回想(リリィ・オーラミュンデ前編)
私は昔から負けることが大嫌いだった。
幸いなことに容姿も才能も人並み以上に備わっており、物心ついた頃にはすでに『神童』だともてはやされていた。確かに高みを目指すための努力は惜しまなかったが、向けられた称賛の中には当然父であるオーラミュンデ侯爵へのおべっかも含まれていたはずだ。しかし、まだ幼かった私はそんな単純な仕組みにも気づかないでいた。己が女神に選ばれた者だと信じて疑っていなかったのだ。
すべてが打ちのめされたのは五歳の冬のこと。
「―――ご覧、リリィ。あれがカスティエル公爵のお嬢さんだよ」
朝からたっぷり時間をかけてめかしこみ、父に連れられてやって来たのは壮麗なお屋敷だった。オーラミュンデ邸すらも霞むような贅を凝らした豪奢な内装に圧倒されたのを覚えている。
その日はカスティエル公の一人娘の誕生祝いが執り行われていた。歓声と拍手が鳴り響く中、父親に手を引かれながらゆっくりと螺旋階段を降りてきた少女に私は一目で心を奪われた。
なんて美しい子なのだろう。
夜を切り取った波打つ黒髪に、透けるように白い肌。星を散りばめたようにきらきらと輝く紫水晶の瞳。そして、子供らしからぬ大人びた微笑。そのすべてが息を呑むほど美しかった。
負けた。その瞬間、私は生まれて初めて敗北というものを知った。どんなに高価な宝石を身に着けても、どんなにきらびやかな衣装を用意しても、きっと、この美しさには敵わない。
その事実が、ひどく悔しかったことを覚えている。
「―――はじめまして。オーラミュンデ侯爵が娘、リリィ・オーラミュンデと申します」
それは、主役の少女に挨拶をしに行った時のことだった。今思えば少なからず対抗心があったのだろう。
しかし少女の反応は素気なかった。ちらりとこちらを一瞥すると、「あら、ひどいお顔ね」と告げただけ。
「……しつれいですが、ぶれいではありませんか?」
動揺を押し殺しながら訊ねると、相手はまるきり意に介した様子もなく肩を竦めた。
「だってほんとうのことだもの」
そして、そのままあっさりと身を翻して立ち去ろうとする。
かっと頭に血が上った。
「お、おまちください! わたしは、さきほど、きちんとなのりました! あなたも、おなまえをおっしゃるのがれいぎです……!」
声を張り上げると、少女は足を止めてこちらを振り返った。それからにっこりと微笑むと、私に向かって優雅に一礼をする。その仕草を見て、頭に冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。それは、まるで非の打ち所のない淑女の礼だったのだ。
「スカーレットよ。スカーレット・カスティエル。でもね、お言葉だけど、さきにぶれいなことをしたのはそちらだわ」
何を言っているのだと、私は眉を寄せて少女を睨んだ。
「ほら、その目。おまえ、かがみを見たことがないの? とってもつめたくて、いやな目をしているわ。メーガンおばさまとそっくり。おばさまはね、いじわるで、みんなからきらわれているのよ」
「え……?」
「おまえもわたくしに、いじわるなきもちをもっていたでしょう? それはぶれいなことではなくて?」
私は思わず言葉を失った。確かにその通りだった。私は少女の美しさに嫉妬して、恥をかかせてやろうと思っていたのだ。
「そういうふるまいはね、レディとしては『どさんりゅう』なのよ」
「どさ……?」
「お母さまのくちぐせよ」
そう言うと、スカーレット・カスティエルは誇らしげに胸を反らした。
―――それが、私とスカーレットの出会いだった。
◇◇◇
スカーレットの母親であるアリエノール・カスティエルはカスティエル公爵の後妻であり、海の向こうにあるソルディタ共和国の出身だった。
当時は気づかなかったが、今考えてみると不思議な話である。
カスティエル公爵の前妻であるベロニカは、長子マクシミリアンを産んですぐに愛人と駆け落ちしている。公爵とベロニカは数年後に教会から正式な離縁が認められおり、つまり、後妻を迎えても問題はない。
問題は、アリエノールが貴族ではなかったということだ。
愛人として屋敷に置くならともかく、正式な奥方として迎えるというのは公爵家としてはあり得ない行動である。
そのため彼女はどこぞの有力貴族のご落胤か、亡国のやんごとない血でも引いているか―――とにかく公にできない事情があるというのが周囲の認識だったようだ。
私がアリエノール・カスティエルの訃報を知ったのは、スカーレットとの出会いから一年ほど経った春先のことだった。後から聞いた話だが、彼女は生まれつき体が弱く、娘を産んでからはほとんど病床に伏していたという。
当時の私は、まだ身近な人の死というものを経験したことがなく、スカーレットの母が亡くなったと聞かされても、まるで遠い異国で起きたことのように現実感がなかったのを覚えている。
「―――なにかご用?」
ほんの数カ月前に母を失ったというスカーレットは、怪訝そうな表情でこちらを見てきた。
その姿は、まるきりいつもと変わりがない。
「あら思ったよりお元気そうじゃない。てっきりめそめそ泣いているかと思ったわ」
なので、こちらもついつい憎まれ口を叩いてしまう。彼女は、ふん、と鼻を鳴らした。これもいつも通りである。
スカーレットはわざとらしくため息をついた。
「これから毎日お前と顔を合わせると思うと気がめいるわね」
季節は初夏。やってきたのは緑豊かなグリーンフィールズ―――王室の直轄領のひとつである。
この夏、オーラミュンデ家とカスティエル家は、陛下から日頃の献身を讃えるという名目で王族の避暑地に招かれていた。珍しく両家とも娘を連れてきたのは偶然ではなく、病気療養中の第一王子の遊び相手として選ばれたからである。慰労というのは建前だったのだろう。
乳母やの背中に隠れながらやってきたエンリケ殿下は、ひとつ年上だと言うのにずいぶんと幼く見えた。同年代の子よりも長身だった私はもちろん、スカーレットよりも背が低い。肌は不健康に青白く、体も薄かった。力を入れたらぽきりと折れてしまいそうだ。
ここに来る前に父からは「殿下はお身体が弱いため、くれぐれも激しい運動は避けるように」と何度も念を押されていた。同じ年頃の男児ではなく、私たちが選ばれたのもそういった理由からだろう。
しかし、肝心の相手が交流する気がない場合はどうしたらいいのだろう。乳母やが困り果てた様子で殿下に声を掛けるが、エンリケはぶんぶんと首を振ってはさらに後ろに回っていく。そしてしまいには俯いてしまった。
こちらから声を掛けることもできずに戸惑っていると、ずい、と艶やかな黒髪が前に出た。
「ごきげんよう。わたくしはスカーレットよ。スカーレット・カスティエル、というの」
―――不思議なことに、スカーレットの声は決して大きいわけではないのにいつだってよく通った。
「お前、口がないの?」
威圧的な物言いにエンリケは驚いたように目を見開くと、怯えたように一歩後退った。それから消えてしまいそうなか細い声で初めて発言をした。
「……ぶ、ぶれいだぞ。わ、わたしが誰だか、しらないのか?」
その言葉にスカーレットはぴくりと眉を釣り上げると、不敵な笑みを浮かべる。
「まあ、おばかさんね。きちんとなのりもしない相手のことを、知っているわけがないじゃないの」
私は焦った。いくらカスティエル家の身分が高いとはいえ、相手は王族である。
「す、スカーレット!」
小声で窘めるが、逆に堂々とした口調で言い返されてしまう。
「なによ。わたくしはきちんとなのったわよ。ぶれいものはどちら?」
その声は、やはり、よく通った。殿下の表情が憮然としたものになる。
「……エンリケだ」
スカーレットは満足そうに微笑んだ。
「あら、ふつうにしゃべれるじゃない。お前、ひきこもりなんですってね。ついてらっしゃい、いいものを見せてあげるわ」
そう言うと、殿下の手を取って足早に進み始める。私は再びぎょっとしたが、乳母やも、控えていた護衛達も何も言わなかった。今だからわかるが、スカーレットにはスカーレットの役割があったのだ。あの頃の殿下は、おそらく、外の世界を嫌っていた。同じ年頃の子供たちが自由に走り回る中、自分だけがそれを許されないのだ。ならば、最初から存在しないものとして扱えばいいと考えたのかも知れない。
グリーンフィールズ城は、ちょうど領地全体を見下ろせる丘陵の山頂部分に位置していた。スカーレットは護衛を引き連れたまま屋敷を出ると、ぐるりと周囲を見渡し、見張り台のある城壁に向かって行った。彼女は決して走らなかった。歩みは早いが、一歩一歩、大地を踏みしめていく。初めは狼狽えていたエンリケだったが、次第に目には輝きが灯り、頬が紅潮していく。
ようやっと石造りの見張り台までたどり着き、内部にある急勾配の階段を登り終えた先には、開放的な眺望が広がっていた。
「―――見て」
スカーレットが指差した先では、村に向かってなだらかに下っていく坂一面にオリビの木々が白い花をつけて揺れている。遠くなるにつれ空との境界は曖昧になり、藍色に霞がかっているようだった。
空は雲をたなびかせながら青く晴れ渡っている。
爽やかな風が通り抜け、髪や衣装をはためかしていった。
「……きれいだ」
エンリケがぽつんと呟いた。
「でしょう? 屋敷の中にいるばかりではもったいなくてよ。だって世界はこんなに広いのだから」
そう言うと、スカーレットは屈託のない笑みを浮かべた。エンリケは眩しそうに目を細め、眼下に広がる光景を見つめている。
私は少し離れたところで二人の様子を伺っていた。しばらくすると、視線に気づいたスカーレットと目が合った。彼女は
「お母さまの、くちぐせよ」