのバルコニーを指さしている。そちらを何の気なしに眺めて、コニーは思わず首を絞められたガチョウのような声を上げた。
「げ」
ピンクの仮面にピンクのドレスを纏った小太りの女性―――あいにく顔はわからないが、あの狂ったような色彩センスは、間違いなく以前難癖をつけられた市民団体―――確か『すみれの会』とかいう―――の婦人部代表だ。
『あんなに貴族を目の敵をしていたくせに、いったい何をしに来たのかしら。……普通に楽しんでいるみたいだけれど』
表向きは特権階級を非難して、裏ではその恩恵に被り甘い汁を吸う。そういう人間もいるだろう。いずれにせよ、コニーは関わり合いになりたくないが。
そそくさとその場を回れ右すると、廊下の向こう側から二人の女性がやってくるのが見えた。
堂々と歩く大柄な体躯の金髪と、そんな彼女に何やら注意をしているらしいほっそりとした銀色の髪の女性。
あの組み合わせには見覚えがある。ふたりとも仮面をしているが間違いないだろう。目抜き通りで出会った観光客―――サンとエウラリアだ。
(どうして、ここに……?)
そのまま通り過ぎようとする二人を目で追っていると、視線に気づいたサンがふと立ち止まって顔を向けた。それからコニーを見とめると、怪訝そうに首を捻る。
「うん?」
ややあって、向こうも目の前にいる黒い仮面が、数日前に道案内を頼んだ少女だと気がついたようだ。
サンは「奇遇だな」と言うと朗らかに笑った。
◇◇◇
「怪しげな夜会をやると聞いてね。実は、今の私は怪しげなものに目がないんだ」
なにそれ怖い。コニーは頬を引きつらせて一歩後退った。
「それより、この前はありがとう。助かったよ。ええと―――聖杯の娘」
「え?」
今、この人は
思わず訊き返すと、エウラリアが呆れたように溜息をついた。
「もう、サンってば。グレイルさん、でしょう」
それからコニーの方へと向き直って説明をする。
「すみません。グレイルという言葉は、ファリスの古語で『聖杯』という意味なんです」
「そーそー。あちらじゃあまり聞かない名字だからね、つい」
そう告げたサンが飄々とした笑顔を浮かべているのを見て、コニーはぱちくりと目を瞬かせた。
「ファリスからいらっしゃったんですか?」
「そうだよ」
サンはあっさりと肯定すると、胸に手をあて恭しく一礼をした。そして、流れるような仕草でコニーの手を取った。
「ん?」
首を傾げるコニーを尻目に、そのまま指先にそっと口づける。
「……んん?」
「一曲いかがですか、レディ」
「…………んんん?」
動揺する少女の姿に、サンはしてやったりと破顔した。
ダンスの誘いを丁重にお断りすると、ファリスからの客人は拍子抜けするほど簡単に身を引いて、連れとともに去って行った。
ふたりの後ろ姿を見送っていると、スカーレットが腕を組みながら口を開く。
『……何だか裏がありそうね。そもそも、ただの観光客がこの夜会に参加できるわけがないもの。いったい誰の紹介で来たのやら。それに、あの二人の立ち振舞いは明らかに貴族のそれだったわ』
確かに、とコニーは頷いた。確かに、彼女たちの佇まいは非常に洗練されていた。儚げなエウラリアはもちろん、一見すると粗野な印象のサンですら―――多少大雑把ではあるものの―――その言葉遣いも、仕草も、ひどく上品だったのだ。
ファリスから来たという言葉を信じるのであれば、彼女たちは、おそらくファリスの貴族なのだろう。
―――ファリス。コニーは思わず眉を寄せた。リリィの手紙によれば、【エリスの聖杯】の目的は、ファリスによるアデルバイドの侵略だという。
だとすれば、彼女たちは敵なのだろうか。それとも―――
「コニーちゃん」
唐突に名を呼ばれ、はっとして振り返る。そこには見知った女性がおっとりと頬に手を当てて立っていた。
「ローラさん」
やや年上の彼女は、娼婦たちを束ねる姐御でもある。
ローラは色っぽく髪を掻き上げると、艶やかな笑みを浮かべて声を落とした。
「―――レベッカが聞き出したわよ」