7-14
アビゲイルは溜息をついた。
敵は、どうしてもアイシャの事件を早急に片づけてしまいたいらしい。
ランドルフが証拠不十分との声を上げてくれているようだが、それでも依然としてオルダス・クレイトンは第一容疑者のままだ。
万が一のことを考えて、今は【
幸いなことに、憲兵も【
『オルダス・クレイトン』という戸籍はとうの昔に死んだ男のものだ。面識もない。ルディを表舞台に存在させるためにアビゲイルが用意した。
薔薇十字通りは王都随一の歓楽街だ。裏社会との関わりも多い。その伝手を使ったので足がつくようことはないとは思うが、調べられでもしたら厄介だ。証拠はなくともアビゲイル・オブライエンが捜査線上に浮かぶ可能性は在り得る。もちろんそれだけでは捕まるわけでもないし、アビゲイル自身は何とも思わないが、己に誄が及ぶようなことになればルディが暴走しかねない。
だから、その前に真実を明らかにしてしまいたいのだが―――
なかなか前進しない状況に、アビゲイルは、もう一度溜息をついた。頭上ではシャンデリアがきらびやかに光を弾いている。広間では軽快な音楽が奏でられ、人々は和やかに談笑していた。
今宵は交流のある侯爵夫人の主催する夜会に招かれていた。ここ数日というもの碌に眠れていなかったのだが、かといって出席しないわけにもいかない。夜会は格好の情報収集の場でもあるし、何より欠席の理由を下手に勘繰られるのは避けたかった。
「ごきげんよう、アビゲイル」
いつも通りに立ち回っているとさすがにくらりと眩暈がしたので、飲み物を取りに行く振りをして休憩する。すると背後から艶やかな声が掛けられた。ちっとも
それだけで、相手が誰か名乗られなくても見当がついた。
「ごきげんよう、デビー」
振り返りざまにそう言って微笑めば、デボラの表情がわずかに歪む。デボラ・ダルキアンが愛称で呼ばれることを好まないという話は有名だった。相手が犬猿の仲であるアビゲイルであれば猶更のこと。
だからこれは―――もちろん
そもそもデボラがアビゲイルに声を掛けてくる理由など嫌がらせ以外にあり得ない。今から泥を投げつけられるとわかっているのだから、意趣返しくらいさせて欲しい。
案の定デボラはゆっくりとその真っ赤な口の端を釣り上げた。
「そういえば、最近あなたの坊やを見かけないわね」
―――ほら、やっぱり。アビゲイルは心の中で舌打ちをした。
「何のお話しかしら? 私には可愛い一人娘しかいないわよ」
内心の苛立ちを隠しながら、不思議そうに首を傾げてみせる。大丈夫。目敏い相手を忌々しく思いながら、アビゲイルは同時に安堵していた。
別にオルダス・クレイトンの正体がルディであるとばれたわけではない。デボラはただ、【
もしわかっていたら、黙ってこちらの寝首を掻く準備をしているだろう。
「いやだ、
けれど油断はできない。デボラ・ダルキアンは狡猾で冷酷な人非人だ。
「―――あの坊や、何か悪さでもしているのかしら?」
◇◇◇
シャロン・スペンサーの葬儀はしめやかに執り行われた。
アイシャの従姉だったというシャロンは数年前に離婚しており、現在は実家に出戻っていたという。
死因は自殺―――それも服毒死だったそうだ。噂ではシャロン・スペンサーは酒への依存が強く、近年は精神的にも不安定で錯乱傾向にあったらしい。遺書はなかったものの、日頃から安定剤も服用していたため、その死を不審に思う人間はいなかったようだ。
彼女が息を引き取ったのは、奇しくも従妹であるアイシャ・ハクスリーが殺害されたのと同日だった。
そこまで考えると、コニーはぞくりと背筋を震わせた。
―――シャロンを、探って。きっと何か知っているはず。
それが、事切れる寸前のアイシャの最期の言葉だったとオルダス・クレイトンは言っていた。
シャロン・スペンサーはアイシャの従姉だ。そして、セシリアの毒殺未遂の際に使用した毒瓶を手に入れた相手も確かこの従姉だったはずだ。
だとすれば、おそらくこれは自殺ではあるまい。
コニーは情報を探るため、シャロンの葬儀に参列することにしたのだ。
―――教会での献花が終わると、棺を埋葬するため他の参列者と共にスペンサー家の墓地に向かう。シャロンの墓碑の横では父親が生前の彼女について時折涙を見せながら話していた。
コニーは最後尾に立ち、何か不審な様子を見せる人間はいないかと参列者の様子を探っていた。
「え、コニー?」
すると突然、驚いたような声が掛けられる。思わず振り向いた先には―――
「ミレーヌ!?」
ゴシップ好きのちょっぴり無神経な友人がそこにいた。
◇◇◇
「まさかシャロンが亡くなるなんてね」
参列者による賛美歌が響き渡る中、ミレーヌはこっそりと耳打ちしてきた。コニーも小声で返す。
「知り合いなの?」
「義姉の古い友人なの。でも今は臨月だから来られなくて。それで代理を頼まれってわけ。私も何度か会ったことがあったしね。コニーは?」
「わ、私も、一応、代理で……! え、ええと、そうだ、ミレーヌ、彼女のことなにか知っている? その……ほら……ゴシップ的な……」
しどろもどろになりながら訊ねると、ミレーヌはぱっと顔を輝かせた。
「義姉から聞いたとっておきの情報があるの。聞きたい?」
願ってもない話である。コニーはこくこくと頷いた。
「ええとあれはシャロンが婚約していた時期だから……確か十年くらい前になるかしら。実は彼女、当時、婚約者以外におつき合いしていた男性がいたらしいの。シャロンって昔から地味だし真面目だったからそれだけでもびっくりなんだけど、問題はその相手よ。いったい誰だと思う?」
十年前。それはちょうどセシリアの毒殺未遂事件が起こった頃だ。コニーは思わずミレーヌを見る。
ミレーヌは、周囲を警戒するようにさらに声を顰めて囁いた。
「サイモン・ダルキアン―――現ダルキアン公爵よ」
―――誰だ? コニーは内心首を傾げたが、スカーレットがすぐに眉を寄せて口を開く。
『……サイモン? 十年前ならすでにデボラと結婚していたはずよ』
―――デボラ。
デボラ・ダルキアン。グラン・メリル=アンの星の間にコニーを召還し、査問と称して散々に甚振ってくれた相手。
つまり、サイモンという男はデボラの夫なのか。
思いもよらない名前に顔が引き攣る。その表情を見たミレーヌが、にやりと笑った。
「気づいちゃった? あのデボラを敵に回すなんて、背筋の凍る話よね。私は逆にゴシップの予感にわくわくしちゃうけど」
言葉を失っていると、突然、鼻で笑うような声が降ってきた。
「―――誰かと思ったらコンスタンス・グレイルじゃない。あなた、また騒ぎでも起こしに来たの?」
次いで視界に飛び込んできたのは悪夢のような赤い癖毛で、コニーは思わず低く呻いた。
「……出たな、アメリア・ホッブス」
しかし、その声はかねてからアメリアのファンを公言していた友人には届かなかったらしく、ミレーヌは「誰?」と不思議そうに首を捻っている。
「―――それにしても、同じ日にスペンサー家の血を引く人間がふたりも死ぬなんてね。よっぽど日頃の行いが悪かったのかしら」
急に話しかけてきたと思えば故人を嘲笑うような物言いに、ミレーヌがむっとしたように顔を向けた。
「どちら様か存じませんが、その言い方は失礼ではありませんか?」
アメリアは一瞬驚いたようにくすんだ緑の瞳を丸くした。しかし、すぐさま気を取り直したように顎を持ち上げ口を開く。
「メイフラワー社報道部編集長のアメリア・ホッブスよ。あなたも、この人騒がせなコンスタンス・グレイルのお仲間なのかしら?」
「はい?」
ミレーヌの眉が訝し気に吊り上がった。
「ああ、何も言わなくていいわ。何かあれば記事にするだけだから。どうぞ好き勝手暴れてちょうだい。それで今度は何をしたいの? またスカーレットごっこ?」
例によってコニーは赤毛の妄言を聞き流すことにしたが、ミレーヌは違ったようだ。底冷えするような低い声でアメリアに言い返した。
「……憶測で発言するのは真実を追うべき記者としてどうかと思いますけど?」
「あのね、真実を追うだけなら素人にでもできるのよ。大事なのはどうやって暴くのかってこと。言っておくけど、こちらはきちんとリスクを背負ってやっているの。ま、あなたみたいに何一つ苦労を知らないお子様にはわからないでしょうけどね」
アメリアはそう一気捲し立てると、呆気に取られるミレーヌには構わず「取材があるから」とその場を去って行った。
相手の姿が見えなくなると、ようやっとミレーヌは衝撃から解放されたらしい。
「ちょ、なにあれ……! なんなのあの上から赤毛……! 毛根ごと引っこ抜きたい……!」
「わかる、わかるよミレーヌ……!」
コニーは目に涙を浮かべながら友人の手を取った。ようやく得た同志である。
「ほんと信じられない……! アメリア・ホッブスがあんな性悪だったなんて……!」
ミレーヌの怒りは収まるどころかさらに勢いを増していくようだった。
「あんな考えの女に今の今まで憧れていた自分を引っ叩きたい! 今すぐに! 盛大に!」
「それはちょっと」
コニーは思わず手を引っ込める。
ミレーヌ・リースはその瞳に並々ならぬ決意を漲らせて、未来に向かって堂々と宣言をした。
「決めたわよ、コニー! 私ぜったいメイフラワー社に入ってやる! それであのふざけた赤毛が二度とペンを握れないようにしてやるわ!」