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 その日、オルダス・クレイトンは編集長のマーセラから命じられ、ハクスリー邸に赴いていた。アイシャ・ハクスリーの告白を記事にするためだ。


 明け方から降り始めた雨は徐々に勢いを強め、今ではざあざあと耳障りな音を立てていた。太陽はどんよりと湿った分厚い雲によってとうに覆い隠されている。オルダスは馬車から降りると、泥濘ぬかるんだ地面に足をつけた。足跡はついた傍から流されて行く。


 雨は、女神の涙とも言われている。創世記の一節によれば、それは、地上で起きた罪を洗い流すために降るという。


 だとすれば―――今日の涙はいったい誰のために流されているものなのだろうか。



◇◇◇



 用件を伝えれば、年嵩の侍女が現れた。奥様は自室にいらっしゃいます、そう嗄れた声で言うと、オルダスを先導するように長い廊下を歩いていく。

 以前からなのか、それとも今日だけなのか、邸内はひどく薄暗かった。ぎしぎしと甲高く軋む螺旋階段を上りきると、侍女が立ち止まった。オルダスの方を振り返り、この突き当たりにアイシャ・ハクスリーの部屋があると告げる。

「人払いは済ませております」

 侍女は表情を変えることなく一礼すると下がっていった。つまり、ここから先は一人で行けということだろう。

 歩き出すと、ちょうど奥の一室からワゴンを押した若い従僕が出てきた。白いシーツの上には陶器のカトラリーケースやポットが置かれている。お茶の仕度でもしていたのか。ひょろりとした体躯の青年は、オルダスと目が合うと静かに目礼をした。そのまま廊下の端に寄ると、客人を先に通らせるために頭を垂れる。

 使用人の前を通り過ぎ、扉をノックしようとしたオルダスは、そこで、ふと違和感を覚えた。


 ―――あの侍女は、()()()()()()()()()と、言っていなかったか?


 はっと振り向けば、そこにはもう誰もいない。空のワゴンだけが残されているだけだ。

 くそったれ、とオルダスは口汚く吐き捨てた。


「アイシャ!」

 室内に踏み込めば血まみれの女が床に倒れていた。ひどい出血量だが、かろうじて意識はあるようだった。慌てて抱き起こすと傷口を確認し―――息を呑む。頸動脈がすっぱりと切られていた。見事な切り口だ。傍には血の付いたデザートナイフが転がっている。

 思わず言葉を失っていると、腕の中の女性がわずかに身動ぎをした。

「……れ、例、の、びん、は、とら……れた、わ」

「喋るな。今止血する」

 そう言って動こうとしたオルダスを、弱々しい視線がとめる。

 まるで、もうわかっている、と言うかのように。


「……あれ、は、暁の、鶏、のサル、バド、ル」

 先ほど従僕に扮していた青年のことだろう。オルダスはアイシャと目を合わせるとしっかりと頷いた。

「従姉、を、シャロンを、さぐって……きっと、なにか、しってる、はず……」

「わかった。他には?」

 徐々にアイシャの瞳孔から光が失われていく。彼女は、ひゅーひゅーと咽喉を鳴らしながら、しっぱい、しちゃった、けど、と途切れ途切れに言葉を漏らした。

「すかー、れっと、は、ゆるして、くれるかな……?」

 その問いに答える術をオルダス・クレイトンは持っていなかった。アビゲイルのように生前のスカーレット・カスティエルを知っているわけでもないし、ルチアのように彼女の姿が見えるわけではない。

「―――ああ」

 けれどオルダスは躊躇いなく肯定した。おそらくコンスタンス・グレイルならばそう言うだろうと思ったからだ。


 それに、雨はまだ降っている。


 女神の涙は、彼女の罪を洗い流してくれるだろう。


「よかっ―――」

 少女のように口元を綻ばせたまま、アイシャ・ハクスリーは事切れた。

 オルダスはその目元にそっと掌を翳し、瞼を閉じさせる。それからすぐに今の状況について考えを巡らせた。


 奴らに先手を打たれた。それは間違いない。情報がどこから漏れたかは後で考えるとして、問題は、わざと己を狙ったのか、と言うことだ。


 つまり、オルダス・クレイトンが【豊穣の館(フォールクヴァング)】の用心棒ルディであることを知っていて―――引いてはアビゲイル・オブライエンを陥れるものだったのか、どうか。答えはすぐに出た。その可能性は限りなく低い。オルダスの派遣は今朝がた決まったことだ。もともと他の適任者が向かう予定だったのだが、この雨で出勤が遅れたため急遽オルダスに白羽の矢が立った。

 つまり、誰でも良かった。連中の狙いは、アイシャを殺した犯人をすぐに捕まえてもらうことだ。突発的な事件として捜査を終わらせてしまいたいのだ。よほど彼女の周辺を嗅ぎまわられたくないに違いない。


 罠はすでに仕掛けられている。後は鼠がそこに嵌まるのを待つだけだ。オルダスが捕まればアイシャ殺害の証拠が次々に出てく��という仕組みだろう。


 ならば奴らを出し抜く方法は―――ひとつだけだ。


 オルダスは手早く部屋の角に備え付けられていた眺望用の出窓を開けた。途端、強風が吹き込んできて髪を流していく。階下を見下ろせば、幸いなことに立派なオークの木があった。うまく落ちれば衝撃をやわらげることが出来るだろう。ついでに庭の俯瞰図も頭に叩き込んでおく。

 ばたばたと慌ただしい足音が聞こえてくる。大方サルバドルとかいう男が呼んだのだろう。用意周到なことだが、逆を言えば好機でもある。使用人たちが何事かと二階に集まってきている今なら、門の裏手から逃げられるはずだ。


「ひ、人殺し……!」

 開け放たれたままの扉の向こうで誰かが叫ぶ声がする。オルダスは小さく舌打ちすると窓枠に足を掛け、そのまま宙へと身を躍らせた。






 ぽつぽつと雨垂れが床を打つ音がする。老朽化の進んだ建物の天井は部分的に腐り落ち、そこから雨が漏れているのだ。床板は所々剥がれ、壁はひび割れていた。それでもステンドグラスで女神の姿が描かれたアーチ形の天窓だけは悠然とこちらを見下ろしている。

 ここは貧民窟にある教会だった。

 小汚いフードを目深に被った女が礼拝用の長椅子で熱心に祈りを捧げていると、気配もなく猫背の青年がやってきた。青年は、膝に顔を押しつけるようにして指を組んでいた女の隣に腰を下ろすと、鼻歌でも歌うように能天気な声を出す。

「キリキ・キリクク」

 女は小さく溜息を吐くと、「寝転んで治めよ」と答えてゆっくりと顔を上げた。




「―――聞いたわよ。逃げられたそうね」

「みたいだねえ」

 サルバドルはそう言うと他人事のように首を竦めた。セシリアは思わずじろりと睨みを利かせる。けれど相手はその咎めるような視線を受け流してへらりと笑うと、そのまま「あのさァ」と言葉を続けた。相変わらず、この青年は何を考えているのかよくわからない。


「なんか勘違いしてない? 俺の今回の任務はあの鶏ガラ女を始末することだけで、それ以外は管轄外。ついでに言えば今回の計画を立てたのはクリシュナで、人員を手配したのもクリシュナ。つまり、失敗したのは俺じゃなくてクリシュナなわけ。文句があるならあいつに言いなよ。確か今は―――ルーファス・メイだっけ?」

 銅色の瞳が愉しそうにくるりと回った。クリシュナとサルバドルは日頃から折り合いが良くないと聞いていたが、どうやらそれは本当らしい。彼の態度は心の底からクリシュナの失態を歓迎しているようだった。


「―――にしても、まさか、たかが記者にしてやられるなんてねえ。アメリア・ホッブスが言うには、オルダスって男はうだつの上がらない気弱なぼんくららしいけど、本当は何者かな」

 作戦内容についてはセシリアも事前に聞いていた。だから、あの状況でまんまと逃げおおせることができるとは思ってもみなかった。確かに何か裏がありそうだ。


 でも、今はそいつの正体はどうでもいい。


「―――とにかく、早く見つけて捕まえて。アイシャの身辺を詳しく捜査されると厄介なことになる」

「だからわざわざ犯人がすぐ捕まるような状況を作ったんだもんね? ―――でもさあ、スカーレット・カスティエルの処刑って別に俺たちが関わってたわけじゃないし、今回の件は放っておいても良かったんじゃない?」

 十年前のサルバドルの任務は今とほとんど変わらない。セシリアやクリシュナのように表舞台にはいなかった。だから詳細は知らないのだろう。

 確かにスカーレット・カスティエルの処刑は【暁の鶏(ダェグ・ガルス)】にとっても()()()()()()()だった。

 ―――けれど。

「アイシャが誰からあの瓶を手に入れたかというのが問題なのよ」

 けれど、関りが全くないわけではない。現にアイシャが手に入れたのはまだ試験段階のジャッカルの楽園だったのだ。結果的に言えば、あれは失敗作である。より依存性を高めるつもりだったのに、毒性の方が強くなってしまった。

「ああ、シャロン・スペンサーだったっけ。口は災いのもとだね、ほんと。今度からは気をつけてもらって―――って、もう死んでるか」

 サルバドルが皮肉気に笑う。―――そうだ。今頃シャロンも別の者が手を下しているはずだった。

「さすがにやりすぎじゃない? あんまり派手な行動をしてると、足元を掬われるよ」

「……十年前は、些細な偶然を捨て置いて失敗したのよ」

 だから今回は慎重に芽を潰していくのだ。けれどサルバドルの考えは違うらしい。どことなく責めるような表情を見ていると、セシリアの中にひとつの疑念が浮かんでくる。

「まさか、わざとじゃないわよね」

「ん? なにが?」

「わざとオルダス・クレイトンを逃がしたんじゃないでしょうね。―――あんた前にも一回仕留めそこなったでしょう」

 サルバドルはきょとんと目を丸くすると、首を傾げた。

「前? あー()()か」

 やがて合点が言ったように声を上げると、可笑しそうに顔を歪める。

「あれは、セスのせいだろう? セスが、()()()はただの貴族のお姫さまだって言ったんじゃないか。偽善者面した優しいだけの良い子ちゃんだから心配ないって」

「それは―――」

「でも、そのお姫さまにしてやられたのは誰だったっけ? ()()()()()()を探り当てられたのは? それだけでも目を覆うような失態だ。なのに、肝心の情報はどこかに隠されたときた。上からは殺してもいいから吐かせろってことだったけど、こっちの手が届く前に自害を選ばれたらどうしようもない。お手上げだよ。もう何年も経つのに、いまだに隠蔽場所もわからないんだろう? 唯一わかっているのは、どうやら手掛かりとなる鍵があるってことだけ」


 サルバドルはくつと咽喉を鳴らすと、わずかに目を眇めてセシリアを見た。


「実際たいしたもんだったよ―――リリィ・オーラミュンデはね」



◇◇◇



 がしゃん、と指から滑り落ちたティーカップが床に叩きつけられ粉々になる。足元は濡れ、椅子の周りに破片が飛び散った。マルタが慌てた様子で箒と布巾を取りに行く。それでもコンスタンス・グレイルはぴくりとも動かなかった。否、動けなかった。愕然とした様子で目を見開いている。

 彼女の目の前には届いたばかりの新聞の一面があった。


「どういう、こと……?」


 ―――記事には、アイシャ・ハクスリー子爵夫人の殺害容疑でメイフラワー社のオルダス・クレイトンが指名手配された、と書かれていた。


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