7-15
その日、前触れもなく突然現れた予期せぬ客人のせいで【
常ならば矢面に立ってくれるはずのオードリーは生憎と所用で外出していた。代わりに出迎えたのはその容貌と気さくな人柄で人気を博し、若手ながらも館で最も高い位を持つミリアムである。
彼女は愛らしい笑顔を見せながら、招かれざる客人を歓迎した。
「ようこそいらっしゃいました、ダルキアン公爵夫人」
案内役に通され控えの間のソファに優雅に腰掛けていたのは―――アビゲイル・オブライエンの天敵、デボラ・ダルキアンだった。
デボラは室内をじろりと一瞥すると、威圧的な口調でこう詰問した。
「今日も番犬はいないの?」
ミリアムは答えなかった。おっとりと微笑んだまま貝のように口を閉ざす。
その態度に、デボラは不愉快そうに眉を上げた。それから嘲るように嗤う。
「あなたも、哀れね」
デボラ・ダルキアンが【
けれどデボラは、人の心のやわらかい部分につけ入るのがひどくうまかった。
「あの番犬、確か、ルディとかいったかしら。あなた、彼に恋しているんでしょう? 見てればわかるわよ。いい男ですものね。でも―――報われない。犬の忠誠は主人にしか向かないもの。ねえ、アビゲイルが憎いとは思わないの? ずるいとは思わない? 夫がいるのに、若い男を弄んで。不実な行為だとは思わなくって?」
嬲るような視線を向けられ、返事を求められる。
ミリアムはにっこりと笑みを浮かべた。
「ご存じないのですか? 主人に忠誠を誓うのは番犬だけではありませんよ」
予想外の返答だったのか、きょとん、とデボラの瞳が不思議そうに瞬く。
「それに、今日は散歩に行っているワンちゃんではなくミリアムと遊んでくださるのでしょう?
確かにミリアムはルディを慕っている。デボラに指摘された通りだ。家族愛ではなく、恋をしている。
けれど、それでも、光とともに手を差し伸べられたあの日から、ミリアムの世界はいつだってアビゲイルを中心に回っていた。彼女を裏切ることなど考えられない。
デボラは灰色の双眸をゆっくりと細めると、つまらなそうに頬杖をついた。
「……興が逸れたわ。迎えを呼んでちょうだい」
◇◇◇
娼婦の、癖に。
デボラはミリアムが去っていった方角を忌々しそうに睨みつけた。
ここに来るまで碌に教育も受けて来なかった阿婆擦れの癖に、このあたくしに歯向かうなんて―――
けれど、胸に沸いた不快な気持ちはその場で押し殺した。苛立ちを露にするのは得策ではないと経験から知っていた。
アビゲイルは何か隠している。夜会で会った彼女はひどく疲れているようだった。何か厄介ごとが起きたに違いない。
そして同時期に彼女の情夫であり、この娼館の用心棒である男が姿を消している。関係があると考えるのが当然だ。それが何かわかれば―――
あのいけ好かない女を地べたまで引きずり降ろすことができるかも知れない。
それからほどなくして迎えの馬車が来たと告げられ、デボラは立ち上がった。
デボラを先導していくのは、切れ長の瞳を持つ細身の女だ。
「あなた、お名前は?」
「レベッカ、と申します」
きれいな発音だった。癖も訛りもない。よく見れば、歩き方や所作にも品がある。付け焼き刃ではなく、幼い頃から教育されたものだろう。
「……ねえ。あなた、もしかして貴族だったのかしら?」
デボラの問いかけに、レベッカという娼婦は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……平民と変わらぬような下級貴族の出にございます」
その恥じるような表情に、デボラは思わず破顔する。
「それは辛かったわね。いえ、今も、かしら?」
レベッカがわずかに目を見開いた。その隙を逃さず、畳みかけるように言葉を紡ぐ。
「貴族なら、アビゲイルとあなたは同じ立場になるわね?」
「公爵家と我が家では身分が比べものに……」
「いいえ、貴族は貴族よ。きっと恨んだこともあったでしょうね」
「……私がこうなったのは、アビーのせいではありません」
戸惑いがちだったレベッカの声に明確な拒絶が混じる。これは失敗だった。思った以上にアビゲイルは人望があるらしい。
―――ならば、男はどうだ。
「
その途端レベッカが警戒するような表情を向けてきて、デボラは込み上げてくる笑いを押し殺すのに苦労した。
この女は、ミリアムよりもよほどわか��やすい。
「彼が何か困ったことになっているなら、助けてあげられるかもしれなくてよ。あたくしの夫はとっても偉いの」
勝気そうな双眸が不安そうに揺れる。
「それに、先ほどの続きだけれど」
デボラは幼子に語りかけるように、優しく、優しく、誘導していった。
「恨んだことはなくても、羨ましく思ったことは、あるでしょう? だって彼女の隣には―――」
とうとうレベッカは耐え切れなくなったように視線を伏せた。けれど、逃げることなど許さない。
「ねえ、彼の目に映りたいと思ったことはない? アビゲイルではなく、自分を見て、と」
ふふふ、とデボラは微笑んだ。俯いたままの彼女の耳元に悪魔の囁きを落とす。
「きっと感謝するわ。あなたを見てくれるようになる」
レベッカがゆっくりと顔を上げた。その眼差しは、熱に魘されたように潤んでいる。
「何があったか教えてくれるわよね? だってあなたが―――あなただけが、あの男を救えるんだから」
◇◇◇
コニーがシャロン・スペンサーの葬儀に参列し、サイモン・ダルキアンとの秘密の関係を知ってから数日後。
屋敷を訪れたランドルフは開口一番、アイシャ・ハクスリー殺害の件でアビゲイルが重要参考人として聴取を受けることになったと告げた。
「なっ……!」
コニーは座っていたソファから弾かれたように立ち上がると、言葉にならない声を上げた。
「今頃は捜査員が彼女の身柄を拘束するためにオブライエン邸に向かっているはずだ」
「どうして……?」
予想もしない展開に血の気が引いていく。
「情報提供があったんだ。メイフラワー社のオルダス・クレイトンの戸籍は偽物で、その正体は【
「でもっ、接点が!」
アビゲイルにはアイシャを殺す理由がない。接点だってほとんどないはずだ。
「アイシャが殺害される一週間ほど前に、アビゲイルはハクスリー子爵に手紙を送っている。手紙が来てからアイシャの様子がおかしくなったと子爵は証言しているらしい。本部ではそれが何か動機につながるのではないかと疑っているようだ。とんだ勘違いだが、誤解を解くには時間がかかるだろう。―――遠縁だが、同じリュシュリュワの出であることから俺は捜査から外された」
コニーは息を呑んだ。ハクスリー子爵への手紙。それは、アビゲイルが、コニーのために―――
「私の、せいだ……」
「それは違う。悪いのは彼女を嵌めようとしている奴らだ」
ランドルフがきっぱりと否定する。
「ただ状況が状況だけに、君も事情を訊かれることになるかも知れない」
コニーはふるふると首を振った。そんなことはどうだって良かった。力なくその場にへたり込む。
「アビゲイル、さん……」
呆然とするコニーに、ランドルフは今の段階では彼女の犯行を立証するような証拠はないと告げた。けれどおそらく閣下だってわかっている。
もし、証拠が捏造されてしまったら?
もし、もっともらしい動機がどこからか出てきてしまったら?
そうなったら―――いったい彼女はどうなってしまうのだろう。
◇◇◇
王都にあるオブライエン邸は、水を打ったように静まり返っていた。若い使用人には暇を出した。今ここに残っているのは、アビゲイルが嫁ぐ前から働いていた古参の者たちばかりだ。すでに事情は説明してある。彼らはよほど女主人が心配なのか、皆、勤めを放り投げて広間に集まってきてしまっていた。
「―――来たわね」
遠くで馬の嘶く声が聞こえてきてアビゲイルは呟いた。厳しい表情のまま立ち上がり、傍で控えていた従僕に告げる。
「オブライエン領に早馬を」
男は心得たように小さく頷いた。
「テディを領地から出してはだめよ。私のことを知れば何を置いても駆けつけようとするでしょうけど、共倒れしている場合じゃないの。暴れるようなら縄で縛りつけておきなさい。あそこは教会の力が強いからデボラも簡単には手出しできないはずよ。ルチアもすぐに連れて行って。その後のことはすべて手筈通りに。必要書類は第三金庫に入っているわ。経営関係はウォルター・ロビンソンに一任して。ウォルなら、きっと力になってくれるから」
アビゲイルはそこまで一息に告げると、一度、言葉を区切った。
「そして万一私の身に何かあったら―――」
その場に集まった面々とひとりひとり目を合わせながら、強い口調でこう命じる。
「あなた達も、すぐに領地にお逃げなさい」
これは『お願い』ではない。女主人の『命令』である。
「―――大丈夫。何があっても、薔薇十字とオブライエン領には手出しさせやしないわ」
アビゲイルは微笑んで約束した。危険を承知でこのことを事前に伝えてくれたランドルフに感謝する。限られた時間ではあったが、少なくともあの二つを守るための手を打つことだけはできた。
おそらくこれはデボラの仕業だろう。数日前に【
「聞いていた? セバスチャンもよ」
アビゲイルはふと気がついて、部屋の隅でいつものように紅茶の仕度をしていた白髪の執事に声をかけた。
執事はしれっと口を開く。
「―――はて、何かおっしゃいましたかな? どうにもこの老いぼれは耳が遠いものでして」
アビゲイルは面食らって目を瞬かせた。そこには悲壮な雰囲気などまるでない、いつもと変わらぬ執事の姿があった。
セバスチャンとはアビゲイルが嫁いだ頃から―――いや、テディとルディと三人で遊びまわって頃からのつき合いだ。
少年たちに混じって悪ふざけをする度に、レディたるもの、と目くじらを立てて叱られたものだった。
「ついでに足腰も弱くなっていましてなあ。これでは当分屋敷から動けそうにございません。しかし、ひとつ言わせて頂くとしたら―――」
セバスチャンは柔らかく目を細めた。
「我々にとって、愛すべきオブライエンとはあなたのことでもあるのですよ」
その言葉をきっかけに、控えていた使用人たちが次々に頭を垂れていく。アビゲイルは思わず小さく息を呑んだ。
「いいですか。レディたるもの最後まで諦めることなど許されません。無事のお帰りを我ら一同心よりお待ちしております。―――
ふいにアビゲイルの胸に熱いものが込み上げてきた。
「……ばかね」
噴き出すように笑った声は、おそらくみっともなく震えていたことだろう。