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 再びリリィ・オーラミュンデの鍵の謎は暗礁に乗り上げてしまった。まさか探るべき対象が鍵ではなく、刻印の方だったとは。



 【豊穣の館(フォールクヴァング)】でランドルフ・アルスターから新事実を伝えられた翌日。鍵の謎を一晩寝ずに考えたが、もちろん答えは出ないままだ。


 今日のコニーは婚約関係の手続きの件で教会に用があったため、アナスタシア通りにまで来ていた。進展しない現状に頭を抱えながら歩いていると、唐突に声を掛けられる。

「失礼、お嬢さん」

 振り向いた先にいたのは、太陽のような金髪を無造作に束ねた背の高い女性だ。ライラック色の瞳に、頬にはそばかすが散っている。眉は太く、健康的な容貌だ。観光客だろうか。背中には布に包まれた身の丈ほどの何かを背負っている。

「ちょっと道を聞いても? 観光に来ているんだけど」

「え、ええ、もちろん。お一人ですか?」

 女性のひとり旅は珍しい。疑問に思って訊ねると、彼女はきょとんと目を瞬かせた。それから「ああ」と合点がいったように呟き、口元を綻ばせる。

「いいや、連れがいるよ。でも、いつの間にか姿が見えなくなっていて。どこに行ったのかな、あいつ」

 そう言うと、ぽりぽりと頭を掻いて広い通りを見渡した。しかし、やはり見当たらなかったらしく、表情を苦笑に変える。

「……もしかしたら先に目的地に行っているのかもと思ってね。グラン・メリル=アンに行きたいんだ。この国を訪れるなら、一度は観ておく必要があるだろう?」

 確かに絢爛豪華な小宮殿は王都の名所の一つである。幸い、ここから歩いて行ける距離でもあった。

 コニーは頷くと、通りの前方を指さした。「それならしばらく大通りに沿ってサンマルクス広場を目指して―――」

 しかし説明の途中で、どこからともなく飛んできた悲鳴のような声に遮られてしまう。

「―――サン!」

 声とともに慌てたようにこちらに駆け寄ってきたのは月光のような髪を背中に流した細身の美人だ。

「探しましたよ! いくら物珍しいからって、勝手にふらふらしないで下さいとあれほど言ったでしょう! あなたは方向音痴なんですから!」

「ん? 私じゃなくてエウラリアが迷子になりやすいんだろう? 私は道を聞いていただけだよ」

 サン、と呼ばれた長身の女性はそう言うとおおらかに笑った。眉を吊り上げて相手に詰め寄っていた美人は、その台詞にがっくりと肩を落とす。

「ええ、ええ、そうでしょうとも……! 私が迷子になっているんでしょうとも……! あなたを見つけるのはいつも私ですけどね……! ほら、さっき食堂でもらったこの観光用の冊子! あなたはいらないと言ったけど、このグラン・メリル=アンのページの下にアデルバイド文字と数字が書いてあるでしょう? これが巻頭に付録としてついている地図での建物の位置を示すんです。アデルバイド文字は縦、数字は横ですね」

「おお! 物知りだな、エウラリアは!」

 大袈裟な称賛に、エウラリアという名の美人はじとりとした視線を向けた。

「大きな都市なら、大抵どこの国にもありますよ。世間知らずもたいがいにしてくださいね。二冊もらってきたので、一冊持っていてください。ほら、行きますよ。ちゃんとそこの方にもお礼を言ってくださいね」

 細い体のどこにそんな力があるのか、彼女はサンの襟元を掴むと豪快に引き摺っていった。迷いのない足取りを見るに、目的地までの道筋はわかっているらしい。

 ずるずると引き摺られていたサンは、子供のような満面の笑みをコニーに向けた。

「ありがとう、親切なお嬢さん。私はサンと言うんだ。お礼は別の機会にでもさせてくれ。あ、これあげるよ。だって私は方向音痴ではないからね」

 そう言って片目を瞑ると、流れるように自然な仕草で小冊子を押しつけてくる。すぐさまエウラリアが振り向いて睨みを利かせたが、当人はまるきり気にした様子もない。にこにこと笑いながらコニーに手を振っていた。

「ああ、そうだ、お嬢さんの名前は?」

「こ、コンスタンスです。コンスタンス・グレイル」

「グレイル?」

 サンは一瞬目を瞬かせ、それからゆっくりと口の端を持ち上げた。


「それは―――すてきな名字だ」





『あの大きな荷物、何かしらね?』

 小さくなっていく二人の後ろ姿を見送りながら、スカーレットが首を捻った。

「……スカーレット」

『なによ』

「……リリィさまの鍵に刻まれていた文字、覚えてる?」

『は? もちろん覚えているけれど―――』

 スカーレットは怪訝そうに眉を寄せたが、コニーはそれどころではなかった。


「わ、私、わかっちゃったかも、知れない……!」


 そう言って震える声で彼女を見上げれば、スカーレットは不思議そうにぱちくりと瞬きをした。


 ―――コニーの手元には、先ほどサンから渡された小冊子がある。観光客向けの手引書パンフレットのようなもので、王都のどこにでもあるものだ。先ほど何の気なしに一頁を開いて、既視感を覚えた。そこに書かれていたのはアデルバイドの気候や風土についての説明だ。簡潔でわかりやすく、特におかしい箇所はない。けれど、何かが引っ掛かる。この文章を、以前にも読んだことがある気がする。

 いったいどこで―――


 懸命に記憶を辿って��ると、ふいに思い出した。リリィ・オーラミュンデの遺したメッセージだ。


 『エリスの聖杯』という文字が書き殴ってあった紙の切れ端。どこかに手がかりがないかと、印字してある文章も読み込んだ。だから記憶の片隅に残っていたのだ。これはその文章だった。そしてあの時、確か、こうも思ったはずだ。

 おそらくこれは市庁舎辺りが観光客用に書いたものだろう―――と。


 つまり彼女はこの小冊子を使ったのだ。あの時は関係ないと思っていたが、もし、そこに、意味があったとしたら? 


 『エリスの聖杯』というメッセージだけでなく、書かれていた()()()()()意味があるとすれば―――


『……P10E3ね』


 その言葉を聞くと、コニーはゆっくりと息を吐き出した。


 P10E3―――おそらくP10は冊子の十(ページ)を意味するはずだ。コニーは震える手でページをめくっていった。そこには見開きで王都の簡易地図が描かれており、縦と横に格子線が引かれて等分割されている。


 ―――アデルバイド文字は縦、数字は横ですね。


 エウラリアという女性も言っていたではないか。文字と数字を組み合わせて地図上での場所を指すのだ。つまり、Eは縦を、3は横の座標を表している。そして、それが示す先は―――


「サンマルクス、広場」


 そこは、かつてスカーレット・カスティエルが処刑された場所だった。


 故意なのか、偶然なのか。けれどこれで一つ駒を進めることができた。ただし、思ったよりも範囲は広大だ。広場には市庁舎もある。ここからどうすればいいのかとコニーが唇を噛みしめていると、スカーレットがぽつりと呟いた。

『―――歴史資料館』

「え?」

『この前、ランドルフ・アルスターと行ったでしょう? オーラミュンデ家の寄贈品もあったじゃない。あそこなら常に警備の目があるし、保管は厳重。何かを隠すには持ってこいだと思わなくて?』



◇◇◇



 人気ひとけのない館内に靴音が響く。警備の姿はなく、そこにいるのはランドルフとコニーだけである。

 コニーから事情を聞いたランドルフ・アルスターは、コニーを連れてすぐさま資料館に向かった。そして館長を呼び出すと「何者かが館内に不審物を仕掛けた疑いがある」と告げて人払いをしたのだ。


「さすがにオーラミュンデ家の聖典を傷つけるためとは言えないからな」

 しれっと嘘をついた死神閣下は、そう言うと借りてきた鍵の束を持ち上げた。スカーレットが深く頷く。

『賢明ね。そんなこと知ったら卒倒するもの。それに、何者か(リリィ)が不審物を仕掛けたっていうのは本当だわ』

 そんな軽口を叩いていると、例の寄贈品の前までたどり着いた。ガラスケースには黄ばんだ古書が、手前には真新しい複製品がある。


『隠すとしたら、複製品レプリカではなく原物オリジナルの方ね』

「で、でも、これって歴史的価値が高いものなんじゃ……」

 かつて聖女アナスタシアが女神の使者から授かったと言われる聖典のひとつだ。数代前のオーラミュンデ当主が方々に手を尽くし、やっとの思いで闇競売にて競り落としたとも言われる非常に貴重なものである。

 スカーレットは訳知り顔で頷いた。

『ええ、だからよ。値がつけられないものとわかっていたら、誰も手を出そうとしないでしょう?』

「なんつー罰当たりな……」

『そういう女よ』

 気のせいだろうか、ずいぶん前にも全く同じような会話をした気がする。

「開けるぞ」という言葉とともにガラスケースに鍵が差し込まれた。途端、埃と黴の匂いが鼻につく。

 ランドルフは慎重な手つきで聖典を取り上げた。

「……見た限りでは、変わったところはないが」

『でしょうね。だって、何かの機会に人目に触れるかも知れないもの。わかりやすいところには隠していないはずよ。リリィなら―――そうね、裏表紙はどう?』

「スカーレットが、裏表紙に何かないかって言っています」

 そう告げると、ランドルフはゆっくりと裏表紙に指を這わせていった。しかし、何もなかったようだ。首を振ると、今度は聖典を開いて裏表紙裏を確認していく。

 次の瞬間、片眉がぴくりと吊り上がった。

「……わずかだが凹凸があるな。これは……紙を張り替えた跡か……?」

 呟くと胸ポケットからナイフを取り出した。あっと驚くコニーの前で、まるで郵便の封でも切るように躊躇いなく刃先を滑らせていく。どうやらリリィ・オーラミュンデだけでなく、死神閣下にとっても歴史的遺産はそれほど価値がないらしい。

「―――あったぞ」

 そう言って取り出したのは白い封筒だった。




◇◇◇



 グラン=メリル・アンの噴水前で、観光客と思われる女性ふたりがにこやかに談笑していた。

「あいつ、遅くね? とうとう死んだか」

「ご老体なので移動にお時間がかかるのでしょう」 

 内容は穏やかではなかったが、傍から見ればのどかな光景である。

 待ち人は、ほどなくしてやってきた。



「よー爺。相変わらず禿散らかしてんな」

 サンは口の端を吊り上げると、気楽な調子で片手を上げた。

「……心配ごとが多いもので」

 対する相手は苦い顔を浮かべている。

「アレクサンドラ殿下が幽閉されたと聞けば、尚のこと」

 ファリスから派遣されてきた特使であるケンダル・レヴァインは、そう言うとわずかに目を眇めた。そして、何かを見極めようとするような視線を向けてくる。

「ああ、そうだ。アリーの奴を早く出してやんないと」

 サンはその窺うような視線を受けとめ、しっかりと頷いた。本来であれば何をおいても『彼女』を助けに行きたい。けれど。

「でも、今はユリシーズの件を解決するのが先決だ」


 けれど、そうはいかない事情がある。


「―――第四殿下テオフィルス率いる開戦派は、アデルバイド側が先に第七殿下に害をなしたということにしたいようだ。奴らはこの肥沃な土地を手に入れる大義名分が欲しいのさ。十年前に仕掛けた時はアデルバイドにしてやられたようだけどね」


 サンは顔を上げると、ケンダル・レヴァインを睨みつけた。


「あの子がこのまま見つからなければ―――戦争になるぞ」




 ◇◇◇




 ランドルフは聖典から取り出した封筒をコニーに手渡した。宛名はないが、それ以外は何の変哲もないものだ。コニーは思わずランドルフを仰いだ。紺碧の瞳と目が合うと、しっかりと頷かれる。―――ええい、ままよ。コニーを大きく息を吸い込み封を開けた。心臓が早鐘を打つ。中には便箋が数枚入っているようだった。緊張で冷えた指先で、それを摘まみ上げる。

 口の中がひどく渇いていた。

 コニーは、震える声で便箋の内容を読み上げた。


「……エリスの聖杯とは、」




 ―――それは、十年前にアデルバイドで行われた極秘任務の通称である。


 工作活動を担ったのは【暁の鶏(ダェグ・ガルス)】。大陸全土に構成員を持つ巨大な犯罪組織である。しかし、実際に計画を立てたのは彼らではない。おそらくは任務遂行のために雇われたのだと推察する。


 陰で全ての糸を引いていたのは、同盟国ファリスだ。


 つまり、エリスの聖杯とは―――



 アデルバイドを()()するためにファリスが実行した軍事作戦のことである。

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