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「―――お前、わたくしを、一体誰だと思っているの?」
答えなど、とっくの昔にわかりきっていた。アイシャの中で何かが音を立てて崩れていく。
わかっていた。本当はわかっていたのだ。自分可愛さに目を瞑っていただけだ。全部、アイシャが引き起こした。アイシャのせいだった。
スカーレットを殺したのは、アイシャだ。
目の前が真っ暗になる。気がついた時には部屋を出る前に忍ばせていた護身用のナイフを取り出していた。
まさか、これを使う羽目になるとは思ってもみなかった。
「―――だめ!」
刃先をそのまま心臓に突き立てようとした瞬間、アイシャの懐に誰かが飛び込んできた。
「死んでどうするの!? あなたが死んだって、スカーレットにしたことがなくなるわけじゃない!」
強い力で手首を掴まれる。ナイフがころんと転がっていく。
そこにいたのは、もう、スカーレット・カスティエルではなかった。
はっとするように鮮やかな若草色の瞳が抜け殻のようなアイシャを映す。
「あなたは、生きて償うべきだ」
◇◇◇
コンスタンス・グレイルの言葉を聞くと、アイシャは悔やむように唇を噛みしめ、小さく頷いた。そして、そのまま糸が切れたように崩れ落ちる。どうやら気を失ってしまったらしい。
使用人を呼べば、倒れた夫人に驚いた素振りもなく手慣れた様子で介抱していく。もしかしたらよくあることなのかも知れない。枯れ枝のように細い体を見ながらコニーはそう思った。
スカーレットは燃えるような瞳でアイシャを睨みつけている。
コニーは悩んだ。このまま憲兵を呼ぶべきか、否か。けれど、現状で証拠と呼べるようなものはない。自白に関しても、彼女に否定されたらそれまでだ。それに、まだいくつか明らかになっていない謎がある。アイシャを拘留できたとしても、耳飾りの時のようにまた何者かに先手を打たれたら―――
だとすれば、動くのは、もっと証拠を揃えてからの方がいい。
「……行こう、スカーレット」
声を顰めて促すと、コニーはハクスリー邸を後にした。
「―――大丈夫か?」
正門の前ではランドルフ・アルスターが待っていた。今日アイシャに会うことは事前に伝えてあったので、おそらく様子を見に来てくれたのだろう。
そのいつもと変わらぬおっかない顔を目にした途端、コニーはどうしてか泣き出してしまいそうになった。けれど、ぐっと堪え、状況を簡単に説明する。
「……アイシャでした。あの人が、リュゼ家の水甕に毒を入れたんです。でも、本人は毒だとは知らなかったって。それに、耳飾りをすり替えたのも、毒瓶をスカーレットの部屋に隠したのも、自分じゃないと言っていました」
「そうか。証拠になりそうなものは?」
「その時の小瓶を持っていると」
「十年前のものか。立証に時間がかかりそうだな」
ランドルフは眉間に皺をよせ、紺碧の双眸をわずかに細めた。
「あと、十年前と関係があるかどうかはわかりませんが、アイシャはジャッカルの楽園を常用しています」
「……やはり【
コニーは、こくん、と頷いた。もっと詳細を話す必要があるのに、ひどく疲れてしまって口が動かない。その様子を見たランドルフはわずかに眉を上げると、「屋敷まで送ろう」と話を切り上げた。そのまま手を取られて、馬車に乗り込む。向かい合わせに腰掛けると、ランドルフは、無言のまま持参した資料を広げていった。
車内に響くのは、紙をめくる音だけだ。ランドルフが忙しそうにしているので、コニーは何も話さないことを気まずく感じる必要がなかった。
だからつまり―――それはコニーのためだったのだろう。
けっきょく車中では一言も会話を交わすことなく屋敷に到着してしまった。さすがに申し訳なくなり閣下を見上げれば、気にするなと言うようにぽんぽんと頭に手が置かれる。
「落ち着いたら、また詳しい話を聞かせてくれ」
◇◇◇
『どうして、とめたのよ』
部屋に戻れば、スカーレットの声がぽつりと落ちた。
『あんな女、あのまま死なせてしまえば良かったのに。どうせ捕まえることが難しいなら、さっさと地獄に落ちてしまえばいいんだわ……!』
『ばかコニー! どうして助けたの!? あの女だったのよ! あの女のせいで、わたくしは―――』
「だからって!」
コニーも声を振り絞って応戦した。
「だからって、スカーレットの言葉で死のうとするなんて、冗談じゃない!」
あの時、あまりにも躊躇なく命を投げ出そうとしたアイシャ・ハクスリーを見て、コニーが感じたのは紛れもない怒りだったのだ。
「最後までスカーレットを言い訳に使うなんて、許せるわけないじゃない……!」
スカーレットが驚いたように目を見開く。
コニーはぐっと拳を握りしめて、言葉を続けた。
「それに、今ここでアイシャが死んだら手がかりがつかめなくなるかも知れないでしょう? だって小瓶の中身を毒とすり替えた人間がいるはずだもの」
『そのことだけど―――もしかしたらアイシャが知らないだけで、あれは元々毒だったのかも知れないわ』
スカーレットが厳しい表情を浮かべて首を振った。コニーは思わず眉を寄せる。
「……どういうこと?」
『アイシャの従姉が嘘をついていたとしたら? 小瓶の中身は、もしかしたら痩せ薬ではなくて、ジャッカルの楽園だったのかも知れない。あの手の幻覚剤は使い過ぎると食欲も落ちてくるし、何日でも起きていられるそうよ。そんな状態が続けば誰でも痩せていくでしょうね。アイシャだって針のような体だったじゃない。それに、薬も過ぎれば毒になるのよ。一滴で充分な効果があるものを全量入れたんでしょう? 致死量になっていてもおかしくないわ』
そこで初めて、スカーレットの顔が迷子のように心許ないものになる。おそらくハクスリー邸を出てからずっと考えていたのだろう。彼女はわずかに視線を落とすと言葉を漏らした。
『……十年前の出来事は、すべて、偶然が引き起こしたことだったのかも知れないわ。だとしたら、わたくしは―――』
「―――たとえ始まりがそうだったとしても」
きっぱりとコニーは言い切った。
「スカーレットの部屋に毒瓶を置いた人がいる。耳飾りをすり替えた人も。それにリリィさまのことも、【
スカーレットが顔を上げた。ぱちくりと不思議そうに目を瞬かせている。
「復讐だってぜんぜん終わってないじゃない。いい、スカーレット、私はね―――」
コニーは、出会ったばかりの頃に叩きつけられた理不尽な言葉を思い出していた。
―――助けてあげたんだから嫌とは言わせないわよ。
―――いいこと、コンスタンス・グレイル。
「私は―――私の人生をかけてスカーレットの復讐を成功させないといけないんだからね!」
あの日から、コニーの運命は変わったのだ。
いつかの彼女のように腰に手を当て自信満々に宣言すれば、スカーレットは呆気に取られたように固まった。
『……お前、たまには良いことを言うじゃないの』
それから、ふ、と笑い声を漏らす。
『―――コニーのくせに、生意気よ』