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 ぱんっ、と頬を張る乾いた音が室内に響いた。 


 容赦のない一発に、コニーはびくりと身を竦めた。目の前では、衝撃を受けとめきれなかった細い体がふらふらと後退っている。

 一方で、たった今思い切り手を振り降ろした女性は激情を抑えるように肩をゆっくりと上下させていた。



 先刻前。アビゲイルが憲兵局に身柄を拘束されたとの一報を受け、コニーとランドルフは【豊穣の館(フォールクヴァング)】に向かうことに決めた。彼女を助けるための計画を立てるためだ。そして館に到着するや否や、広間で繰り広げられていた修羅場に遭遇してしまったのである。



「……いきなり、何をするのよ」

 レベッカは赤くなった頬を抑えながら、無言のまま己を引っ叩いてきた相手を睨みつけた。


「何をするのか、ですって?」


 返ってきたのは凍えるように冷たい声だ。


「―――それはこっちの台詞よ。あんた、いったいなんてことしてくれたの」


 いつもにこにこと笑みを浮かべているミリアムの射貫くような視線を受けて、レベッカはわずかに怯んだようだった。


「な、なに怒っているのよ。やっぱりばかね、ミリアムは。アビーは公爵家の人間なのよ? こんなことで罰せられるわけないじゃない。すぐに釈放されるに決まって―――」

 その瞬間ミリアムの双眸が怒りの炎で燃え上がり、爆発するように叫び声が空気を震わせた。

「十年前に公爵家のお嬢さまがいとも簡単に処刑されたことを忘れたの!? アイシャ・ハクスリーはね、スカーレット・カスティエルが冤罪だと主張しようとして殺されたのよ! それがどういうことかもわからないの!?」

 レベッカがはっとしたように目を見開いた。

「バカはあんたよ、レベッカ! あんたがお貴族さまの血を引いているから何なの? 字が読めたから何なの? あんたの言うところのおきれいな血筋も、高尚な文学も、あたしたちを助けてくれなかったじゃない! 助けてくれたのは、アビーだったじゃない! アビーだけがあの地獄から救い出してくれたんじゃない! アビーが……!」


 その時、榛色の瞳からぽろりと涙が零れた。


「アビーがしんだら、どうしよう……!」


 声は、わずかに上擦っていた。そして、堰を切ったように大粒の涙がぽろぽろと溢れていく。肩が戦慄き、しゃくりが上がる。

 ようやくレベッカは己が何をしたか気がついたらしい。さあっと顔から血の気が引いていき、蝋のように蒼白になっていた。


 室内が重苦しい空気に包まれていると、がたん、と背後で音がした。

 振り返った先にいたのは、オルダス・クレイトンだった。

「……アビゲイルが、どうした」

 会話が耳に入ってきたのか、硬い声で問う。おそらく、オルダスはまだ彼女が拘束されたことを知らないのだろう。いずれ知ることになるとはいえ、確かにこの場にその事実を伝えることができる人間がいるとは思えない。アビゲイル・オブライエンは、オルダスを助けるために奔走して拘束されたのだ。コニーも何も言うことができずに黙り込んでしまった。

 しかし、泣きじゃくるミリアムに青褪めたまま俯くレベッカ、そして引き攣った表情のコニーを順々に見ていったオルダスは事態を正確に把握してしまったらしい。

 すぐに険しい表情を浮かべると、身を翻してどこかへ駆け出そうとする。コニーが「あっ」と声を上げたのと、その肩をランドルフが掴んでとめたのはほぼ同時だった。

「―――どこに行くつもりだ」

「俺が出頭する」

「……どうしてそうなる」

 オルダスは黙ったまま肩に置かれた手を振り払った。ランドルフが頭痛を堪えるように低く呻く。

「待つんだ、オルダス・クレイトン」


 答えは、なかった。


 その代わり、振り向きざまに躊躇いなく右腕が振り抜かれる。ひゅっと空を切る音がして、コニーは目を見開いたまま息を呑み込んだ。しかしランドルフは顔色一つ変えることなく、わずかに身を引いて飛んできた拳を躱した。オルダスは忌々し気に舌打ちすると間髪入れずに左拳を放つ。

 ランドルフは、今度は避けようとはしなかった。後方に下がることで衝撃を殺しながら片腕で受け止めると、そのまま一気に懐まで踏み込んで足を払う。そしてオルダスの足元が崩れた隙に背後に回り込むと、その両手を捩じ上げ膝をつかせた。


「っ、離せ、殺すぞ―――」

 殺気のこもった目つきで睨みあげてくる青年に、ランドルフは溜息をついた。「少し頭を冷やせ」

 しかし、やはり相手は素直に聞く気はないようだった。オルダスは膝をついた体勢から器用に体を跳ね起こすと、腕を掴まれた状態のまま回し蹴りを繰り出してくる。

 その様子を見ていたコニーは慌ててふたりに駆け寄っていった。

「お、落ち着いてください、オルダスさん!」

 途端、ランドルフがぎょっとしたように声を上げた。

「グレイル嬢、下がるんだ」

 咎めるような紺碧の瞳に一瞬体が強張ったが、コニーは大きく深呼吸をすると、その視線をしっかりと受けとめた。

「―――下がりません!」

 そしてランドルフの制止を振り切ると、いまだ暴れるオルダスの目の前に回り込む。「いいですか、オルダスさん!」

 さすがのオルダスもコニーを前に暴れることはしなかった。しかし、どこか焦れるような苛立ちのこもった視線を投げつけてくる。

 気持ちは、わかる。しかし―――

「今飛び出したら、それこそデボラ達の思う壷ですからね! どうしてアビーさんが抵抗もせずに連れて行かれたと思ってるんですか!? オルダスさんや、ここにいる皆さんを守るためじゃないんですか!? その意志を無視してのこのこ出て行ったところであなたが捕まるだけで、代わりにアビーさんが助かるわけじゃないでしょう!」 

 オルダスは言葉を失い、それから咽喉を振り絞るように悲痛な声を出した。

「じゃあ、どうしろって言うんだ……!」


 コニーはとうとう腹の底から大声を張り上げた。


「だから、その方法を考えるんです! 今から! みんなで! 一分一秒でも惜しいのに、こんな風に暴れてたら時間がもったいないと思いませんか!? 」


 詰め寄りながら、あまりにも必死な形相をしていたせいだろう。オルダス・クレイトンは面食らったように目を瞬かせると、ばつが悪そうに「……思う」と呟いた。


 暗鬱と沈んでいた空気がわずかに浮上していく気がしてコニーがほっと肩の力を抜いていると、廊下側からばたばたと騒がしい物音が聞こえてきた。「だめです! 勝手に入らないで―――」

 娼婦たちの制止を振り切り入ってきたのは海賊のように荒々しい風貌の大柄な男だった。男は、目を細め肩を怒らせながら室内をじろりと睨みつけている。

『ウォルター・ロビンソン? どうしてここに?』

 スカーレットが驚いたように声を上げた。その言葉でコニーも思い出す。

 海運王ウォルター・ロビンソン。確かに目の前にいるこの大男は、ニール・ブロンソンに紹介された王都有数の商人だった。


 ウォルターは後ろ手を拘束された状態のオルダス・クレイトンに気づくと、その凶悪な人相をさらに歪めて勢いよく向かって行った。そして、コニーたちがとめるまもなくその頬に拳をめり込ませる。

 娼婦たちの悲鳴が上がった。


「―――ふざけんじゃねえ」


 その口から出てきたのは、地を這うような低い声だ。


「お前が傍にいながら、なんでこんなことになってんだよ……!」


 コニーは目を白黒させて突然の闖入者とオルダスを見比べていた。


 以前会ったときにアビゲイル・オブライエンは【ウォルター・ロビンソン商会】のお得意様だとは聞いていたが―――


「俺はなあ、こんな目に遭わせるためにアビーを船から降ろしたわけじゃねえぞ!」



 これは、いったい、どういうことだ。


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