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十年前、アイシャの世界の中心はスカーレット・カスティエルだった。
高貴な身分。類稀なる美貌。中でもアイシャを惹きつけたのは、彼女の苛烈さだった。敵だと見なせば老若男女問わず嘲笑し、毒を吐き、切り捨てていく。当時の社交界でそんなことをして許されたのはスカーレットくらいだっただろう。
エンリケ殿下との婚約が発表されたのは、彼女が十二の時だった。殿下とスカーレット、そしてリリィ・オーラミュンデを含めた三人は幼い頃からの顔見知りだった。いわゆる幼馴染みというものである。さらにカスティエルという身分を考えれば、殿下とスカーレットが婚約するのは当然の流れとも言えた。
確かに、スカーレットと殿下の仲は決して良好ではなかったかも知れない。エンリケ殿下はその儚げな外見のまま繊細で、生真面目で、そして優しかった。スカーレットの行動が度を超す度に、真っ先に諫めるのはいつも殿下の役目だった。もちろん、あのスカーレットが黙って頷くわけがない。その場で激しい口論になることも多々あった。
けれど、ずっとスカーレットを見てきたアイシャは、何気ない会話で笑い合う二人を知っていた。恋人のように甘い関係ではなかったが、どこか姉弟のような気安さがあった。そんな二人に、アイシャはずっと憧れていたのだ。―――なのに。
なのに、あの女が現れた。
セシリア・リュゼ。泥臭い田舎女の癖に、瞬く間にエンリケ殿下の心を奪っていった。きっかけは殿下がお忍びで出掛けた城下街。人気のない路地裏で暴漢に襲われていたところを、たまたま通りがかった殿下が助けたのが始まりだったという。
まるで安っぽい大衆小説のような出会い―――
けれど、誰が見てもエンリケ殿下はセシリア・リュゼにご執心だった。
ただし、アイシャの見る限りきちんと一線は引いていた。殿下は生来真面目で良識のある方だ。その心のうちはともかく、あの頃は、あくまでも親しい友人の一人としてつき合っていたのだと思う。
むしろ、悲劇の恋を成就させようと必死だったのは無責任な周囲の方だった。
身分違いの恋の噂はあっという間に広がっていった。
もともとセシリア・リュゼがエンリケ殿下に近い存在だったことは事実だし、何よりスカーレットの行動もよくなかった。あそこまでやるということは、きっと真実なのだろう―――単なる噂がそんな風に現実味を帯びてしまったのだ。おそらくスカーレットの方は純粋にセシリア・リュゼが気に食わなかっただけだろうが。
その結果、まるで殿下とセシリア・リュゼが本当に秘密の恋人同士であるかのような状況が出来上がってしまった。
アイシャは焦った。このままでは、本当にセシリアと殿下が恋人同士になってしまう。そう思ったのだ。
何か―――何か、行動を起こさなければ。
そんな時、つい最近一緒にお茶をした母方の従姉の言葉を思い出した。
久方ぶりに会ったふくよかな従姉は、ずいぶんと痩せていた。
驚いたアイシャがどうしたのかと訊ねると、胸元から小瓶を取り出し、痩せる薬を飲んでいるのよ、とこっそり教えてくれたのだ。
「異国の気つけ薬らしいんだけどね。すごい効果でしょう。お母さま達には内緒よ? ほんの一滴でいいの。たくさんだと体を壊すから」
―――体を、壊す。
それはとても魅力的な言葉に思えた。
セシリア・リュゼは生まれつき体が弱いと聞いている。もし体調を崩せば、領地に帰らざるを得ないのではないだろうか。リュゼ領はメルヴィナとの国境沿い。王都からは遥かに遠く、滅多なことでは会えなくなる。
アイシャはすぐに適当な理由をつけて従姉の元を訪れた。他愛のない会話をしながら、
けれど、化粧台に順序良く並べられていた香水に紛れるようして例の小瓶を見つけてしまった。迷ったのは一瞬だった。従姉の目を盗んでそれを懐に入れると、眩暈を起こした振りをして残りの香水を腕で払って粉々にした。血の滴る腕を見て従姉は悲鳴を上げ、すぐに使用人が駆けつけた。
それからしばらく経って、アイシャは、偶然にも母に連れられてリュゼ邸を訪れることとなったのだ。
スカーレットの服装を真似ることは、人付き合いが苦手なアイシャにとって身を護る武装のひとつだった。母親から釘を刺されたため衣装は諦めたが、装身具は譲れなかった。何回か前の夜会で彼女が身につけていた月虹石の耳飾り。あれを模したものを選ぶ。職人からは脆いから取り扱いに気をつけるようにと言われていたが、金属の台座部分が緩くなっていたことには気がつかなかった。
リュゼ邸でも、やはり、アイシャは空気だった。母と子爵夫人の話は盛り上がり、アイシャが席を外していても気づくことはなさそうだった。
邸内には驚くほど使用人が少なかった。リュゼ家が領地から出てくるのは当代になって初めてだと言うから勝手がわからないのかも知れない。そう思った。けれど、そのお陰でアイシャの姿は誰にも見咎められずにすんだ。
それでも、いざ水甕の前に立つと迷いが生まれた。その瞬間までセシリア・リュゼを害することしか考えていなかったが、この方法ではセシリア以外にも被害が出る可能性がある。そのことに気がついたのだ。
けれど、躊躇ったのは一瞬だった。
だって、死ぬわけではない。
これはただの痩せ薬だ。おそらく下剤のようなものだろう。ちょっと効き目が強いだけ。
アイシャは自分に言い聞かせた。
これはスカーレットのためなのだ。スカーレットならそうしたはずだ。スカーレットであれば―――
こうすれば、スカーレットに、なれる。
アイシャは震える指で蓋を外すと、小瓶の中身を甕に垂らした。
◇◇◇
「毒だなんて知らなかった。お姉さまはただの痩せ薬だって、そう言っていたんだもの。確かに耳飾りは落としてしまったけれど、貴女の部屋に毒瓶を隠したりなんてしていない。そんなこと、私にできるわけないじゃない……!」
仕込まれていたのは毒だと聞いて、心臓がとまるほど驚いた。けれど同時に、すぐに容疑は晴れるだろうと思っていた。アイシャが落としたのは月虹石ではなく白銀貝だ。
それなのに耳飾りはスカーレットのものだと断定され、彼女の部屋からは使いかけの毒瓶が出てきた。一体何が起こっているのかわからなかった。
そして―――今も。
今も、何が起きているのかわからない。だって目の前にいる少女はコンスタン・グレイルだけれどそうではない。あれはスカーレットなのだ。アイシャにはわかる。
もちろん現実の彼女はもう死んでしまっている。処刑されてしまったからだ。十年前に、サンマルクス広場で。
あの日、アイシャは屋敷で震えながら女神の奇跡を祈ることしかできなかった。
「嘘じゃない! あの時使った瓶はまだ私が持っているの! 調べれば、中身はただの痩せ薬だってわかるはずよ。私のせいじゃない! だからお願い、許してスカーレット―――」
声を震わせて懇願すると、スカーレットは静かに呟いた。
「許す?」
それから片眉を器用につり上げて、品定めをするかのように目を細めた。
「ならば、なぜお前は自分の罪を告白しなかったの?」
アイシャの体がびくりと強張った。
「仕込んだのが毒であろうとなかろうと関係ないわ。だってお前はわたくしが無実であることを知っていたのだから。お前の犯した罪のせいで、わたくしは処刑されたのよ」
「あ、あなたのためだったの! あなただって、きっと、機会さえあれば同じことをしたでしょう? だから私が代わりに―――」
「―――わたくしは」
遮るように、スカーレット・カスティエルが口を開いた。
「たとえ死んでもそんな無様な振舞いはしなくてよ」
その言葉に、思わずはっと息を呑む。
「十年前に起きたことはすべて、お前が、お前自身のためにやったことでしょう。わたくしを言い訳に使うだなんて身の程を知りなさい」
そうだ。その通りだ。アイシャは呆然として、彼女を見た。
「わたくしになりたいと言ったわね、アイシャ・スペンサー。特別にもう一度だけ教えて差し上げる」
そう言うと、スカーレット・カスティエルは微笑んだ。
「―――お前、わたくしを、一体誰だと思っているの?」
それはひどく傲慢で、気高くて、そして、この世の何より美しい微笑みだった。